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玄人仕事  作者: 千場 葉
『幕間4』
319/375

刻まれた名は水よりも濃く(前)


 ファイリングされた山積みの資料を基に、ノートパソコンのキーを叩き続けること数時間。窓の外を眺めれば、居並ぶオフィス街のビル達は八割方の消灯を見せていた。

 高層とはいかないまでも、それなりの高さを持ったビルのワンフロアを借り切ったオフィス。お代わりのコーヒーを煎れる気にもならない時間となると、残っているのは大抵僕か所長くらいだった。


「……今日はこんなところかな」


 別段、いたずらに勤務時間が長いというわけではない。公的機関に関わる業種という理由ももちろんあるのだが、所長の性格もあり、職員の労働時間は法律の範囲内、常識の範囲内に収められている。ただ面会業務の都合上で勤務時間がまばらであり、それが今の僕の場合、夜の遅い時間に食い込んでいるというだけだ。

 忙しくはあっても、体力的にはそれほどきつくはない。とはいえ、問題が無いとも言えない。僕は電車通勤であり、そしてこの職業の人間としては理解され難いだろう、結構な副業を持っていた。残業で帰れないとなると、それはさすがに困る。

 色とりどりな付箋(ふせん)だらけのファイル。更に一枚と追加した僕は、今日の仕事をもう閉じることにした。


「……ん?」


 パソコン画面右下、そろそろと二十三時を示す時計の下に、今日の日付がある。


 ――八月二十八日。


 仕事中さんざんに見ていたはずのその日付が、プライベートに戻ると決めた今更に目に留まる。


「そっか…… 今日は……」


 僕はかつてあったその頃へと、思いを馳せていった――






 十四年前―― 九月の暑い夜。


 発端は、僕が良いと思ってやったことにあった。


「ねぇねぇ、ちょっといいかな? 君、恭次(きょうじ)くんだよね?」


 それがなんであったのかは、今となっては正確には思い出せない。多分、台所用だったか風呂場用だったか、何か洗剤の類いだったと思う。それを買い忘れてしまったと母さんから聞き、家族の目を盗んで買い出しに出かけたのだ。

 求めるものが近くのコンビニにあることは記憶にあった。時間帯としても、常識であれば誰の目に触れることなく済ませられるだろう深夜の時間だった。何の問題も無い、そのはずだった。

 いや、今思えば、そんな時間に出かけようと思ったこと自体、当時は僕もまともではなかったのかもしれない。


「ちょっとお兄さんについて聞きたいんだけど、今いいかな?」


 買い物袋を提げ、コンビニの自動ドアをくぐった僕に声をかける人。

 見るに三十半ばから四十くらいの、(いか)めしい嫌な顔だったと思う。体は当時中一だった僕より当然―― というより、辺りで見かける大人の中でも大きく、がっちりと横に広い男だった。


「すみません、急いでますから」


 その遠慮の無い態度、ワイシャツの左腕に着いた腕章。相手を見定めた僕は、さっさと停めていた自転車へと向かった。


「いやいや待ってよ、そんなこと言わずにさぁ」


 しかしその男は、有無を言わせないような強引さで僕の前に回り込むと、自転車の前に立ちふさがる。


「なんですか、どいてください」

「二、三、話聞かせてくれるだけでいいからさ。聞かせてもらえないと俺帰れないんだよね」


 男の手が、自転車の荷台を握る。僕は神経が逆撫でされるのを感じると同時、面倒なことになったと自分の迂闊(うかつ)さを後悔した。


「お話しすることはありません。兄は知らないと言っています、僕もそれ以上は知りません」

「そうかい? 兄弟仲は良いって聞くんだけどなぁ…… 本当のところはどうなの? 友達とか彼女とか、どっかの家で遊び回ってたとかさ、聞いてない?」

「聞いてません、知らないと言っています」


 本当のことだ、僕は何も知らなかった。当時兄は僕を含め、誰とも話そうとはしなかった。例え相手が誰であったとしても、生返事以外は返さない。それで相手が憤慨しようとも、動揺すらも見せることはない。

 感情の届かない冷めた目を何もない空間に向けて、体だけに日々の生活をさせている。それが当時の兄で、それ以上に語れる部分は何もなかった。


「それじゃ困るんだよなぁ…… じゃあなんかさ、家族の面白い話ない?」

「面白い……?」

「いやほら、君ってすげぇ優秀らしいじゃん? それに対してすっげぇコンプレックスもってたとか、変に根暗なオタク趣味持ってたとかさ、なんか本人の面白いの」


 今でも時に思い出す。この後、若い僕の人生にも色々あったと思うが、この時の衝撃は忘れられない。ここまで無神経な人間が世界にいるものかと、子供心に僕はそう思ったし、沢山同じような人間を見た今でもそう思う。


「家族に起こった事件に面白い!? あなたそれでも報道の人間ですか!」


 残念ながら、それが記者―― 『報道の人間』だった。他人の悲劇で飯を食う―― そんな生活を続け、感覚が麻痺してしまえば、相手の悲劇などは一個のネタにしかならなくなっていくのだ。その感覚は、後に同業を経験した僕にもよくわかる。

 例えるならば、毎日と救急医療の現場に立つ医師が、いつまで患者の怪我を我が身に起こったことのように見られるか。その難しさは個人への責任が薄い分、この仕事の方が高いと言えるだろう。


「あ~、ごめんね。いや~、でも、ほんとに頭良さそうだね、中学生からそんな言葉が出るとは思わなかった」


 僕の憤慨をせせら笑って誤魔化す男。当時の僕は思いもしないが、男からすれば「しめた」と思える瞬間だったのかもしれない。怒らせることも、話を引き出すための伝統的な手段の一つだ。


「そういやお父さん…… 宗貴(むねたか)さんだっけ? フリーランスなんだよね? その影響かな? あ~、でも、洗ってみたけど署名のある記事見つからないんだよねぇ…… お父さんどんな記事書いてんの? 記者クラブにも入れないようなフリーランスがロクなの扱ってるとは思えないけど…… 匿名で風俗ライターとか?」

「あ…… え……?」

「でもそんなんじゃあんなマンション買えないよね? あそこってさ、やっぱりお母さんの印税で買ったの? いいよねぇ…… ヒモみたいなフリーでもあんな場所買えるんなら」


 男が吐き出す言葉の全部を全部理解できたわけじゃない。だが断片的にでも、この男が父を悪く言っているのだということはわかった。


「どいてください! 帰ります!」


 僕は怒りに駆られ強引に、自転車に乗っている男の手をどけようと前に出た。だが――

 男は僕の自転車を押し、その車体をコンクリートへと横倒しにした。


「だからそれは困るんだって、なんでもいいからネタくれないと」


 その上で、車体を足で踏みつける――


「なっ…… 何を……!」


 沸き上がる怒りと、それを押しとどめる怖さ。男の横暴にどうしていいかわからなくなったその時、一台の白いバンがコンビニの駐車場へと入ってきた。

 バンから降りたスーツの人が、こちらへと歩いてくる。それを見た男は、さっと自転車から足を除けた。

 歩いてきた人は僕を挟む形で、男と対面する。初老と言ってもいいだろう細面のその人が、男へと声をかけた。


「お前、何をやってる」


 威圧的な物言い。男の横暴さからすれば喧嘩にもなりそうだったが、そうはならなかった。


「あ、すいませんキャップ…… デスクから催促っすか?」

「それは何回も来てる、いい加減入稿間に合わんぞ?」


 現れたスーツの人は、男の上司だった。


「あれ…… この子は……」


 キャップと呼ばれた人―― 『キャップ』とは、取材グループの中の班長のような立場を指す。 ――は、僕の顔を見つめ、すぐに思い当たった様子だった。


「お前…… なんだ、お手柄じゃないか。なんかもう聞けたか?」

「ああ、それは今からじっくり…… いや、ぱぱっと聞いてしまおうかと」


 男の弱気そうな態度と、横倒しになった自転車をチラチラと見る様子が目に入り、僕はチャンスと思ってキャップの方を向いた。


「こ、この人おかしいんですよ! 強引に話しかけてきたり、道ふさいだり。しかも僕の自転車をわざと倒して踏みつけたんです! なんとか言ってやってください!」


 そう告げ口して、振り返って男の方を見る。男はチッと舌打ちをし、目を逸らしていた。

 子供の世界でも教師がいるように、大人の世界でも上司がいる。見れば細面で、体の線も細いが厳しそうな上司だ。会社員として、非常識な横暴は体裁のいいものでは無いだろう。


「……なんだお前、子供相手にえれぇことやってんな」

「あ、いや…… まぁ……」


 いい歳の男が、もっと年上の大人に怒られている様は奇妙なものだった。ここ数日、この男だけになく、記者というものには全くいい印象は無い。でもこのキャップのように、さすがにおじいさんとも言える年齢にもなれば、人としての分別はちゃんとあるのだろう。

 僕はそう、思い違いをしていた――


「こんなコンビニの前なんて人目につくところでやるな、他の記者連中が通ったらどうする。それをネタにスクープかっさらわれるぞ?」

「え……?」


 意味がわからず、僕は絶句した。叱りの方向が違うと、それだけはわかった。

 そして事態が飲み込めないうちに、キャップの手が僕の腕を引き始める。


「よしボウズ、来い。ちゃんと話したらうちに帰してやる」

「え……? え?」


 ずるずると、強い力に足が持って行かれる。その歩む方向の先には、停められていた白いバンがあった。


「ちょっと! 何する気ですか!」

「話を聞くって言ってんだろ、わめくな」


 引きずられる後ろからは、さっきの男が続く。バンまではあと数メートル、僕はこいつらがやろうとしていることに、大声で噛みついた。


「報道の人間が何やってるんだ! 監禁は立派な犯罪だぞ! 子供を拉致監禁してただで済むと思ってるのか! 警察沙汰になるぞ!」


 ただの問いかけや通行妨害では済まない、それは完全な犯罪だった。ここまでくればいくら相手が大人であっても、何を遠慮することもない。僕は力いっぱい腕を引き返し、その場に留まった。


「……はっ、ガキが」


 しかし、そんな子供の抵抗が通じる相手じゃない。僕は胸ぐらを掴まれ足を浮かされると、一息にバンの扉に体を叩き付けられていた。

 襟首を締めるようにして、キャップが僕を睨む。まさに、爬虫類のような目だと思った。


「なぁガキ…… ペンは剣よりも強しって知ってるか?」

「っ……?」


 その言葉は、もちろん知っていた。


「暴行だろうが器物損壊だろうが拉致監禁だろうが…… 世の中俺達が何をやろうが、文句言えるやつはいねぇんだよ」

「……!?」


 ――その言葉の意味をここまで恐ろしく感じたのは、この時が初めてだった。


 それは当時の僕でさえ、わかっていたことだ。

 『事件』とは、『報道』がなされて初めて明るみになる。つまるところ、明るみにしなければ事件にはならない。そしてその裁量は、実質的には報道機関の中にある。

 政治家も、警察も、法曹界も―― 彼ら報道機関さえ黙っていれば、どのような大事件でも隠し通せるのだ。故に大企業は報道番組や新聞のスポンサーになりたがり、暴力団でさえも彼らに情報を降ろす。一見対当なライバル関係に見える報道機関同士にも、互いのうまみをつぶし合うような馬鹿な真似をする人間はいない。

 インターネット全盛とも言える今でさえ、莫大な力を持つオールドメディア勢力。当時、まだ外部の力が機能していなかった時代、彼らを糾弾出来る存在はほぼ皆無だっただろう。


「うちに帰して欲しけりゃなんでも喋れ、作りごとでもいいから喋れ。なんなら俺らの言う話に、はいって答えていくだけでいいんだからよ」

「で…… でっちあげる気か……?」

「仕事なんでな、記事になりゃなんでもいいんだよ。お前ら一家もとっとと解放されてぇだろう? それともあと七十五日、みんなが飽きるまで待ちますかぁ~? あぁ!? コラ!」


 顔を近づけ、詰め寄ってくるキャップ。その後ろでは、男がにやにやしていた。


 僕は怖いと思う内心、そろそろと我慢に限界がきていた。

 拳を握る――


 ――そうだ、敵わないまでも、ブチのめしてやろう。


 その考えには、冷静さと、打算が入り交じっていた。

 喧嘩などしたことのない僕は、何をやろうと痛めつけられるだけだろう。それでも、どこか一カ所でも、骨折の一つでも貰えれば騒ぎを起こせると思っていた。会社は無理でも、こいつら個人を警察に引き渡せると思っていた。

 そして、兄に集まる奇異の目線を、半分でも自分に向けられると、そう思っていた――



「よぉ、恭次…… お使いか?」



 記者達の目線が、彼らの背後に向く。


「関心しねぇな…… こんな夜中にお前が出歩いたら、姉ちゃんが発狂するぜ」


 黒いスエットの上下が、夜の中に人型のシルエットを作る。



 ――そこには、僕が落とした買い物袋を振り回す、兄の姿があった。


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