25.赤黒い一杯
「宴は楽しんでいるかね」
周囲から、視線が集まるのを感じた。
輪に混じることなく、柱と一体化していたおれ。わずか三日前に魔王を倒し、わずか二日前に城へと報告し、そしてわずか一日にして―― 無用の長物となった勇者。
おれの扱いは、もう決まっていた。
これからはただの一軍人として、戦後の騒乱の弾圧係となるただのガキ。周囲の連中からすれば、そんな厄介なだけのザコに、まさか王自らが話しかけるなどとは思いもしなかったのだろう。
ちらとおれの視線が、王の傍らに立つ赤い軍服、その紫の瞳と交錯する。
「ハリーゼル、よい」
そのわずかな睨み合いに気づいたらしい王は、ハリーゼルに手を掲げると、やつを数歩と下がらせた。
「勇者よ」
王はゆったりとした動きでおれに近づくと、隣に並んで柱へともたれた。その視線の先、こちらを見ていた連中がそそくさと、目を逃れるように体の向きを変えていく。
皺の刻まれた王の右手には、空になったワイングラス。王はそれを軽く掲げ、どこか物憂げな眼差しで、見つめながらに言う。
「何か…… 望むものはあるか? やはり平和をもたらした君には、してやれることはしてやりたい。欲しいものがあれば言え、軍にいたくないのなら、それでもいい。どうだ?」
それは優しい言葉だった。
初めて会った時や、昨日の城での勝利宣言の時のような、王たる立場をもっての声ではなく、一人の人間としての思いやりを持ったような声に聞こえた。
――一目、もう一度だけ……
おれは喉まで出かかってしまった言葉を呑み込み、王の横顔に投げかけた。
「もとの世界に、帰して欲しい」
半ば、予想していた答えだっただろうか。王は残念そうに眉を下げると、離れて立つハリーゼルに顔を向けた。ハリーゼルにもおれの声は届いたのだろう、やつは無表情に、首を振ることで答えた。
「……その願いは、叶えられぬ。魔王は滅びたとはいえ、君は勇者なのだ。我が国のために、それは叶えてやるわけにはいかぬ」
もとより、そんなものは期待していない。
「魔王を倒したという爆弾がここにある」、その政治的な価値はガキのおれにだってわかる。例え実際に使われることはなくとも、このミーレクッドにあるというだけで絶対的な価値があるのだ。
平和の中では利用しようの無い兵器。国内の権力争いの道具には出来ないザコでも、外交には使い道がある。
「すまぬな……」
手にしていた空のグラスを、王はおれへと差し出す。
「君は国家に対しての恩人だ。いつしか人々が忘れようとも、私は忘れない」
グラスを受け取ったおれを前に、王は近くを通る給仕を手招きした。おれと王を見、すぐさまに新たなグラスとボトルを持って歩み寄る給仕。王はボトルを自ら手に取ると、給仕を下がらせた。
「私にも、君と同じ年頃の子供がいる。これでも、人の親ではあるつもりだ。今まで…… 辛い思いをさせてすまなかった」
おれの支えるグラスに、赤い液体が満たされていく――
「さぁ、飲むといい。今日くらいは肩から力を抜け」
グラスに三分の一、それだけの量を注いだ王は、そう言っておれに笑いかけた。
おれはそれに応え、軽くグラスを上げて笑顔を見せると――
――そいつを、一息に飲み干した。
「ぷはぁ~っ! これが、ワインってやつなんだな~!」
初めて飲んだ酒。あんまり美味くも、聞いていたよりは不味くもなかったそれを飲み干したおれは、はっきりとした大声でそう言ってやった。
「なんかちょっとブドウってよりはイカっぽいっすね、この味。おれにはよくわかんねぇや」
喉の奥が少し熱くなる感覚の中、おれは王の顔を見る。
――その顔には、信じられないものを見ているような表情があった。
「んじゃ、返杯しますよ、王もどうぞ」
おれは固まっている王の手からボトルを分捕ると、その中身をグラスの中へと注ぐ。
「ねぇ王様、そういえばなんすけど…… 最近ね、軍に黒髪の、おれによく似た背格好のガキが入ってきてたんすけどぉ、そいつね、入って来て間も無くおれと同じ階級になってたんすよねぇ~。んでそいつ、出来るやつのはずなんすけど、こないだの魔王討伐には参加してなかったんすわ、これってなぜなんでしょうねぇ?」
グラスの半分を超えて入った、赤い液体。
「いや、はっはっ……! 細かいことを気にしすぎっすかねぇ? まさか王様がそんなちっせぇ小者のことなんか知りませんよね?」
おれは中身を揺らして液体を回す。液体がグラスの中身をなめるように動く。
「でもまぁ、なんて言うかですねぇ…… あいつなら出来そうじゃないですか?」
おれは充分にグラスをなめた一杯を、王の手へと握らせる。
「『替え玉』、とかね?」
グラスを持った王は―― 蒼白になっていた。
「あれ? どうしたんすか? 飲まないんすか? おれからの一杯っすよ? 飲んでくださいよぉ~」
――わかっている、わかりきっていた。
警戒さえ出来ていれば、何も驚くようなことじゃない。
おれはあの日以来、徹底的に警戒を続け、おかしな点は洗い出し、足りない部分は自ら補い続けてきたのだ。この手段への警戒は早々に思いつき、対策はとっくに得ていた。
怒りは覚えようとも、驚くようなことじゃない。
おれは固まった王に対し、一差し指を突き付ける――
「さぁ! 飲めや!」
怒気の混じったおれの大声が、大広間に響き渡る。
水を打ったように静まり返る、ヒトの群れ。
グラスを持ったまま、硬直し続ける王――
「何をやっているダテ! すぐに離れろ!」
誰よりも早く状況を理解し、怒鳴るハリーゼル。大声とその剣幕にわらわらと兵士や軍人達が集まり出すまで、それほどの時間は必要としなかった。
最後の一ヶ月――
あの日以来、待ちに待った時が来た。
入念に、入念に、引き金に指をかけたまま、この時を待っていた。
だがあるいは、おれはかけた指を引くことはなかったのかもしれない。
今の一杯が無ければ――
いや、やはり関係無い。
もう引くことは決めていて、十二分に非道も尽くした。
――おれが止まることは、もう、無い。




