8.青き希望の瞳
全身が、鉛のように重い―― そんな例えが、本当におれの体に起きていた。
全身が、燃えるように痛い―― そんな例えの中、おれは目を覚ました。
「……? あれ……?」
四角い石の一室。
でもそこは今までいた場所ではなく、もっと汚らしい感じの、暗くて狭い場所だった。
「どこだ…… ここ……」
部屋の中に、斜めに光の帯が射していた。
壁の高い位置から射し込む四角い光。それが月の光で、小さな四角い穴の向こうが夜だということはすぐにわかった。
おれは部屋を見回す。清潔とは思えないベッドと、部屋の隅近く、不自然に立った薄い木の板が目に入った。
「……鉄格子」
後ろを向いたおれはそれを目にした。そこには壁が無く、代わりに何本もの鉄の棒が並んでいた。
「……なんで?」
おれは気を失う前の出来事を思い出す――
――痛みはなかった。
人は怒りが全開になると、痛みを感じることがなくなるという。そんな話を弟から聞いていたが、本当だった。でもそれは一瞬で、床に転がったおれの全身と、殴られた顔面には受けたことも無いような激痛が走っている。
「行くぞ、パドレ。躾だ、回復はくれてやるな」
おれを殴ったハリーゼルが、パドレとともに去ろうとする。
「ま、待て……!」
痛む顔面を抑えて、おれは追いすがろうと体を起こす。
「……!?」
おれは、絶句した――
「面倒をかけるな。お前は『勇者』として軍に入った。私の駒で、上官は絶対だ。わかるな?」
振り返ったハリーゼル。
その右の拳が、赤々と、『怒り』を滾らせるように燃え盛っていた――
「……わかればいい、今の行動は不問にしておこう」
完全に気力を失ったおれに、笑うことさえもせずハリーゼルは去り、鉄の門が降ろされた。
そして背後、石の壁がゴッと動く音が聞こえた――
そのあとおれは、またスライムと戦った。
戦って倒したあとには壁の上、鉄格子からおれを見ている軍服の連中から回復魔法が降った。木刀が折れれば、鉄格子から新しいものが降った。
二匹、三匹、それくらいまでは憶えている。必死に生き延びようともがく中、倒し方も、なんとなくわかってきていたような気もする。
どこかで失敗したという憶えは無い。多分、途中で力尽きたのだろうと、そう思う。
「『勇者』…… か……」
おれは勢いよく、ベッドの端を蹴った――
「ふざけんなよ! 何が勇者だ! こんな勇者があるかぁっ!」
ベッドの端を蹴って、蹴って、マットを殴って、殴った。鉄格子を蹴って、蹴って、蹴りまくった。
「泥棒かよ! 奴隷かよ! なんでこんなところにつっこんでいるんだ! 出せよコラ! 出せこの野郎!」
叫びに叫んで、喉が痛く、体が痛くなっても、おれは暴れ続ける。
でも体はすっかり弱りきっていて、すぐにくずおれた。
ゆらゆらと、鉄格子の向こうから火の明かりが見えていた。なのにどれだけ暴れようと、わめこうと、誰一人来る気配は無い。暗い世界に一人、おれは閉じ込められ、ただ全身に寒さを感じるだけだった。
「どうなってんだよ…… なんで覚めない……!」
――白昼夢。
今は暗く、夜に見ている、そして現実。見ていた記憶だって忘れない、脱出不可能な、覚めない現実だった。
体が自分のものじゃないみたいに、浮いたみたいに感じた。喉の奥から息を詰まらせる痛く、苦しいような感覚がやって来る。
どうせ誰も見ていない、見向きもしない。情けなく、泣いてしまってもいいのだろう。
――『それでなんとかしろ』
だがおれは、泣く気にはならなかった。
「くそっ……!」
立ち上がったおれは鉄格子を一発、思い切り蹴り飛ばす。無茶苦茶をする大人への怒りが、おれに涙を流させなかった。
足裏に感じるしびれと暴れた疲れに押され、おれはまた床にへたり込む。学生服の黒いズボン越しに感じる、冷たい床の感触。その冷たさが、少しおれを冷静にした。
「どうすりゃいい…… どうすりゃ覚める……」
考えを巡らせる。
常識の外の世界。魔法があって、魔物がいて、魔王だっている。きっと学校で憶えることや、大人達の常識なんかでは解決出来ないだろう。
なら、ゲームだ。きっと似ているからには、そこに解決の手段があるはずだ。
「……やるしか、ないのか」
――「魔王を倒す」。
現実的に、答えはそれ以外に無いように思えた。
『勇者』としてこの世界に放り込まれた。なら『ゲームクリア』の方法は、それしかないだろう。
「クリア……? クリアする……? すればいいのか……?」
それしかない。でも、『エンディング』はどうなる? おれは魔王を倒して、元の世界に戻れるのだろうか。
魔王を倒したその後の勇者―― その続きが見られるゲームを、おれは知らなかった。
「っ……!」
ふと、急なイラだちが湧く。
「冗談じゃないっ……!」
こんな汚い牢屋の中、前向きに物事を考えようとした自分に対してのイラだちだった。
「知ったことかよ、クソ野郎が……!」
世界が危機に瀕している? 経験値を積めば魔王を倒せる? だからなんだって言うんだ。
それをおれがやって、得をするのはあの人間とは思えないクソ野郎じゃないか。
「ふざけやがって……!」
おれはその場で、腕を枕にして床に寝転がった。
床のゴツゴツとした石の感触が、全身に痛い。それでもかまわず、寝転がって天井を見上げて目を瞑った。ベッドがあろうと関係無い、使えば負けのような気がした。
夜の冷えた空気と冷たい床が、おれの体温を奪っていく。
起きたばかりでさっきまで暴れていたはずのおれの体は、寝ていた時間も興奮も、場所も無視して睡魔に襲われていった。
――このままじゃ、風邪をひくな……
それもいいだろう。そんなことはどうでもいい。
ひこうがひくまいが、そんなことは一緒だ。どっちにしても、明日もスライムと殺し合いだろう。あんなことをやっていたらいつかは死ぬ。ずっとやった先でも、もっと恐ろしい魔物か魔王か、何かに殺されるだろう。
ゲームでさえ、一回も死なずにクリア出来たことなんてない。
ひょっとしたら明日にも、あの軍人に殺されるかもしれない。さんざんに殴られて、映画みたいな拷問を受けて、それで殺されるのかもしれない。
だったら風邪に殺された方が、よっぽどマシだ――
そんなことをおぼろげに考えながら、意識が薄れていく――
カツカツと、カツカツと、なにかが床を叩く音の中、意識が――
「……!?」
赤い軍服―― ハリーゼルを思い出し、おれは一気に目を覚ました。
やつが近づいてくる、それだけでおれの体は床から飛び起きていた。
「……?」
カツカツ、カツカツ。ゆっくりとした床を叩く音。
ハリーゼルの革靴の音を思い出していたおれだったが、よく聞くとその音は軽い。
やがて鉄格子の向こうから、廊下を照らす、火の明かりが迫ってくるのを感じた。
鉄格子の右端、石壁から、綺麗なカンテラをぶら下げた手が覗く――
おれは、目を見張った。
その子も、目を見張っていた。
目を合わせたままの、数秒間の沈黙。
どこまでも深く思える青い瞳に、火の明かりが揺れていた。
それがおれにとっての、たった一つ許された「希望」との出会いだった――




