4.異世界と慈悲
包み込まれた温かさの中、目を覚ます。
「……? あぁ…… そうか……」
背中には、柔らかに沈むシーツの感触。胸元には、甘い太陽の香りがする毛布。ベッドに横たわった良一は、瞳に映った風景に今の『現実』を思い出した。
「ふぁ……」
一つあくびをかみ、開ききらない目で辺りを見回す。
白い壁紙の小綺麗な一室。小さな机や本棚、クローゼットが整えられた、六、七畳程度の洋間と言える部屋だった。
「おれの部屋か…… 恭次や姉ちゃんが見たら、羨ましがりそうだな」
十字に木枠が走る、シンプルで洒落た窓から射し込む陽。ベッドに作られた四角い朝の光を見ながら、良一は一人呟いた。
『リョウちゃん、起きてる?』
部屋の扉の向こうから、知った声が聞こえた。
「ああ」
良一は体にかかる毛布をのけると伸びを一つ、ベッドを降りる。
それは良一にとって不思議なほど、よく眠れたと思う久々な朝だった。
「おはよう、リョウちゃん」
「……おう」
リビングへと現れた良一は、キッチンから顔を覗かせるステラを見やり、目をしばたかせながら後ろ頭を掻いた。そんな良一に、ステラがくすくすと笑みを漏らす。
「なんだよ……」
「い~え、すぐに朝ご飯にするから、ちょっと待っててね」
言い置いて、キッチンへとひっこんでいくステラ。変な女だ、良一はそう思う。そう、極め付きに奇妙な女だと、良一は思っていた。一つ首を振り、寝起きのしまりの無い顔のままテーブルへと座る良一。漂う味噌汁の香りは、やはり馴染みのあるものだった。
「♪~♪~♪」
昨日と同じ、暢気な鼻歌。それを耳に、良一は昨日のことを思い返していた――
『お勉強をしましょう』、そう口にしてからしばらくの後。ステラは白いローブの腕に数冊の本、幾枚かの紙束や筆記用具らしきものを抱えてリビングへと戻ってきた。
「さてと、どのお勉強がいいかな~」
良一の向かいのソファーに座ったステラが、抱えていたものをテーブルに並べていく。
「おい……」
楽しそうなステラへと、ソファーに寝転がった良一がジト目を送った。
「リョウちゃんは何がいい? 何か勉強したいことはある?」
「あのな」
まともに取り合う意味は無い。こんな異世界で膝枕だのお勉強だの、おかしなママゴトに付き合う道理も無い。そんな思いから良一は、苛立ち紛れに体を起こし―― テーブルの上の物に言葉を無くした。
――『中学校 数学3』
「……!」
置かれた本の一冊を、良一は手に取る。
「なっ……」
中を開いた良一は、思わずと声を漏らしていた。手に取った本を置き、別の本や紙束へと目をやるも――
「なんで…… これは……」
『理科3』、『高校入試問題A』、『図形問題集』―― そこには良一にとって、良一の『現実』にとって、本来の日常であるはずのもの達が、彼の言語で並べられていた。
「どれがい~い? どれでも大丈夫だよ」
目線を合わせ、ステラが小首を傾げて微笑む。
心の中を探りあてられたような感覚、普通ならば、怖気をも感じるだろう事柄。
しかし、良一は――
「……これ」
震えそうになる手で、『数学2』と書かれた一冊を指さしていた。
「うん! じゃあ…… どの辺りからがいいかな~」
ぱらぱらと、ページを手繰っていくステラ。その楽しそうな笑顔に、部屋へと射し込む陽光に照らされる笑顔に――
なぜだか良一は、涙が出そうになる感情を抑えこんでいた。
「♪~♪~♪」
良一はテーブルに寝そべり、カウンターの向こうのステラへと首を向ける。
――なんなんだろう…… ステラは……
奇妙な女。その想いは、昨日出会ったばかりの頃とは違うものになっていた。
その後、数時間に亘り長々と付き合ってくれた勉強に、夕食。風呂や着替えや部屋の一室までを提供された良一は、いよいよとステラが―― この世界というものが理解出来なくなりつつあった。
――違うだろう…… そうじゃないはずだ……
異世界。誰が最初にその言葉を口にしたのか、それすらもわからない、夢物語を指す言葉――
誰しもが幼心に想いを馳せ、喜びや楽しみのままにフィクションを紡いだ、ここではない、想像の中のどこか。
――そんなに都合良く…… 優しいはずが無い……
その他愛の無い、罪の無い言葉は、良一にとって言葉などではなかった。生身の体験だった。喜びや楽しみ―― 期待感や憧れを欠いた、痛苦をもたらす『現実』だった。
それゆえに良一は今に混乱し、それを抑えきれずにいた。
まるで心の内側を見透かすように、求めるものを与えてくれる『奇妙な女』。まるで何かが、誰かが予め用意していたかのように都合良く、優しい『異世界』。
そんなものはあるはずが無いのだと、自らの心に不快な警鐘を求める――
「で~きた♪」
カンカンと、お玉が小さく鍋を叩く音に、良一ははっと顔を上げた。
「リョウちゃ~ん、オモチいくつにする~?」
「へ……? モチ……?」
カウンターからひょっこり顔を覗かせたステラに、思わずと呆けてしまう。
「白味噌にオモチ入れるの。美味しいよ?」
「じゃあ…… 一個だけ」
「うん」と一声頷き、ステラはキッチンに戻って行った。
「……雑煮かよ」
そういえばと正月も近い今を思い出し、良一は背もたれに脱力する。心のどこかに時節への意識があり、それをステラに読まれたのではないかと、そんなことを思う。
「暢気なもんだな…… おれも……」
『病気』に現実を壊され、最近では無気力に体を蝕まれるようになった。それでも自分は心の奥で、『雑煮を食いたい』なんて考えていたのかと、良一は苦笑していた。
――あ……
そして良一は、また苦笑する。
笑ったこと、笑ったと意識したこと――
それは随分と久しぶりなことだと、そう思った。
実家と同じ、雑煮の匂いがする。
再び混ぜられる鍋の音と、間延びした鼻歌。
「暢気な歌だ……」
良一は――
「ん? リョウちゃん何か言った~?」
「いいや、なんにも」
緩んだ頬を隠すように、また、テーブルに寝そべった。




