8.土塊の御使い
黄緑の草原が、柔らかな風に撫でられていく。周囲には、まばらに立つ淡い新緑の木々。
野を歩む良一は、白いローブの上、高い背に踊るつややかな桃色の髪を追っていた。
行き先―― そんなものがあるのかもわからない果て無いまでの大自然、手つかずの雄大さ。それはまるであの家の扉の内と外、そこにもう一つの異世界との境がある、そんな錯覚さえもを良一に感じさせる。
数メートル前には、今にも暢気な鼻歌が聞こえてきそうな足取りの、彼女の後ろ姿。良一は呆れるように天を仰ぎ―― はたと足を止め、空へと呟く。
「……わけがわかんねぇな、異世界ってのは」
「ん? どうしたの? リョウちゃん」
ステラがくるりと振り返るも、良一は首を振り、なんでもない風を装って歩みを促した。
この世界の空には、太陽が無かった――
時に異常が過ぎて気づかない、異なる世界の理。良一は浴びる陽光にまた一つ首を振り、ステラのあとに続く。
さくり、さくり。踏みしめる草地が音を立てる――
楽しげに、リズミカルに揺れる桃色の髪の後ろ、ただ黙して良一は歩む。
良一は、考える。帰りたくないとはどういうことなのか。それが自分の本心なのか。
良一は、考える。自らの境遇、しがみつこうとしていた『現実』。しがみついても仕方の無い、抵抗できない『現実』。
踏みしめられる草地が、音を立てる――
見ようとする未来は暗く、歩み、持ち上げる足取りのように重い――
「リョウちゃん?」
うつむき歩んでいた良一は、はっと顔を上げた。
知らず追いついていたのか、気づけば間近に自分を覗き込む彼女の顔があった。それはこの数日で初めて見る、陽の光に雲がかかったような表情――
その顔に理由の知れない焦りを感じた良一は、思わずと手を振って言葉を置く。
「なぁステラ…… これってただの散歩か? それとも何か、やりに行くのか?」
良一を連れ出す時、ステラは「どこか広いところがいいかな」としか言わずにいた。口先だけで言ったこととはいえ妥当な質問が功を奏したのか、ステラの表情が柔らかいものになる。
「うん、リョウちゃんがただのお散歩にしたいって言うならそれでもいいけど、今日はちょっと運動しようかなって思って」
その表情の変化になぜかほっとした。そんな気持ちを誤魔化すように、良一の思考は斜に構える。
「運動? なんだよ、さしずめ体育ってか?」
向ける胡乱な瞳。おどけ気味に言えたその言葉に、ステラは顎に人差し指をあて、考える仕草を見せた。
「……ねぇリョウちゃん。リョウちゃんって何か得意な運動ってある?」
「うん……?」
聞かれて思い浮かべて見るも、良一には浮かばなかった。
代わりに思ったのは弟の恭次のこと。二つ年下の弟は、記憶にも薄い本当に小さな頃、前の実家の近くで少年野球をやっていたことがある。だが当時良一はピアノばかりやっており、まったく興味を持たなかった。中学に入ったあとも、面倒だからという理由で部活には入っていない。
得意な運動―― 専門的に誰かに習ったような、体を使うことで、自信のあること。答えになるのかはわからないが、たった一つだけ思い当たったそれを、良一は口に出してみる。
「強いて言うなら…… 戦い、かな……?」
音になった言葉に、失敗を感じた。すらりと伸びる真白なローブに、長い髪を揺らす柔和そうな琥珀の瞳。見るからに、知るからにそういった野蛮なものとは縁の無いだろうステラ。彼女を前に出してしまったその答えは、まるで場違いで、低俗で、子供染みたもののようで―― 良一はその気恥ずかしさに咳払いにも似たため息を吐き、視線を逸らした。
「そうなんだ! じゃあそうしましょうか!」
「へ……?」
ぽんっと手を打つ音、いつもと同じ楽しげな笑顔。呆けた良一をよそにステラが背中を向け、たたたっと草原を数歩と走っていく。
「うんうん! 場所も丁度いい感じ! 早速始めましょう!」
背中を向けたまま楽しそうにそう叫んだステラが、右手を高く掲げる。そして彼女は指を立てると腕を前方に倒し、つぃーっと黄緑の地平線をなぞるように腕を横に振った。
程なく――
「っ……!?」
良一の足裏に震えが生じ、ステラが指さす先に異変が現れた。
ボゴボゴと地面より持ち上がる緑の地と、その下の土。それは高く高く、うずたかい塊へとなっていく――
「あ…… あれは……?」
良一と異変の間に立っていたステラが、再びたたたっと横へと走っていく。人形くらいの大きさにまで離れた彼女は、振り返って良一に大きく手を振った。
「出来たよー! 頑張ってー!」
「な、なにぃっ!?」
明るい笑顔で楽しそうに手を振るステラ。
彼女から異変へと目を戻すと、それは人の形を成し―― 土塊の巨人として完成されていた。
「ちょっ…… おまえ……! 何考え……!」
「ゴー!」
「ゴーじゃねぇだろ―― うぉっ!?」
上から下へとぶんっと振り下ろされたステラの右腕。それに合わせて起こった地響きに、良一の体がよろめく。
彼方に見えていた、巨大な人型が疾走を始めていた。
遠目に、小さく見えていたその体。それは急激に加速し――
――……っ!?
ビデオの早回しのような、冗談めいたスピードで眼前へと立つ。
体高約十メートル。あっという間に現れたその様は、一瞬にして目の前に壁が建設されたようだった。
「なぁっ……!?」
巨人の接近により叩き付けられる正面からの突風。すぐさまに噴き上げる、上昇気流――
「ちっ……!」
轟音―― 良一が立っていた足元を吹き飛ばし、草地に巨人の右腕が突き刺さっていた。舌打ち一つ、上空へと跳び逃れていた良一。巨腕が掲げられてから落ちるまで、瞬きを許さない秒間の振り下ろしだった。
――なんだこいつ……!
宙に浮く良一を目がけ、続き容赦無く迫る横殴りの左腕―― 腕を交差させた良一は、その衝撃を正面から受け止めた。空中でのガード。赤黒い魔力を放射し、その超重を衝撃もろともに押し返していく。
「なめんなぁっ……!」
良一は魔力を滾らせ、互いに押し合う鍔迫り合いのような状態から、滑るようにゴーレムの胸元に入り込む。
拳、蹴り、拳―― 魔力とも闘気ともつかない気迫とともに放たれる乱打の奔流が、打音とともにゴーレムの巨躯を揺らし、その体勢をよろめかせる。
胸元から上空へと飛び上がった良一は、巨人の顔面へと回し蹴りを叩き込んだ。
草地に砂煙を上げ、耳をつんざく地響きとともに倒れ込むゴーレムに―― 良一は、拳を握りしめる。
全身からは魔力が噴き、喉から肺には、心地良い急速な呼吸の痛み。
――この、感覚は……
沸き上がってくる力。涼しさをも感じる冴えた頭と、胃の腑を熱くする闘志――
無気力とはほど遠い、何かスイッチの入ったような感覚が、そこにあった。
「へっ……!」
鈍重な見た目を感じさせない、軽やかな身のこなしで起き上がるゴーレム。その様子に、良一は笑みを漏らす。
「頑張って~! リョ~ウちゃ~ん!」
振り返り見下ろす彼方には、間延びした声援を送るステラ。
――あんたほんとに…… 何者なんだよ……
笑みを強めた良一は――
「うらあああああああぁっ!」
本能の命じるままに咆吼を上げ、巨人へと突撃していった――
草原にぐったりと、荒い息を吐きながら大の字になった良一。
彼の周囲には、無数の穴と巨大な土塊の残骸が広がっていた。
「お疲れ様、リョウちゃん」
黄色いプラスチック製の可愛らしい水筒が、彼の眼前に差し出される。分捕るようにそれを受け取った良一は、倒れたままに蓋を開け、中身を呷った。
「……っ、ぶはっ!」
「あらあら、そんな飲み方だとこぼれちゃうよ?」
首元にこぼれた中身―― 食事の時にお馴染みな麦茶をぽんぽんとタオルで拭ってくれるステラ。土塊との大暴れであちこち汚れた今、正直意味の無い行為だと良一は思った。
ステラの作り出したゴーレムは、途方も無い代物だった――
初めての異世界。苛烈だったその世界で得た力は比類無く、後の全ての異世界で、彼を真正面から脅かすような力を持った者はいなかった。訪れる世界により力が鈍る。理由のわからないその事実を実感していてさえも、誰かを脅威に思うようなことはなかった。
そんな良一が、打倒に苦心を抱いた。それもたった一度の戦闘で、これほどまでに体力を消耗させられた。
それはこれまで良一が訪れた世界で言えば、たった一体で世界を終わらせてしまうような、破滅的な化け物以外の何者でもない。
「……なぁ、ステラ」
破滅的な化け物。それを気軽に呼び出し、そして、意のままに使役して見せたステラ――
「うん? なぁに?」
「いや…… いい運動に、なった……」
「うん、楽しそうだったね」
良一は空を見上げ、にんまりと笑っていた。
そんなものを使役できる―― その危険性を、良一は不思議なくらいに何とも思わなかった。普通に考えれば危険極まり無い、無茶苦茶なことをさせられたようにも思う。だが、殺気や邪気、そういったものを何も感じなかったせいなのか、ゴーレムとの戦いは清々しい、いい運動だったようにさえも感じていた。
「ステラ、タオルくれ」
上体を起こした良一はタオルで汗を拭い、改めて麦茶を喉に流した。体を通っていく冷たい感覚。草原を抜けて行く風が、もっと小さな、まだただの子供だった頃のように、涼しく、心地良かった。
ステラと並んで座る、何も無い、自然だけがある草原。吹く風は穏やかに駆け抜け、やがて静かになった。
「う~ん……」
「……? どうした?」
唐突に、ステラが顎に手を当てて首を捻り、思案顔になる。わざとらしくも真剣っぽい珍しい表情に、良一も珍しく彼女に顔を合わせた。
「……ねぇリョウちゃん? ひょっとして…… なんだか戦い難かった?」
「え……?」
少し、意外に思った。ステラがさっきの戦いについて何かを言う、そんな考えが良一の頭には無かった。
「リョウちゃんを見ててね? なんだかちょっと迷ってるかな~とか思ったの。気のせい?」
そして更に意外だった。そういえばと、心を読めるのではないかと考えていたことを思い出す。だが今は、彼女に言い当てられたままに、素直に返そう、そう思えた。
「……剣が、無いんだ」
「剣?」
「おれが習った戦い方は剣だけだ。そっからはずっと剣で戦ってきた。あんまり上手くは無いけど、でっかい魔物とは剣で戦う癖が染みついてる。持っていないとリーチがよくわからないんだ。だからおれの動きが悪く見えたならそのせい。ステラには…… わかんねぇかもしれないけど……」
素直に―― そう思って言葉を紡いでみるも、微笑みとともに見つめてくる彼女と話していると歯切れは悪くなっていく。ステラに対して戦いについて語る。それは何かオモチャについて熱く語るような、なんとも言えない気恥ずかしさがあった。
「そうなんだ~…… 剣かぁ~……」
「ああ、あと…… それと、なんていうか…… バリア? 前に出来たはずのことが出来なくなってるんだ。なんで出来なくなったのか、全然わかんねぇんだけど……」
ちらちらと横目でステラを見る。再び思案顔の彼女。重ねた言葉は不必要だったように思えた。剣にしろ『壁』にしろ、言ってみたところで彼女には興味がありそうにも思えない。
「ま、まぁいいよ、電気も水道もある世界で剣なんて――」
「じゃあ! 行きましょうか!」
「へ?」と間の抜けた声を発する良一をよそに、ステラが立ち上がる。
「リョウちゃんにぴったりの剣! 作ってもらいに行きましょう?」




