23.赤黒い撃鉄
――新学期。
休みが明けたと思ったらもう始まってしまった六時間の授業を終えて、おれはマンションへと帰る。
相変わらずな中途半端な田舎の町。建つまでがやたらと早い、妙に綺麗な一軒家が増えてきたところを見ると、ちょっとは都会になってきたのかなとも思う。
そんなことよりも、今日はピアノの日だ。今は中三で、来年は高校生になる。多分…… もうそろそろと辞めさせられるか、自分で辞めるって決めないといけないんだろう。小学校の頃から一緒にレッスンを受けていたようなやつらはとっくにみんな辞め、習い事ではなく塾に切り替えている。正直、昔は嫌々通っていたし、今通っていることも気恥ずかしくはある。でも十年以上と続けたものを捨ててしまう気にはなれなかった。人には言えないが、おれはやっぱり鍵盤が好きで、やっていたいんだろう。
そうやっていつも通り、中途半端に悩みながらマンションへと帰ると、六畳間には恭次がいた。
「お帰り、兄ちゃん」
「あれ…… お前…… 部活見に行くんじゃなかったのか?」
おれは重い学生鞄を畳に置きながら、机に向かってノートを開く恭次に尋ねた。
今日は放課後、部活動紹介があって、新入生に向けて色々やっている日だ。こいつは勉強だけじゃなくて、運動も結構に出来る。たしか、野球部でも見に行くかとも言っていたはずだった。
「ん~…… ちょっと、良くないなぁ…… と思ってね」
「うん?」
珍しくはっきりしない様子の弟を前に、おれは畳へと座った。とりあえずはと、おれはこいつが心配しそうなことを、先に取り除いてやることにする。
「金なら気にしなくていいって母さん言ってたぞ? そりゃ運動部って金かかるんだろうが、やりたいことやっても別にいいんじゃねぇか?」
「ああ、いや…… そういうことじゃないんだよ」
違うらしい。実際、適当言ってるだけでおれの金でも無いし、鵜呑みにされても困るが。
おれがわけを聞きたそうな顔をしすぎたのか、こいつが話したかったのか、ぽつぽつと恭次は話し始めた。
「僕の目的は…… 体を動かしたいってことなんだよね……」
「うん……? だったら……」
入ればいいじゃないか。そう言いかけたおれに、恭次は首を振る。
「うちの学校の目的は、どうやら運動じゃなくて『洗脳』みたいだから」
「セン…… ノウ……?」
テレビのニュースで聞いたことがある、馴染みの無い言葉。おれは一瞬と何かの聞き違いかと思ったが、そうでは無いようだった。
「ほとんどの運動部が入ったら入ったでね、無闇矢鱈と厳しいんだってさ。上級生は絶対、顧問は神様、殴られ蹴られしながら、練習とも雑用ともつかない一年を過ごすんだって」
そういう話は同じ学年の連中からも聞いたことがある。今年は最上級生だからやりたい放題で楽しみだとも言っていた。
「……普通じゃないのか? 運動部ってそういうもんだろ? おれはやりたかねぇけど……」
だが聡明なる我が弟は、兄の意見に首を振る。
「人間が殴られ蹴られは普通のことじゃないよ。しかもうちの学校はそれを自分が上級生になった時、同じように下級生にするように強いるんだ。お前達もやられただろう、普通のことだからってね」
……よくよく考えれば、それはいやだな。歳下の連中をいじめるのって、別に楽しくはないよな?
そんなことを考え始め、ちょっと黙りこんでしまったおれを恭次は笑う。
「……っさすが兄ちゃん、やっぱり頭いいよね」
「お前、バカにしてんのか?」
いやいやと、手を振る恭次。こいつはこうして、いつもおれに「頭がいい」と言う。それが冷やかしなのか本当にそう思っているのか、それはおれにはわからなかった。
「実はね、兄ちゃん。これって昔からあって普通になってしまっている…… なんて言うかな、人を使う立場の人にとって、都合のいい人を作り出すための洗脳教育なんだよ」
「……えっ? 何それ……? ちょっと兄ちゃんむつかしい話は……」
いきなりごちゃりとさせられた頭をなんとか整理するも、この弟の話はぶっ飛んでいた。
「ほら、戦国時代とかにさ、下剋上ってあったじゃない? 目下の人が目上の人をやっつけちゃうやつ。あれってね、近代でも中世でも国に関わらず、上の人達にとっては困るからちゃんと対策されてるんだよ。それこそこうやって義務教育の頃から、上に逆らっちゃいけない、盲目的に従うのが正しいって、わざわざ洗脳まで施してね」
「そ、そうなんか……?」
「うん、そうしておくと社会に出した後に役に立つでしょ? 逆らわずになんでも言うこと聞いてくれるし、誰か逆らう人が出てきても、下の方で勝手に敵味方作って自分達で罰し合ってくれるんだから」
「うげ……」
大人って恐ろしいな…… と、そう思う。
「……って、ちょっと待て、いくらなんでもそんなわけないだろう? ああいう部活でやってるのは普通のことで、ああやって苦しい中で精神を鍛えてだな――」
「『それが普通』って思わせられれば、洗脳は成功なんだよ」
「いっ……!?」
あれ? おれ成功されてた!?
「きっと…… やっている学校の方も普通だと思ってるだろうね。間違っても洗脳なんかじゃなくて、生徒をしっかり鍛えるための普通の在り方だって。こんな話をすれば不愉快に思って怒るだろうし、変に見られるのは僕だろう」
「そりゃあ、そうだろう…… するなよ?」
一応は年上として釘を刺したつもりだったが、恭次は「兄ちゃんじゃなきゃしないよ」と心配ご無用な感じの、妙に大人びた笑い方を返した。
恭次―― 我が弟にしてどうしてここまで出来が違うのか、最早嫉妬すら感じない。時々、その出来の良さが逆に心配になることもあるが、それも余計なものなのだとも思う。
恭次はとても似ているのだ。おれよりも色濃く、父さんに――
「でもよ、恭次…… その、洗脳……? やってるってんなら、教えてる側はわかってやってるもんじゃないのか?」
「わかってる人はいるかもしれないけど…… わかっていても、そんな馬鹿なって自分で自分の考えを否定してると思うよ。人を使う立場の人は、実際に動く人達にはホントの目的は言わないから、「洗脳しなさい」なんて指示は出てるわけないだろうし…… 最初に目的を作った人はとっくにいなくなってて、目的だけが一人歩きしてる状態だと思う。うちの学校にしても、今は部活は強制じゃないしね」
――だからおれは、恭次の話がどれだけぶっ飛んでいても決めつけで否定しないし、ついていけないくらい難しくても耳を傾ける。
意味不明でも、意味があるのだ。わからなくても、わかる時が来るのだ。
父さんの話が、いつもそうなように――
「ホントの目的かぁ…… なんかムカつくな、まるっと見破ってやる方法とかねぇのかな……」
「ちょっと視点を変えて、これまでの実績なんかを見ればわかるよ。例えばその団体の厳しさ、その目的が本来の目標なのか、それとも洗脳なのか、どっちを向いているのか」
「実績……? じゃあ、例えばうちの野球部とかは……?」
「昭和かと思うくらいめっちゃくちゃ厳しい。でも、万年一回戦負け、超弱小」
「あぁっ……!?」
思わずといい反応をしてしまい、また恭次に笑われてしまう。そしてこういう時、我が弟は指を一本と立て饒舌に、同じ暮らしをしているのにどこで手に入れてきたのかという知識を披露してくれるのだ。
「兄ちゃん覚えておいて。洗脳の基本は『アメとムチ』、徹底的にムチを打っておいて、その合間合間にアメを差し出す。普段すごく怖い人が、たまに笑うとものすごくいい人に見えるのと同じさ。頭がおかしくなるまでムチを打たれたら、アメをくれる人を疑えなくなってしまうんだ。百回のムチに一回のアメ、たったそれだけであとになって感謝を覚えるくらいに、人はプラスマイナスを真っ直ぐに見られなくなってしまう」
――ムチと、アメ。
「それに誤解されやすいことだけど、精神は筋肉なんかじゃないんだ、鍛えたりなんて出来ない。精神が『強くなる』ということは、ただ『麻痺する』ということ。その麻痺が、また別の誰かにアメとムチを振るい、傷つけることを平気にしていく…… 洗脳の連鎖を作っていくんだ」
――そうか…… そうかもしれない…… おれも、もう麻痺している……
「ああ、おっと…… 兄ちゃんにはいらない心配かな。洗脳なんて兄ちゃんには効かないか」
――そうかな……?
「僕よりずっと、いい頭持ってるもんね、兄ちゃんは」
――だと、いいな……
壁掛けの淡いランプの中、目を覚ます。
手触りのいいシーツから腕を引き抜き、両の手をじっと見る――
「そうか……」
その幾重にも汚れた手を、ぐっと握った。
「ありがとうよ、恭次……!」
あの日―― 王に出会い、ハリーゼルに打ちのめされたあの日。
まぶたの裏に浮かんだ、在りし日の夢――
そこに得られた偶然の答えが、おれに撃鉄を起こさせた。
あとは慎重に、引き金を絞るだけ――
その時を、待って、待ち続けた――




