7.静けさの施すもの
業火に煙を噴く町を、無表情に歩む――
手には白刃が握られている意識があった。
蠢く白い魔物を、斬って斬って、ぶった斬る。同じような恰好をした青い魔物も、緑の魔物も、出会って即座にぶった斬る。
言葉は必要なかった、想いも必要なかった。痛みも、思考も、何もかもを理性に従わせ、現れるもの全てを斬り伏せていった。
町の路地から、杖をついた老人が躍り出る。
『貴様らに! 呪いあれ! 必ずや復讐を――』
――生意気な。
地面を蹴り、一足飛びに老人へと飛びかかり、縦に割った。
――そうだ…… あの子を助けなければ。
ふと、そんな想いが湧き、飛ぶように町外れへと走る。
『オヤ? 勇者サマ……』
白いヒト型の塊達、そいつらをあっという間に斬り捨てる。
――あれ……?
「あの子」が、いなかった。草地に倒れているはずの、「あの子」。
――まさか、間に合わなかったのか……?
焦燥感にかられた意識が、背後に気配を察する。
『言うことを聞かぬのであれば、ただの役立たずだな』
――……!
振り返った先には、紫に目を光らす赤鬼の姿があった。
その隣には――
『もう用済みです、追い出してしまいましょう』
青いドレスを纏った、少女の姿があった。
――ま、待ってくれ……!
少女がこちらに向け、ゆっくりと指を差す。
赤鬼が―― 憤怒の炎を噴き上げながら迫り来る――
「……っ!?」
見開いた目に、暗がりの天井が映った。
背中に張り付くシャツの感触と、首筋に垂れる汗の感覚。
――夢…… か。
ベッドから身を起こした良一は、そこがステラにあてがわれた自室であることに気づき、ため息を吐く。
「なんだよ…… それ……」
良一は跳ねる心臓の音を自身に誤魔化すように、再びベッドに横になった。ひやりと寝汗が、脱力と不快感をもたらした。
過ぎ去ったはずの記憶。最早憶えている意味の無い、誰知る者もいないはずの記憶。そんな記憶は時に混沌と混濁を持ちより、夢として彼を傷つけるようになっていた。
パチリと、良一はベッド脇のテーブルに乗るスタンドの照明を点ける。
「くそ……」
すぐさまに眠りの世界に戻る、その気にはなれなかった。まざまざと見せられた悪夢。今眠りに落ち、その続きを見せられる―― それはごめんだった。
良一はベッドに寝そべったままで窓の外を見る。見てしまった悪夢の再来を防ぐため、気分を変えられるようなものがあればとは思うが、ここには無い。
仕方無く良一は暗い窓の向こう、空に浮かぶ月に目を凝らした。
――月。
その天体は星々とともに輝き、良一の世界と等しく丸く、白い明かりを放つ。
今の自分ならば行けるのだろうか、そんなことを思ってみたこともあるが、さすがに試すことはなかった。化け物のような自分にも、出来ないことがあるのだとわかっていた。
多数の異世界を渡り、その気になれば自らの世界、そのほとんどを潰してしまえるだろう力を持った少年――
そんな彼が今求めるものはたった一つ、悪夢を見ず、再び眠りにつくことだけだった。
「どうすりゃいいんだ……」
何一つ抗う術は無く、誰一人頼れる者もいない、『夢』というもう一つの現実。
見る見ない、選ぶことも出来ない悪夢の訪れ。今を避けられたとしてそれはいつまで続くのか。良一にとっては、一生に思えて仕方無かった。
少なくとも、『異世界』と繋がり続ける限りは――
「……やっぱりこのままじゃ、ダメか」
光と静寂。寝具から仄かに香る柔らかな匂いに誘われ、意識は落ちていく。
幸いと、良一が悪夢に戻ることはなかった――
「い~い? リョウちゃん。物にぐ~っと力を加えて、その力を加えた方向に動かすことを『仕事』って言うの」
両手を前に、桃色の髪を揺らしながら空気を押すステラ。
昨日までと変わらず続く授業。五日目の今日、科目は理科だった。
「普通に使う言葉とはちょっと違うんだけど、呼び方はこっちも『仕事』で~、こっちの『仕事』はとっても厳しいの」
すっかり定位置となったソファーの下に座った良一は、発行元もわからない、なぜか日本語で書かれた教科書を手に彼女の解説を聞いていた。
「動かそうとした物が実際に動いていないと、『仕事』した~! ってなってくれないの」
朗らかなジェスチャーを交えた小学生に向けたような教え方。最初は馬鹿にされているように思えたが、彼女の授業は不思議なほどわかりやすく、良一も習い早々に文句を挟まなくなっていた。
丁寧でいて、良一の理解を第一に考えてくれているようなステラの授業。こんな異世界であれ、こんな奇妙な個人授業であれ、これまで良一はある程度以上の真剣さをもって彼女の授業を聞き続けていた。
だが――
――いつまでおれは、こうしているつもりなんだろうか?
今日の良一は教科書に向かい、目をぼやかせているだけだった。
彼の両耳の横を、彼女の言葉がすり抜けていく。
「――でもこれは動いてさえいれば道具を使ったりしても『仕事』の量は一緒でね、これを『仕事の原理』って言って……」
――どうしておれは、こんなことをやっているんだろう?
良一の中、流されるままに任せていたはずのこの世界での自分に、今更な疑問が生まれていた。
『このままではいけない』。昨夜そう思ってからその思いは消えず、そしてその思いが、新たで複雑な想いを作り出していた。
――どうして、『このままじゃダメ』なんだ……?
「……リョウちゃん?」
呼びかける声に視線を上げると、ステラが首を傾げていた。
はたと良一は顔を上げ、ステラと目を合わせる。
「お、おう…… なんだ?」
ぐぐいっと、ステラの脚が彼女の上半身を前方向に『仕事』する。
む~っという若干膨れた感じで顔を寄せてくるステラに、良一は教科書を盾にするようにしてソファーに背を預けていく――
ステラの顔が、ぱっと笑顔に変わった。
「今日はヤメときましょう、お昼にしましょうか」
「え? あ……」
ひょいっと良一の手から教科書を抜き取り、ステラはテーブルの上のノートや筆記用具を片づけて立ち上がる。
「ねぇリョウちゃん、お昼親子丼でい~い?」
「あ…… うん……」
曖昧で、今の自分にはらしくないと思う子供っぽい返事。聞いた彼女はニコリと笑って彼の背中越し、勉強道具をしまってあるらしい部屋へと向かった。
パタンと静かに閉まる、背後の扉の音を聞きながら良一は思う。
――そうか…… おれはいつの間にか……
『このままではいけない』、そう思い、意識したからこそ、今更に良一は自覚した。
彼女やこの世界への問いを仕舞い込んでしまった自分。流されるままにしてみようとし、流されるまま、本当に何もしてこなかったこの五日間の自分。『現実』に戻ったところで今更なんの役に立つのかわからない、そんな受験勉強に意味を見いだしていた自分。
――ここから、帰りたくなくなっていたんだ……
良一は、白いカーテンの揺れる窓を眺める。
窓の向こうからは緑輝く草原からゆるやかな風が吹き込み、陽はフローリングに温かく反射する。そして、何一つの動きを感じない、静寂――
住み始めて五日。初めて見た時から、何も変わらないリビングの風景。若干の慣れとともに、印象のみが少し変わっただけのリビングの風景。
改めて見るこの空間は、平穏、平和――
――……あれ?
違和感を感じた。
ぐるぐると回っていた、ずっと回り続けていたはずの頭が今は止まっている。
地獄からの帰還、それ以来の放浪の月日。その間、車輪を回すネズミのようだった頭の中が、静かに止まっていると感じた。
静寂という背景に重ね置かれたような、音を立てない風景。見つめれば看過されるように思考が静まり、思考は自身に語りかけることを止める――
――……!
ふいに腹から全身へと、じわりと何かが膨れあがるように広がった。
それは全てを包み込むような安心―― 幸福感だった。
「リョウちゃん」
カチャリと背後に音が立ち、良一ははっと振り返る。
「……? どうかした?」
扉から顔を覗かせたステラが、驚いた風の良一に小首を捻っていた。
「あ、いや…… 何?」
しびれにも似たその感覚を振り払うように、良一は首を振って顔を逸らす。柄にもなく、表情が緩んでいるような気がした。
「ねぇ、リョウちゃん。お昼ご飯食べたら、お外行きましょうか」
「え……?」
外―― 初日以来、一度も出ることのなかった外への誘い。
思わずと視線を戻した彼女の顔は、いつもと同じ穏やかでいて、楽しげな――
日だまりのような微笑みだった。




