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玄人仕事  作者: 千場 葉
#10 『プロフ・ワークス』
325/375

5.黄昏の奏


 ノートの上を、シャープペンシルが走る。

 時折止まり、時折(せき)を切ったように動き、数字や記号、アルファベット、日本語を交え、数行に亘って文字が書き込まれていく。


「……出来…… た……!」


 最後の一行を記し、良一は知らず声を漏らしていた。

 地べたに座ってかじりつく低いテーブルの前には、微笑みと共にソファーから見下ろすステラがいる。だが彼女に確認を取るまでもなく、良一は『正解』だと確信出来ていた。


「すごいリョウちゃん! がんばったね!」


 褒めるステラの声に、良一は隠そうという意識すらも忘れて笑みをこぼしていた。

 ノートに記された数節―― 数学の証明問題の答え。それは『病気』に追われ、最早周りについて行けなくなっていた彼の学力の、わずかな挽回の証だった。

 そのままの彼であれば今も出来ていた、過去には出来ていたはずの易しい数学の解答。憶えたはずの公式は異世界の知識に置き換えられ、繰り返したはずの解き方は異世界での経験に塗り替えられ、失われていったただの中学生としての自身。

 こんなものでは全く足りない。こんなものが今更出来ても、まるで今の授業について行くことは出来ない。

 それがわかっていても――


 ――出来る…… ちゃんと出来るんじゃないか……!


 良一は、嬉しかった。

 例え小さくとも、『現実』との溝が埋まったようで、嬉しかった。


「じゃあ今日は、ここまでにしましょうか」

「ここまで……?」


 ステラの向いた方向に、良一の首が動く。キッチンカウンターの上の壁に掛けられた丸い時計が、十五時を示していた。


「もう…… いいのか?」

「まだやりたい?」


 微笑みとともに小首を傾げるステラ。きっとやりたいと言えば、まだ続けてくれるのだろうと良一にはわかった。


「……いや、そろそろ学校なら終わる時間だし、今日はもういい」


 横を向いてそう言った良一に、ステラが「うん」と頷く。


「それじゃ洗濯物取り込んでくるから、ゆっくりしててね」


 言い残し、パタパタとスリッパの音を立てながら、ステラがリビングから玄関側へと出て行く。

 玄関への扉が閉まる音。良一はソファーへと座り直すと、マグカップに残るコーヒーを口にした。

 広く、静かになったリビング。冷めた液体が喉を通る感覚に、良一は一つ息を吐く。


 ――馬鹿か、おれは……


 低いテーブルに置かれたままの、ノートや教科書を眺める。

 本心ではもう少し勉強を続けたいと思った。だが、彼の理性はそれを許さなかった。


 ――こんなことをしていて、何になる。


 リビングからステラがいなくなった。たったそれだけの空気の変化が、彼を急速に『現実』へと引き戻していく。勉強の延長を断った、そんな『現実的』な理性が、今は尚更に正しく思えた。


 ――今更勉強したって…… 授業について行けたって、なんの役にも立たねぇだろう……


 「『病気』がある以上、何をしようと無駄」――

 ここ数ヶ月と片時も離れなかった考えが、いつものようにまとわり付く。


 それが彼の『現実』で、動かしようのない事実だった。

 初めて異世界と関わり、過ぎ去ってしまった春から夏の日。その後も続き、今も続く奪われていく日々。

 幸いと、月をまたぐほど長期間のものは春以来無かった。異世界によっては、過ごした数日が彼の世界でのたった数時間だったこともある。

 だが例えそれがどれほどの期間であれ、その間良一は彼の世界から()()()()()のだ。


 一時の悪夢、置かれてしまう空白の時、現実との(かい)()

 数日であればいい、数ヶ月でもまだ救いはある。だが、もし数年となれば――


「くそっ……」


 気分が、(よど)む。生温い鉛を着込んだような感覚が、気力を奪っていく。失われていく気力と裏腹に、滔々(とうとう)と溢れ出す淀んだ思考の渦。

 無駄、無意味―― 袋小路を基点に(つむ)がれ始める、脳内の独り言。

 それは自身の思いであるはずが、別の誰かが好き勝手を言っているようにコントロールが利かない。まるで黙ることを、考えないことを拒ませるように、誘うような心地良さすらも持って、自傷と自嘲を羅列する。

 己の無価値を訴えるような思考の呟きに、削り取られるように力を失っていく体。ソファーの背もたれに、身が沈みこんでいく。

 瞳がおぼろに、ただ前方を見つめる。そこにほんの数分と前、束の間の喜びを覚えたテーブルの上が映った――


 ――ステラは()()()()を、どこから持ってきたんだろう……


 苦悩苦痛の現実。視覚の反射だけで切り替えた思考は、伏せていた今更な「不自然」へと逃げ道を探した。

 幾種類もの『日本語』のテキスト達。我が身を見れば、今着ている服も学生服ではなく、いつも家で着ているような黒のスエット。

 軽く首を振って改めた目には、馴染んできたリビングや、キッチンテーブル、その向こうのキッチンが映る。

 昨日の昼、夕。今日の朝、そして昼。ステラとここで食べた料理は、どれもこれもが良一のよく知る、母親の味だった。


 何もかもが、おかしい。何もかもが、疑問。

 心を読んでいる。そんなレベルではない不可思議な作為が、ここにはある。

 だが――


 ――どうでも…… いい……


 良一は再びソファーに沈み込み、目を閉じた。

 目の前の疑問が気にならないわけではない。追究すべきだとは、わかっている。

 ここで重い思考に沈んでしまうよりも、ずっと前向きで建設的なことだとは、わかっている。


 わかっている。しかし、そうする気にはなれないでいた。

 そんな自分がわからない、そんなことも――


 ――どうでも…… いいんだ……


 今は、(まぶた)の裏に伏せた――






 温かさと、わずかに感じる振動。

 そして軽やかに響く、笛の音にも似た一筋のメロディー。


 ミカン色に輝く光の中、うっすらと目を開く。


 ――あ……


 瞳に映ったのは、自分を見下ろす女の姿だった。

 白いローブを陽に染め、桃色の髪が木漏れ日のように輪郭を輝かせていた。


「おはよう」


 目を開けた良一へと、贈られる言葉。

 かけてくる微笑みは、光に溶け込むように美しく―― 優しかった。


「ここ、には……」

「うん?」


 後頭部から首筋には、柔らかく温かな感触がある――


「朝日も夕陽も…… あるんだな……」

「……うん」

 

 それだけを呟いて、良一は再び目を瞑った。




 あとには身を照らす宵までの光と、


 ステラの静かな歌声があった――


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