5.黄昏の奏
ノートの上を、シャープペンシルが走る。
時折止まり、時折堰を切ったように動き、数字や記号、アルファベット、日本語を交え、数行に亘って文字が書き込まれていく。
「……出来…… た……!」
最後の一行を記し、良一は知らず声を漏らしていた。
地べたに座ってかじりつく低いテーブルの前には、微笑みと共にソファーから見下ろすステラがいる。だが彼女に確認を取るまでもなく、良一は『正解』だと確信出来ていた。
「すごいリョウちゃん! がんばったね!」
褒めるステラの声に、良一は隠そうという意識すらも忘れて笑みをこぼしていた。
ノートに記された数節―― 数学の証明問題の答え。それは『病気』に追われ、最早周りについて行けなくなっていた彼の学力の、わずかな挽回の証だった。
そのままの彼であれば今も出来ていた、過去には出来ていたはずの易しい数学の解答。憶えたはずの公式は異世界の知識に置き換えられ、繰り返したはずの解き方は異世界での経験に塗り替えられ、失われていったただの中学生としての自身。
こんなものでは全く足りない。こんなものが今更出来ても、まるで今の授業について行くことは出来ない。
それがわかっていても――
――出来る…… ちゃんと出来るんじゃないか……!
良一は、嬉しかった。
例え小さくとも、『現実』との溝が埋まったようで、嬉しかった。
「じゃあ今日は、ここまでにしましょうか」
「ここまで……?」
ステラの向いた方向に、良一の首が動く。キッチンカウンターの上の壁に掛けられた丸い時計が、十五時を示していた。
「もう…… いいのか?」
「まだやりたい?」
微笑みとともに小首を傾げるステラ。きっとやりたいと言えば、まだ続けてくれるのだろうと良一にはわかった。
「……いや、そろそろ学校なら終わる時間だし、今日はもういい」
横を向いてそう言った良一に、ステラが「うん」と頷く。
「それじゃ洗濯物取り込んでくるから、ゆっくりしててね」
言い残し、パタパタとスリッパの音を立てながら、ステラがリビングから玄関側へと出て行く。
玄関への扉が閉まる音。良一はソファーへと座り直すと、マグカップに残るコーヒーを口にした。
広く、静かになったリビング。冷めた液体が喉を通る感覚に、良一は一つ息を吐く。
――馬鹿か、おれは……
低いテーブルに置かれたままの、ノートや教科書を眺める。
本心ではもう少し勉強を続けたいと思った。だが、彼の理性はそれを許さなかった。
――こんなことをしていて、何になる。
リビングからステラがいなくなった。たったそれだけの空気の変化が、彼を急速に『現実』へと引き戻していく。勉強の延長を断った、そんな『現実的』な理性が、今は尚更に正しく思えた。
――今更勉強したって…… 授業について行けたって、なんの役にも立たねぇだろう……
「『病気』がある以上、何をしようと無駄」――
ここ数ヶ月と片時も離れなかった考えが、いつものようにまとわり付く。
それが彼の『現実』で、動かしようのない事実だった。
初めて異世界と関わり、過ぎ去ってしまった春から夏の日。その後も続き、今も続く奪われていく日々。
幸いと、月をまたぐほど長期間のものは春以来無かった。異世界によっては、過ごした数日が彼の世界でのたった数時間だったこともある。
だが例えそれがどれほどの期間であれ、その間良一は彼の世界からいなくなるのだ。
一時の悪夢、置かれてしまう空白の時、現実との乖離。
数日であればいい、数ヶ月でもまだ救いはある。だが、もし数年となれば――
「くそっ……」
気分が、淀む。生温い鉛を着込んだような感覚が、気力を奪っていく。失われていく気力と裏腹に、滔々と溢れ出す淀んだ思考の渦。
無駄、無意味―― 袋小路を基点に紡がれ始める、脳内の独り言。
それは自身の思いであるはずが、別の誰かが好き勝手を言っているようにコントロールが利かない。まるで黙ることを、考えないことを拒ませるように、誘うような心地良さすらも持って、自傷と自嘲を羅列する。
己の無価値を訴えるような思考の呟きに、削り取られるように力を失っていく体。ソファーの背もたれに、身が沈みこんでいく。
瞳がおぼろに、ただ前方を見つめる。そこにほんの数分と前、束の間の喜びを覚えたテーブルの上が映った――
――ステラはこいつらを、どこから持ってきたんだろう……
苦悩苦痛の現実。視覚の反射だけで切り替えた思考は、伏せていた今更な「不自然」へと逃げ道を探した。
幾種類もの『日本語』のテキスト達。我が身を見れば、今着ている服も学生服ではなく、いつも家で着ているような黒のスエット。
軽く首を振って改めた目には、馴染んできたリビングや、キッチンテーブル、その向こうのキッチンが映る。
昨日の昼、夕。今日の朝、そして昼。ステラとここで食べた料理は、どれもこれもが良一のよく知る、母親の味だった。
何もかもが、おかしい。何もかもが、疑問。
心を読んでいる。そんなレベルではない不可思議な作為が、ここにはある。
だが――
――どうでも…… いい……
良一は再びソファーに沈み込み、目を閉じた。
目の前の疑問が気にならないわけではない。追究すべきだとは、わかっている。
ここで重い思考に沈んでしまうよりも、ずっと前向きで建設的なことだとは、わかっている。
わかっている。しかし、そうする気にはなれないでいた。
そんな自分がわからない、そんなことも――
――どうでも…… いいんだ……
今は、瞼の裏に伏せた――
温かさと、わずかに感じる振動。
そして軽やかに響く、笛の音にも似た一筋のメロディー。
ミカン色に輝く光の中、うっすらと目を開く。
――あ……
瞳に映ったのは、自分を見下ろす女の姿だった。
白いローブを陽に染め、桃色の髪が木漏れ日のように輪郭を輝かせていた。
「おはよう」
目を開けた良一へと、贈られる言葉。
かけてくる微笑みは、光に溶け込むように美しく―― 優しかった。
「ここ、には……」
「うん?」
後頭部から首筋には、柔らかく温かな感触がある――
「朝日も夕陽も…… あるんだな……」
「……うん」
それだけを呟いて、良一は再び目を瞑った。
あとには身を照らす宵までの光と、
ステラの静かな歌声があった――




