3.出会いしカラス
一週間ほど後の午後。リノリウムの床に反射する明かりを見ながら、シュンは足早に自らの教室を目指していた。
マルウーリラ神学校は授業の半数が選択制であり、とにかく移動教室が多い。昼以外の短い休み時間には、多くの生徒がそう広くもない敷地内、三棟の校舎と数棟の小さな施設を右往左往する光景が見られる。
グループで移動する生徒もあれば、一人黙々と次を急ぐ生徒もあるが、どちらにせよそれほどの会話の余裕は無い。
それは友人の少ないシュンにとって忙しくもあり、有り難くもある最高学府の在り方だった。
ほどなく教室に入り自分の席へと向かったシュンは、手早く次の授業の用意を取り出しながら壁時計を確認する。前の授業が休み時間に食い込んだせいか、移動にもうそれほどの余裕はなかった。
教室にはクラスメイトであるシオンやリイクの姿も無い。すでに彼らは一度戻り、それぞれに移動したのだろう。
シュンは教科書やノートをひっつかむと、ばたついた足取りで廊下へと飛び出した。
「おっと……!」
床を踏んだばかりの肩に、重みのある衝撃。
「あ……」
出会い頭に、廊下を通りがかった相手に肩をぶつけてしまっていた。
衝撃に一瞬ぶれた視界が戻り、シュンの目に相手の姿が映る。目深に被った青い帽子、青い作業着。工具箱らしきものを提げた、見覚えの無い男だった。
「すいません、急いでいたもので……!」
驚いた様子の男に対し、シュンは即座に謝りを入れた。相手が見知らぬ大人だったこともあるが、思いのほか当たりが強く、相手が心配だったこともある。
男は片手を上げ、からかうように首を振った。
「おおう、気ぃつけなよ、おっさんだったからよかったが、女の子だったら大事だぞ?」
男に怒っている様子は見られず、シュンはほっと一息ついた。
冷静になった頭がその人物を見定め、『異様』を目にする。
「え……!?」
校内にいる青い作業着を着た男。その姿が用務員を現わしていることはシュンにもわかる。
歳の頃はよくわからないが、自分で「おっさん」というわりにはまだ若くも見える男は、シュンから見れば十歳かそこら上程度だと思われた。
背はリイクと同じか少し低いくらいで、柔和そうな黒い瞳が彼を見下ろしている。
見た目に怪しいと思うような相手では決してない。
「あの…… ひょっとして……」
「うん?」
ただ、帽子から覗く男の髪は――
「俺と同じ国の人、ですか……?」
シュンと同じ、『黒』だった。
激しい衝突音を響かせ、分厚い鉄の扉が軋みをあげながら開かれる。扉の先には、澄み切った青空と黒ずんだ白い石の床が広がった。
「いや~、すまないね、手伝ってもらっちゃって。この扉かしがっちゃってて一人じゃ開けられなくてさ、授業始まっちゃったけど大丈夫?」
「あ、いえ…… 用務員さんの手伝いなら先生も許してくれると思いますから」
その後、ちょっと手伝って欲しいと言われ用務員に促されたシュンは、彼とともに屋上へと向かうことになった。
授業のことは気になったが、今はそれよりも目の前の用務員が気になった。長く離れた同郷の人種。遠く離れたこの国で、出会ったことは初めてだった。
別段、ホームシックにかかっているわけではない。ただ漠然と、故郷の人間と話したい、そんな気持ちがあった。
「でも…… なんだか申し訳無いね…… 期待外れだったようで。おじさん本当に君の国の人ならよかったんだが……」
「ああ…… それは、俺の早とちりで……」
だが、シュンの思いとは裏腹に男は同郷の人間ではなかった。この辺りの生まれで、遠い祖先が彼の国の人間だったのだと言う。
肩すかしではあったが一度手伝うと言った手前、シュンは退けずにいた。
「さてと…… じゃあ始めるかな……」
「何するんです?」
「ん? ああ、ちょっと『防■シー■』の点検をね~」
「……!」
シュンは思わずと、こめかみに手を当てた。
男の言葉の中、唐突に聞き取れない箇所が現れていた。
「どうした?」
「い、今なんて……?」
一瞬と、男の目が左上に動き。
「雨漏りの点検をするのさ。それだけだよ」
「そ、そうですか……」
男はシュンを置いて、屋上の際の方へと歩き出す。
何か狐につままれたような気分になりながらも、シュンは後を追った。
「ん? このクラックはひどいな。よいしょっと……」
男は屋上のへりの一点、ヒビ割れの入った床を見つけると座り込み、工具箱を開けた。その中身は大小様々な鉄の棒や容器などが並んでいるが、一介の学生であるシュンにはよくわからなかった。
「じゃ、おじさん今からイロイロやるけど、君はその辺で昼寝でもしてるといい。屋上で寝るのは気持ちいいぞ」
「え? 手伝わないんですか……?」
「はは…… やって欲しかったのは扉開けるとこだけさ。こっからはプロの仕事だ。儲けたと思って堂々とサボってるといいさ」
「え~?」
言うが早いか、男は工具箱から透明な容器や粉の入った袋などを取り出し、慣れた手つきで作業らしきものを始めた。
後ろから覗いているのも失礼かと思い、シュンは彼のそば、近くのへりに背中を預けて座った。根が生真面目な彼にとっては、いまいち決まりの悪い時間だった。
「君、名前は?」
「……城野村瞬、です」
「へー、『主人公』っぽい名前だな」
「はい?」
「こっちのことさ」
水と灰色の粉が入った容器を鉄棒でかき混ぜる男。何をしているのかはわからないが、シュンはなんとなく興味深く、それを見守っていた。
「城野村君は…… 留学生だったか。もう長く帰ってないのかい?」
「え、ええ…… 行って戻るだけで一週間以上かかりますし、旅費が……」
「あ~、それはたしかに大変だな。こんな国だ、不便な話だねぇ」
「いえ……」
実際に、マルウーリラは不便な国だった。
上空六百メートルに位置する巨大な浮島。ほんの百年と前までは、ごく限られた人間以外には出入りすることさえも不可能な場所であり、他国との交易すらもロクになかったという。
リイクの国であるガローシュにおける飛行船技術の躍進がなければ、今もこの国は「天上の国」として、地上に住む人々より「あの世」のような扱いを受けていたのかもしれない。こうしてシュンが訪れることもなかっただろう。
「でもまぁ…… こっちいる間に、一回くらいは帰んなよ? 親も心配だろうし。仲良いの誘ってさ、卒業旅行とかにでもどうだい?」
「……卒業旅行を、自分の家にですか?」
「おう、楽しいと思うよ。こっちの友達なら喜ぶだろうし、友達が喜ぶってのは自分が楽しいよりいいもんだからな」
少し重そうになった容器の中身をかき混ぜ続ける男。
昼寝でもしろというわりにはやたらと話しかけてきたり、初対面なのに妙に馴れ馴れしかったりと、男の言動はよくわからない。シュンのこれまでの人生で珍しいタイプの、奇妙な大人だった。
「そういう、ものなんでしょうか……」
「ああ、そういうもんだ」
だが、不思議なくらい不快には思わなかった。
父とも兄とも言えない、微妙な年の差。生まれは違えど、見た目には変わらない人種。そしてその柔和な語り口。どれが原因なのかはわからないが、シュンはこのきまりの悪い空間に少しずつと、安心出来る心地よさを感じ始めていた。
そしていつしか、男が奏でだしたシャコシャコという鉄ベラで床を擦る音を耳に、彼は春の日に負けるように睡魔に襲われていった。
地鳴りのような轟音と、悲鳴――
「……!?」
失われかけていた意識が、瞬時に覚醒する。
「い、今のは……!?」
飛び起きるように身を起こし、用務員へと目を向ける。
彼は屋上のへりから上半身を乗り出し、下を窺っていた。
「え……?」
その男が誰なのか、ほんの僅かな時間、シュンにはわからなかった。男の目には先ほどまでの柔和さが無く、獲物を狩るような厳しさが光っていた。
そんなシュンの戸惑いをよそに、用務員は屋上から校庭を見下ろし続ける。
「……まずいな、困ったことになってるようだ」
恐る恐ると、用務員の見下ろす様を真似るように、シュンが下を覗き込む。
「……なっ!?」
彼の眼下には、グラウンド。
黒いローブの集団が何十という生徒や教師を集め、その中央へと押し込めていた――