19.c13,12/17 夕
太陽は海へと傾き、港は青とオレンジのグラデーションに染まっていく。
光り始めた街灯の通り、酒場の前に立つ男が、チリトリをホウキでかんかんと叩いた。
「あらダテさん、お早いですね」
掛けられた声に、掃除用具を持ったダテが顔を上げる。
まだ店に入る前の、髪をまとめていないナタリーの姿があった。
「おう、おはよう」
「そろそろこんばんはですね」
「たしかに」と頭を掻くダテに、ナタリーがくすくすと笑った。
「機嫌良さそうだな、どうした?」
「え? いや、なんでも。じゃあね」
ナタリーが手元に持った封書に目を落とした一瞬を、ダテとクモは見落とさない。
彼女はムクィドの建物に張り付く、二階への鉄骨階段を上っていく。
『クモ』
『あいっ!』
クモが上昇し、予め開けておいた二階の窓から侵入した。
――あの封筒だ……
十二月十七日。彼女が手に携えた一通の封筒。その中に入っている手紙こそが彼女の動向を決め、世界をループへと陥れる。
わずかな情報達の中から導き出された自らの答え。ダテは二階を見上げ、その正否の確証を待つ――
やがて二階の窓から、金色の光の粒子とともに妖精が飛び出した。
『どうだ?』
ダテの思念の先、小さな指先が「OK」のサインを見せた。
深夜、ムクィドでの労働を終えて戻った仮住まい。
テーブルに敷かれた紙の上を、ペンを抱えたクモがよちよちと踊る。
『ふ~、大将、これで出来上がりっス』
『ああ、よくやった』
クモによって書かれた数行に亘る文章。
ダテは静かに、並ぶ異国の文字へと手のひらをかざした。
『気がとがめるっスな……』
『他のやりとりはともかく、こればっかりは確かめねぇとな……』
その一連の文章は、ムクィドの二階にてナタリーが開いた、例の封筒の中身だった。
クモは一度目にした物の造形を完全に記憶することが出来る。それは例え、読むことの出来ない文字であっても変わらない。そしてダテには――
「『解読』」
並べられた文字の一群を、自らの慣れ親しんだ言語へと変換する魔法が備えられていた。
手のひらに白に近い灰色の魔力―― 「時空」属性の魔力が集まり、薄いもやが霧のように紙の上を戯れる。「解読」の魔法が効果を現し、文章が「日本語」へと塗り替えられていく。
――親愛なるケリファへ。
少し忙しく、乱筆になってしまうが容赦してくれ。
何より、らしくもなく楽しみのあまり少しばかり興奮しているのだ。
突然のことで驚くかと思うが、今度私はアキュラへと赴くこととなった。
そう、君の住む、アキュラの港町だ。
今私は、その準備に追われて忙しい。
君と文を交わすようになり、もう一年以上になるのか。
人生に迷う君が気になり、せめて力になれればという想いで続けていたこの文通だったが、
君という人間の優しさに触れ、気づけば私の方こそが癒やされるようになっていた。
本当に君には、感謝の念が絶えない。
どうだろう?
このような機会がまたあるかはわからない。
よければ私と、一目会ってくれないだろうか?
私は君と一緒に君が手紙で語る、君の町を見て、一緒に寒さに震えてみたい。
飲めない酒をなんとか舐めながら、君と目を合わせ、この口をもって、
これまでさんざと手紙で語り合った、「人間」について論じたい。
そして一緒に、賛同と批判を交えながら、来たるジャドの講演を見よう。
全て叶うのならば、今それに勝る喜びは考えられない。
この手紙が着く頃、私はもうその町にいる――
願わくば親友でありたい文の友、ワシムより。
『大将、こちらを』
『……これは』
ダテが読んでいる間、クモが書いていたもう一枚の紙を手に取る。無数の線と文字が描き込まれた、地図らしき一枚へとダテは手をかざした。
『俺がホットドッグを食っていた広場だな…… 時刻は十九時半、白い帽子を被って待っていると書いてある』
「解読」によって注釈が日本語化され、地図は周辺のものであることがわかった。町の上空からの風景はクモによって一度脳内へと送られている。記憶している特徴のある建物からも、場所に間違いは無いようだった。
『大将…… お手紙にはなんて?』
『……どうやら、当たりみたいだな。ワシムってペンネームの男が、ナタリーに会いたがっている。そしてこっちは場所の指定だ』
『イジワルしないでお手紙を読んでくださいよぉ』
『それは勘弁しろ、人の手紙だ』
『ぅむぅ……』
「解読」の魔法は、術者であるダテ以外には効果を共有出来ないものだった。せっかくの自らの働きによる収穫であり、内容の気になるもの。クモが知りたがるのもわかるが、ダテは口外をやめておいた。
個人的なものであるということもあるが、単に口にするのが気恥ずかしいという面もある。日本人として育った彼の気質には、その文面は大げさに、情熱的に過ぎて映った。
『クモ、これを読んでいた時のナタリーの様子は?』
『ああ、そりゃもう…… 嬉しそうというか感極まったっていうか涙ぐんで……』
『そうか……』
だが、表現の文化は違えど、その気持ちは理解できる。受け取ったナタリーにしても、送ってきた相手にしても、お互いに一年もの間のやりとりがあるのだ。手紙に文字を書き、送り、そして待つ。その面倒を越えて続いた一年。相当な信頼関係が生まれているのだろう。
そんな経験は持たないダテにも、想像は難くない。
「う~む……」
ダテはテーブルを離れ、ベッドにごろりと横になった。
彼女ら個人の気持ちはさておき、文面から読み取れる情報を整理してみる。
以前にナタリー本人から聞いた通り、文通はお互いに匿名で行われていた。受け取ったナタリーは「ケリファ」、送り主は「ワシム」というペンネームになっている。
海外にいて、心理学を教えていた大学の教授。そして、二周目の最後の日にテレビで見た親しげな様子から、ダテは「ワシム」がジャド本人である可能性を考えていた。だが文面には、「一緒にジャドの講演を見よう」とある。単純にその内容通りであれば、ダテの前提は早とちりであり、ただの思い込みともなる。
今持っている情報からだけでは、「ワシム」の正体を特定することは出来ないようだった。
しかし、これではっきりとしたこともある。
ダテが仕事中、ムクィドに置かれている新聞で調べたところ、ジャドの講演は十二月二十日―― 最終日の午前中となっていた。この手紙の差出人が誰であろうとも、ナタリーは相手に会いに行き、翌日ジャドの講演へと行くことになるのだろう。そしてその機会をきっかけにして、最終日のテレビ出演へと繋がる流れがあるのだ。
結果に至る過程の大部分は不透明。だがそれでも、大筋はダテの予想通り。この手紙こそが彼女の行動を決め、世界をループへと導く起動キーであることに間違いは無いようだった。
「人の手紙を見るってのは、やっぱよくねぇな……」
『大将?』
「いや……」
わざわざと、手紙を盗み見た成果はあった。しかし成果よりも、人の秘密を覗いたという後味の悪さが残った。そして自らがこれから「仕事」の解決のために、やらなければならないことへの予感。
ダテは沈黙に沈みそうになる気分を振り払い、頭をクモへと向けた。
「……とりあえず、明後日はまたお前頼りだな」
『はい?』
「考えてもみりゃ、明後日はデイトルがムクィドにちゃちゃを入れに来る日で、ナタリーが急に休みを取った日だった。その手紙の通り、相手に会いに行くんだろうよ」
『ああ! ガッツリ監視っスな!』
クモという存在は、ダテやクモ自身が許さない限り相手に気取られることがまず無い。忍ばせるにはうってつけの存在であり、クモもそういった形で彼に貢献できることを喜んでいた。
『でも…… 正直気がすすまねぇス……』
しかし今回はケースがケースだけに、さすがに完全に乗り気とはいかない様子だった。必要なこととはいえ、出歯亀のような行為。気が咎めるのか、両手の人差し指をちょんちょん合わせながら項垂れる。
「我慢してくれ、報告の中身もお前に任せる」
『はぁ…… わかったっス……』
一応の納得を見たダテは、枕を引き寄せて頭の下に敷いた。
「頼んだぜ、ワシムさんとケリファさんの監視、会話を聞き逃さないようしっかりな」
『……?』
項垂れていたクモが、顔を上げた。
「……? どうした?」
『……ケリファさん?』
「ああ、ナタリーのペンネームだが……」
冒頭にあった彼女を示す名前、カタカナに変換されたそれに見間違いは無いはずだった。
『それ、マスターの名前っスよ?』
「はぁ!?」
寝に入ろうとしていたダテが、がばりと身を起こした。




