35.青い光芒
――何も、無い。
床も天井も、上下すらも無いと感じた。
暗い暗い世界。あるのは自分が存在しているという感覚、それだけだった。
「……?」
何も無いところから―― ひどく薄い、体の感覚が生まれる。催眠術を受けたような、実体感の無い体の感覚。
そんな感覚の中、おれはまぶたを上げた。
青いトンネル、そう思った。向いている先には何も無い、ぽっかりと大きな黒い円がある。その円の周囲からおれの後ろへと、青く輝く煙のような雲が流れ、壁を作っていた。
雲の先には、キラキラと砂金のような小さな輝きが見える。その輝きが雲を青く染めているのだと思ったが、何が光っているのかはわからなかった。
幼い頃、父に連れていってもらったプラネタリウム。そこで見た銀河の中央にいるかのような不思議な光景。どこへ向かっているのか、自分が動いているのかもわからない。
体、手足の感覚はあってもどこへ行けるという気もせず、おれはただ、漂い続けていた。
――おれは、どうなった……?
近づいてくる血まみれの彼女の左手。そこにあったあの指輪が輝き、気づけばおれはこの空間にいた。
――死んだのか……? おれは……
見たことも無い、実体の薄い世界。
死んだ―― そうなのかもしれないなと、おれは思った。
ルアはあの指輪を、『願いを叶える指輪』だと言った。
復讐に囚われ暴走したおれを、彼女はその力で処分したのかもしれない。
――そうか。
おれは開いていた目を閉じ、空間に身を任せた。死んだのだと思えば、もう今更何もどうでもよかった。
足掻いていた日々、それも遠く、その結果もどうでもいいように思えた。復讐を動力に、無限に動くように思えていたおれの体。おれは本当はもう、疲れ切っていたのかもしれない。
なんの支えも感じない、自分の体の重みすらも感じない、宇宙のような空間――
おれは眠りにつくように、そこに身を任せ続けた。
――……?
まぶたに、明るく照らす光を感じた。
目を開いた先、黒い円だった場所の中心から、強く青い光が射していた――
「……っ!?」
――一瞬にして、世界に光が満ちる。
現れた光は周囲を輝きで照らし、眩いばかりの青に染めた。
その光の中心には―― 彼女の姿があった。
「ルア……」
青い後光を背中に、こちらを向いて立つ彼女。その胸元には、おれがつけた傷は無い。青いドレスを揺らし、ただ柔らかに微笑んでいた。
「……ルア、ここは……?」
自分が死に、彼女も死んだのかもしれない。そんなことを考えながら、おれは尋ねる。
彼女は、静かに首を振った。
「わかりません…… 『どこでもない世界』、そうなのだと…… 思います」
「どこでも…… ない……?」
おれのいた世界、ルアのいた世界―― そのどちらでもない、いや、『どこでもない世界』。答えになっていない答えに、おれは納得していた。
目の前に広がる光景は、さながらにトンネル。なら、その意味は――
「ルア…… どうしてだ……」
おれの体に、薄い感覚の体に、激しい感情が渦巻いてくる。
もうどうでもよかったはずのものが、今更に蘇ってくる。
「どうして…… 邪魔をした……! ルアが飛び込んでこなければ…… きっと……!」
気づけばおれは彼女から目を逸らし、うつむいてそう叫んでいた。――悔しかった。
「……ひどい人だと、そう思う。ハリーゼルも、お父様も…… そう」
優しげな微笑みは、今は無いのだろう。そう思える声だった。
「だったら……!」
でもその顔を見る勇気は、おれには無かった。
「それでも、必要なの。リョウイチをどれだけ酷い目に遭わせて、どれだけ許せないことをした人達でも…… 今のミーレクッドには、人の世界には必要な人達なの……」
「そんなはずないだろう! あんなやつらなんていない方がいいに決まってる! あんなやつらが必要な世界なんてあってたまるかっ!」
場所も今も、忘れるくらいの怒りがおれを取り込んだ。――腹立たしかった。
青く輝くトンネルの中を―― 進んでいく。
後ろへと流れていく青い雲が、おれを導くように立つ彼女が、おれに更なる激情を湧かせていく。
「酷い目だって……? 許せないことだって……?」
ぎっとおれは、歯を食いしばって彼女を見上げた。
「ルアだってあいつらを手伝ったんじゃないのかよ! ハリーゼルに言われて! おれの洗脳に手を貸したんじゃねぇのかよ……!」
――あ。
一瞬にして肝が冷える。激情が、これまで避けていた想いを、一気に吐き出させていた。
「ど、どうなんだよ……! 答えて…… 見せろよ……!」
だが、すぐに新たな激情が湧き、おれはもう答えから逃げられなかった。――焦っていた。
彼女は、口元に微笑みを称えたままに、静かに目を伏せる。
「違わないと、思います」
おれの口が、鋭く息を呑んだ―― 動けなくなったおれの目を、開かれた彼女の青い瞳が吸い込むように捉えた。
「私は…… ハリーゼルがどのようにあなたを籠絡するつもりなのか、知っていました。その手段にレアを使うことも。ですので私は彼に言ったのです。レアではなく、私を使いなさいと」
「な…… に……?」
急速に流れていくトンネル。背中を駆け巡り、湧き続けてくる激情。知らされていく事実。おれの頭が、鈍くなっていた。
「なんで…… そんなことを……?」
彼女の長い睫毛が、大きな瞳を伏せさせる。
「……不誠実だと、思ったからです」
「不誠実……?」
「心から申し訳ないと…… あなたに謝罪する。そこに私の代わり―― レアを使おうということが、私には許せなかったのです。不誠実なものは何も実らせない。私は反対するハリーゼルをそう説き伏せ、あなたに会うことを叶わせました」
あの日、初めて出会った、あの日――
牢の床に額を落とし、おれへと謝っていた彼女を思い出す。
――あれは…… 本気だったのか……
誠実さ。そもそもこれから騙して使おうという相手に、そんなものはあったものじゃない。しかし彼女はあの時、本気で謝っていたのだ。
だからこそおれは彼女を何一つ疑うことなく、言い分をそのままに信じた。本気だったからこそ、あんな仕打ちを受けたあとで、あんなに大げさな謝り方でも、おれは信じた。
きっとそれは疑われる部分が彼女の中に、最初から存在しなかったからなんだろう。ハリーゼルの指示とは関係なく、おれに謝りたかったのだ。
だが――
「そんなこと…… 結局、一緒じゃないか……! 結局…… ハリーゼルの言う通り、ルアはおれのアメ役になったんだろう……!」
そうだ、レアと入れ替わったからって関係無い。一緒なんだ。
「それで……! おれを油断させて…… 刷り込んだんだ……! 魔王を倒すようにって…… 魔王を倒すことがこの地獄を終わらせる手段で、おれにとっても一番いいことだって……!」
――『希望』を叶えることが、彼女を一番喜ばせられる。
「おれが自分からそう思えるように刷り込んだんだろう! だったら…… 一緒じゃねぇかよ……!」
喉から絞り出すように叫んだ声が、青い空間に消えて行く。
思いのままに非難を吐き出すおれ。そんなおれへと、彼女は恨みがましさも、哀しさも感じさせない、ただ優しい眼差しをまっすぐに向けた。
「……違わないと、思います」
「……!?」
おれの目が、見開かれる。呼吸も不確かな世界で、息が止まったように感じた。
「認める…… のかよ……! 違うって…… 言わないのかよ……!」
ルアが軽く、首を振る。
「……言えません。ハリーゼルが私に求めた役目は…… 私自身の素直な想いそのものでした。私には、何一つ変えようがなかったのです」
「なんだよ…… それ……」
わからなかった。おれには恭次のような頭は無い。彼女が言いたいことが全く分からなかった。
かろうじてわかったのは、彼女がハリーゼルの洗脳を知りつつ、そのまま手を貸していた。その事実と、その先にある今の結果だけだった。
青い世界。流れる雲が急速に流れ出し、彼女の背後の光が強まる――
「ふざけないでくれ……! やっぱり結局…… おれが正しかったんじゃねぇか……!」
悔しさ、腹立たしさ、焦り。ずっと背中を這い回っていた激情が、更にと猛る。
「みんなして…… あの世界全部がみんなして…… おれを利用してるだけだったんじゃねぇか……! 誰も彼もがおれ一人に苦しめと、地獄を見ろと、そう言ってるだけの世界だったんじゃねぇか……!」
――もう、わかっていた。
その激情達がどこから生まれ、何を理由におれに這い回っているのか。
「それで希望を叶えたらなんだ……! さんざんやっておいて、おれからの仕返しを恐れてさっさと殺そうとしやがった! そんで挙げ句の果てには――」
本当はもう、この世界で受けた仕打ちも何もかも、どうでもよかった。
流れて、出口へと向かうトンネル。それにつれて高まっていく、激情――
「ルアまでおれに……! もう出て行けって言うのか!」
――彼女自らの手で、もう二度と会えない場所へと放り出される。
それがおれを昂ぶらせる、激情の全てだった。
彼女へと、木霊していったように感じたおれの叫び――
おれを見つめる青い瞳が、ぱっと見開いたように見えた。
「……ルア?」
やがて―― 驚いたような彼女のその顔に、
小さく笑みが灯り――
光が、瞬く――
「……!?」
彼女の背中から射していた青い光が、青い空間を真っ白に染め上げ、何も見えなくする。
『リョウイチ……』
彼女の声。当たりを見渡すも、白一色。どこから聞こえてくるのかもわからない。
「ル…… ルア……!」
『あなたの行く先に、あなたにとって良き道が選ばれますように――』
「……!」
予感を感じた――
「ふ、ふざけるな……!」
もう、二度とは戻れない。もう、二度と声を聞くことも出来ない。
「まだだ! まだ終わっちゃいねぇ! 王も! ハリーゼルの野郎も! まだ殺してねぇんだ!」
もうあの世界に関わることはなく、絶対に関わり合えない場所へと放り出されるのだと、直感した。
「そんな勝手が許されるかぁっ! だったらおれはなんのために強くなった! なんのために足掻いたんだ!」
不快な激情の全てが、おれを狂乱させた――
「もっとだ……! もっと…… 殴らせろ!」
あっさりと投げ捨てられた自分に、狂乱した――
「あいつらを……! 殺させろぉぉおおおぉおおぉー……!」
――そしておれの意識は、光の中に消えた。
両腕に、固い、感触――
不味そうなパン生地のような、そんな懐かしい匂いが鼻をつく。
「……?」
暗がりの中、おれは目を開けた。
どこかに座っていたらしいおれは、剥き出しの腕を枕に、ツルツルとした表面のテーブルに突っ伏していたようだった。
そのテーブルには、ひどく憶えがあった。この匂いも、木目の触りも、よく知っている――
「っ……!?」
――教室、だった。
飛び起き、顔を上げたおれの目には、真っ暗な学校の教室が映っていた。
廊下側、一番後ろの席から一つ前。おれは自分の席で、誰もいない教室に座っていた。
「教…… 室……?」
カーテンが開け放たれたままの窓からは、いつもは昼に見ていた中途半端な田舎の町並の明かり。街灯から射し込む人工の明かりが、教室の三分の一ほどを仄かに照らしていた。
遠くを走る車のテールランプ、ブレーキランプがまばらに町を滑り。ガコン、ガコンと、廊下側からは、私鉄沿線の音が響いていた――
「なんで……?」
両腕を持ち上げる。少し、軽いような気がした。
細い―― 筋肉も何も無い、ただの子供の腕だった。その白い腕の元には、学校の白いシャツ。
呆然とおれは、光にさらされ曇って見える、正面の黒板へと目を移した――
『いいかお前ら、証明問題ってのはな、公式を抑えておくんだ。公式を暗記するんじゃないぞ、数学は反復だ。それから――』
何も書かれていない黒板。誰も立っていない教壇。シャーペンを走らせる音も無い、周りの机――
「……そうか」
おれは事態を理解した。
これは…… 『病気』だ。
おれが見た最後の記憶は、数学の授業だった。その途中でおれは、例の白昼夢のようなタチの悪い、あの『病気』にやられてしまったんだろう。
『病気』なら、仕方無い。誰にも気づかれないものだ。こうして夜の教室に一人で取り残されていることにも納得出来る。
おれは首を振って黒板の右側、いつもの中々時間が経たない、丸い壁時計へと目を細めた。短針、七。長針、五十八―― 下校の時刻から、すでに五時間近く経っている。
ため息を、一つ――
「母さんや恭次が心配するな……」
おれは机に手をつき、席を立った。
机の上、手に触れた何かが落ち、床に音を立てる――
「……?」
小さなものがキラキラと、暗がりに反射しながら床を転がっていた。
おれはそいつを拾い上げ――
――膝から床に、崩れ落ちた。
「あ、あ…… ああ……!」
目の前が、霞む―― 『病気』と片付けようとしたおれに、まざまざと『現実』が蘇ってくる。
「嘘だろう……! 全部…… 白昼夢だったんだろう……?」
白い手に握るそれが、おれに『現実』を突き付ける――
「おかしいじゃないか……! おれの手は…… こんなに綺麗じゃないか……! あんな…… 世界のことなんて……」
キラキラとそいつは―― 青く輝いていた。
「ル…… ア……! なんで……っ……!」
全ては本当にあったこと―― そして、もう、終わったこと。
戻った世界、辿り着いた日常の世界の中――
おれは彼女の指輪を握り、一人うずくまり、呻き続けていた。
頬には、絶え間なく流れていく、温かい感覚――
――それは失い、枯れてしまったはずの涙だった。
読了お疲れさまでした。
以上を持ちまして『#9』、終幕となります。
次回は幕間を挟み、その後『#10』―― 終章へと進みます。
元の世界へと戻された伊達。
彼がその後どうなり、そしていかにしてその後の伊達へと続いていくのか、
彼の根幹を語る『後編』、どうぞお楽しみに!




