10.青い想い
――それから、何日かの日が過ぎた。
広い檻でひたすらに魔物と戦い、狭い檻で蟲にたかられながら体を横にする。ただ黙々と、そんな毎日が続いていった。傷つけば治され、汚れれば水を浴びせられ、腹が空く頃には食事が投げられた。穴だらけになった制服は捨てられ、着心地の悪い、黄ばんだ白さの囚人服を着せられた。
戦い、気を失い、戦い、眠り―― 今が何日目かがわからなくなるまでは、それほどかからなかった。
スライム、蜘蛛、蛇、犬。支給される『経験値』は、日々手強くなっていった。
だが何かの悪い冗談かのように、倒せば倒すほど、戦えば戦うほど、おれの体は軍服達の期待に応えた。見た目にどこか変わるわけじゃない。筋肉がついたり、体が硬くなったりするわけじゃない。それでも足は軽く、目は鋭く、木刀を握る腕は力強くなるのだ。
これがお前の現実だと、見せつけるかのように。
「……また、来たのか」
そんな日々を耐えていけたのは、誰でも無い。
「はい、来ました」
どんなことでも無い。
「今晩は、リョウイチ」
――ただ一人、彼女の存在があったからだ。
鉄格子に背中を預け、パンをかじる。
相も変わらず、乾いていてバターの味がするだけの粗末なパン。そのお世辞にも美味いとは言い難いパンが、この世界では上等なものだということは、ここ数日でもうわかっていた。
「……どうぞ」
おれの背中から鉄格子を抜けて、白い陶器のティーセットが置かれる。
彼女が煎れてきてくれる少し冷めてしまった紅茶。これだけが、ここで美味いと言えるものだ。
「なぁ、ルア。気になっていることが…… あるんだ」
「どのようなことでしょう」
背中ごしの彼女を、おれは「許して」いる。
軍服の連中や、それに伴う連中達とは違って側にいられて嫌に思うことはない。だがそれでも、まだ素直に顔を合わす気にはなれずにいた。
「……おれはあいつらに、会ったことがあるのか?」
彼女が小さく、息を呑む音が聞こえた。
顔を合わせずとも、答え難そうにしている仕草がわかる。おれは物音に敏感に、実際に耳も良くなっていた。
「今思うと、最初から雰囲気がおかしかったんだ。ハリーゼルの野郎が頭のおかしいやつだってのはわかる。でもいくらなんでも、世界の救世主にしようって相手に対して、初対面で本気でぶん殴るのはやり過ぎだ。ひょっとしておれは…… 憶えていないだけで、あいつらに会ってたんじゃないのか?」
紅茶の温もりを喉に通しながら、ルアの答えを待った。
ある程度、なんとなく、おれの中では見当がついていた。
「……はい。私はお会いしたことはありませんでしたが、たしかにリョウイチは何度もここ…… ミーレクッドに来ています」
「二、三ヶ月くらい前から…… か?」
「……! まさか記憶が……」
「いや、そんな気がした、それだけだ」
やっぱりなと、おれは思った。
はっきりとした記憶は無い。だがここで数日過ごすようになって、あの軍服や城の廊下とか、色々なものに時々見覚えがあるような感じが生まれていたのだ。
おれが言った時期が当たりなら、考えも当たりだろう。『病気』の間に見て忘れていた夢は、この場所に呼び出されていた間の記憶。おれが消えていたのは、ここにいたからだ。
「なぁ、前に来たおれは…… どうやって元の世界に帰ったんだ?」
「リョウイチ……」
おれの名前を呼ぶ声に、戸惑いが入る。そんなつもりは無かったのに、不安にさせてしまった。
「……この世界を見捨てようってわけじゃない。ただ、あいつらにムカつかれている理由が知りたいだけだ」
「有り難う…… ございます……」
「ございますはいらない」
ぶっきらぼうに言って、おれはパンをかじった。空になったカップを下げ、新しいものを注いでくれる音がした。
――そんなつもりは無かった。
それは本当だろうか。知って出来ることなのなら、とっとと戻ってしまいたくはないのか?
――そんなつもりは無かった。
それは本当だ。「この世界を見捨てようってわけじゃない」、例えそれが嘘であっても。
「実は…… 良い気分はなさらないと思いますが…… 以前のリョウイチは逃げ出してしまったのだそうです」
「逃げ出した……?」
おれのオウム返しに、「はい」と答えるルア。恐る恐るという感じで、ためらいがちに彼女は話す。
「初めてこちらに現れた時は、地下の祭壇でハリーゼル達を見た直後に消え。次は歓待を受け、この世界の実情を聞いた直後に消え。その後も勇者としての訓練中、城内を歩いている時、父に謁見を受ける前など…… リョウイチは、ことあるごとに姿を消していたそうです」
これまで起こった『病気』の回数は、しっかり数えたわけじゃないが短いものを含めれば十回は超えている。
「……その度に、おれはいちいち記憶を失って……?」
「はい…… 今回と同じように。召還の儀を一から執り行い、現れたあなたに事情をお話する行程が、何度となく繰り返されていたと聞いています。その間にも世界は急速に荒廃し、多くの国が滅び……」
それはなんて面倒くさいやつなんだろう。殴られたことに納得はいかなくても、どこか納得はいった。
世界が滅ぶ一歩手前。そんなやつが近くにいたら、たしかにぶっ飛ばしてやりたくなるかも知れない。おれにとってははた迷惑なよその話でも、ここにいる連中にとっては命がかかっているのだ。
「見かねたハリーゼルはもう逃がすわけにはいかないと、魔法師達を総動員してあなたをこの世界に縛ることの出来る…… そんな魔法を開発させたのだそうです……」
「この世界に縛る……」
だとすれば、その魔法は呼ばれた時にはかけられている。
悪夢から覚めるように、逃げ出す方法はもう無いのだろう。
「なんでおれなんだ……? こんなやつ放っておいて、他のやつを呼べば良かったんじゃないか?」
「儀式にて呼べる勇者は、私達が決めているわけではないのです。言い伝えによると、窮状に対し最も適したものが世界の選定により召還されると、そうなっているのです」
儀式、言い伝え、そうなっている。
「……むちゃくちゃだな。だとすると、世界はアホだ」
巻き込まれたゲームのような、ファンタジーの舞台。科学的なことには、理論的なことには何も期待していない。それでも、ため息が出る。
「こんなただの日本の中学生なんて呼ばずに、もっと体のでかい外国の軍人とか、オリンピック選手でも呼べばいいだろ……」
心底そう思う。おれなら、そういうやつを選ぶ。
これは現実なんだ。普通に考えて、ひょろい子供がゲームや漫画のように戦えるわけがない。
「なんでおれが……」
ぐっと、床に転がっていた床石の欠片を握る。
さらさらと、ぽろぽろと、石はたやすく手のひらに砕けていった。
まるで普通の考えを、この場で否定するかのように――
おれの呟きにルアは何も答えず、おれはぬるい紅茶を口に含む。
「なぁ、ルア……」
「はい……」
どうにも彼女の前で、おれは愚痴っぽくなってしまう。
「前の勇者っていうのは…… 魔王を倒したあとはどうなったんだ?」
本当はこんなうっとうしい、嫌な口ばかりききたいわけじゃない。
「……伝承によれば、その後は騎士として、我が国に仕えたと聞きます」
甘えているのだろう、おれは。
「はっ…… よくやるな。っていうか、終わっても結局帰れねぇのかよ……」
ここで唯一甘えさせてくれる、彼女に――
「リョウイチ……」
背中に、わずかな温もり。
「有り難うございます」
鉄格子を挟んで、彼女が背中を合わせていた。
「……毎日お辛くても、生きていてくださって…… 感謝しています」
小さな声の振動が、おれの体に伝わる。
「私は他の誰でもなく…… リョウイチが来てくれたことが、嬉しいです……」
その存在感――
「勝手だな…… おれはここに来たせいで、さんざんだってのに……」
「はい…… 申し訳在りません……」
彼女が温もりを持った、「人間」なのだという存在感――
「あと、な……」
その温かさに、
「ございますは、いらない……」
――おれは少し、泣いていた。
「この世界を見捨てようってわけじゃない」、それは嘘だ。
この世界なんてどうでもいい、勝手に滅びてしまえ。
ただ彼女を―― ルアを見捨てることだけは、おれには出来そうになかった――




