16.c13,12/12 深夜
階段を下り、古書の群れた匂いがこもる一階へと下りる。
壁のスイッチが押され、ぼんやりとしたオレンジの光が店内を照らし出した。
「ふむ、どこに置いたか…… 売れてはなかったはずだが……」
目を細めたデイトルが、顔を本棚に寄せて背表紙をたどっていく。
『自信満々について来いっ言って…… お店の中っスか?』
クモからの思念には答えず、ダテは様子を見守った。何を探し、何を見せようとしているのかはわかりようもない。だが、重要な何かが出てくるのだという予感はあった。
説明も無しに人を振り回す、そういう行動には得てして大きな確信が隠されている。本人の自覚は別に、ダテ自身もそういった行動をよく取る人間なだけに、予感に疑いは持たなかった。
「おお、あった、これだ」
ある程度心当たりがあったのか、ほどなくデイトルは動きを止め、本棚から一冊を引き抜いた。ダテの元へと歩みよったデイトルは、その一冊を彼へと差し出す。
白く厚い、ハードカバーの本。受け取ったダテは困り顔で首を振った。
「すまんが、俺は……」
「おっと、そういえば読めないのだったか」
「あ、ああ……」
読むことはできる。人前では読めないというだけだ。
デイトルは気にするなという風に肩をすくめると、ダテに背を向けて店の入り口へと歩き出した。
「その本の著者はジャド。飛行機に乗らねば行けぬような、遠い異国の賢人よ」
「ジャド……?」
『あれ……? どこかで聞いたような……』
クモからの思念が届くが、ダテ自身には憶えはない。
「少々おかしな点もあるが、なかなかに良い本だったぞ。人の道を知る手引き書としては悪くあるまい」
話しながら、デイトルはカウンターを漁っていた。新聞紙らしき紙束を探った彼は、戻ってくるとダテの前でページをたぐり、中身を開いて見せる。
「そしてこちらは、先日の新聞の三面だが、その男はこんなツラをしている」
「……!」
デイトルが指し示した写真には、浅黒い肌をした、眼鏡の男が写っていた。
「この男は……」
『間違いねぇっス! これ、テレビに映っていた……!』
呆然と、デイトルの顔を見るダテ。デイトルの顔には笑みがあった。
「当たりのようだな…… では、戻るか」
「ジャドはハーム大学という場所で心理学の教授をしていた男でな。若くして突然に学会を離れ、今は思想家というか…… 人の道を説きながら世界を転々としている、ちょっと変わった男だ」
ぱさりと音を立て、テーブルの上へと新聞紙が置かれた。二人は椅子を引き、再び対面して座る。
「それがナタリーと、何か関わりがあるのか?」
「これまで彼女のために、何度となく彼の本を取り寄せてきた。それに近々と、彼はこの国に訪れる予定となっている」
「訪れる……?」
『あ~! なんっか聞いたことあると思ったら! この人っスか!』
横から大声で響いた思念に、ダテの顔がクモの方を向いた。
『テレビのニュースかなんかでやってたんスよ。どっか大きな建物の前で手を振ってる映像で、言葉は全然わかんなかったっスけど、ジャド、ジャドって名前っぽい言葉が何回も出てたっス』
『来訪のニュースってやつか?』
『多分そうだったんだと。今思えば映ってたのはこの人っぽかったっス』
「一部熱狂的な信者もいるような結構な大物だが、テレビに出られるような人間で、彼女に関わりがありそうな者と言えば彼くらいにしか思いつかん。当たったようで何よりだよ」
『ほぇ?』
ごく自然な形で思念での会話に割り込まれ、クモがデイトルを見る。デイトルはダテの方を向いたまま、冷めたコーヒーを飲んでいた。
「信者……? 何か…… 宗教か何かの男なのか?」
「いんや、思想家と言ったろう? 彼はたしかに独特の教えを説いてはいるが、神を語ったりなどはしないし、会員を募ったりもしない。信者というよりはファンか。斬新な人間には少なからずつくものだ」
「ナタリーもその一人だと?」
「それはわからんな…… 当人の気持ちは当人にしかわからん」
聞くに怪しい話だった。非日常の世界のような派手さはなくとも、日常の中にも陰湿な悪意というものは存在する。己の利益や虚栄心を満たすために、他者に詐欺まがいの啓蒙を仕掛ける人間はどこの世界にもいる。
ダテは記事に載る、ジャドという男の風貌を覗き込んだ。
「どういう男なんだ?」
ダテは人の「悪意」というものに敏感で、大抵の人間の善悪を一目で見抜けるだけの経験と勘を持っていた。しかし写真から窺えるジャドからは特に悪い人物という印象は受けず、むしろ普通の人間という感覚しか抱けない。折り目正しくスーツを着る人の良さそうな相貌は、どちらかと言えば人柄ゆえに悪意に晒される、そういうタイプに思えた。
ましてやこの男が何か、「世界」が拒むような引き金を持っている。そんな人物であるようには、どうひっくり返しても見えなかった。
「そうだな…… 極めて、安全な男だな」
「安全……?」
「彼が誰かを傷つけるようなことは、まず無いだろう。見た目通り、見た目以上に清廉潔白にして温和な男だ。彼のような男はダンニワスの修行僧にもそうはいないだろう」
「ダンニワスっていうと、あんたがいた?」
「ああ、それはいい。彼がこの国に来るのは新しい本の宣伝の一環…… ということらしいが、訪れた際には小規模ながら集いの場も企画されている。直接会える機会というのはファンにとっては嬉しいものだろうな」
ジャド個人が実際にどういう人物なのかは別にして、写真や状況からしてあの時テレビに映っていた男で間違い無いということはわかった。
手を貸すといって示したデイトルからの情報は、たしかに一つと「仕事」を進めてみせた。
「……しかし、どういうことだ?」
「うん……?」
だがダテは今現れた人物と、これまでのムクィドでの日常の間。そこにあるぽっかりと空いた穴を埋められずに首を捻る。
「いや、ナタリーがこの男のファンだとして…… それでその集いとやらに行って、こいつに会うという筋書きがあるとすれば、それはわからない話じゃない」
「ふむ…… まぁ人のことなどわからんが、行って不思議ではないだろうな。集いといってもただの講演会のようだが、近くでやってくれるというのならばせっかくの機会だし、行ってみたくもなるだろう」
「だがそこから…… なぜあんなテレビ出演に繋がる?」
「ふむ……」
デイトルは顎に手を当てて、考えるそぶりをみせた。
『ん~、たしかに、あれは一ファンがたまたまそこに~って感じじゃなかったっスよね?』
顎に手を当てて考えるそぶりは、大して本気で考えているそぶりではない。
ダテは仕方無く、ジャンパーの内ポケットから手帳を取り出し、これまでのナタリーとのやりとりを思い返してみることにした。
「……!」
――「心理学の先生」
その文字は、「12/13」の記録に、奇跡的に残されていた。
――『へぇ、文通……』
――『ええ、半年ほど前からですが海外の方と。心理学を教えていらっしゃる先生だそうなのですが、偶然縁が繋がりまして』
「……! そういうことか……!」
「……? 何かわかったかね?」
「文通の相手だ。名前こそ聞いちゃいないが、相手が心理学の先生だどうだとか言っていた」
「ほう……! なるほど……!」
『ハーム大学という場所で心理学の教授をしていた』、つい先ほどデイトルが言った内容と、十二月十三日のナタリーとの会話がカチリと音をたてるようにリンクする。
「事情はわからんが、これでナタリーはただの一ファンじゃない。出会って何かのはずみで一緒にテレビに映るって可能性は、充分に生まれた」
「ふむ、個人的な繋がりのセンは見えたな。ならば今回は、どう動くかね?」
ダテはにっと笑い、手のひらと拳を打ち鳴らす。
「手っ取り早く、番組をぶっ壊す!」
「おぉ?」
「……と、言いたいところだが、裏取りだな」
そして脱力して、にやけた顔のまま冷めたコーヒーをすすった。
「裏取りとは、今の筋書きのかね?」
「ああ、俺やあんたにしてみりゃ…… いや、あんたはどっちでもいいんだったか。俺にしてみりゃこの話は、ループさえ無くしてしまえればそれでいい。だが、ループが無くなれば当然その先が続いていくからな…… 意味不明にしろ原因がそこにあるようだからって、周り構わず無遠慮にぶっ壊してバックれるのも寝覚めが悪いだろ」
「はっはっ、出来るだけソフトに問題を解決したいか。意外に優しい男だったのだな」
「はっ…… 冗談。俺はえげつのない男だ」
くっとコーヒーを呷り、ダテは席を立った。
「ってわけで、俺はそれとなくナタリー個人を当たってみる。何気なく会話してりゃ、それっぽいことが聞けるかもしれないからな」
「そうだな、職場が同じというのはこの場合良いことだ。勘ぐられん程度にな」
それとなく当たるとは言ったものの、ダテは彼女に対してクモを張り込ませるつもりだった。それはデイトルに説明出来るものではなく、また、口にしたい話でもなかった。
「で、あんたは今度こそは何かしてくれるのか?」
「ふむ…… 特には思いつかんが、そうだな、ではジャドの著作でも読みあさってみるとするか。店内に何冊かあったように思う」
「ジャドの? 何かあてがあんのか?」
「特には無い。だが、ちょっと思うところもあってな。ひょっとすると何か今の状況…… お前さんが言うところの、世界がループに陥ってしまう理由を見つけだせるかもしれん」
「なに……?」
ひょうひょうとした気楽な口調とは裏腹に、彼の申し出はことの核心に迫りかねない内容だった。
真剣な目で見るダテに手をぱたぱたと、デイトルは笑って茶を濁す。
「期待はするな。お前さんと違って、勘など老いてしまってるのだからな」
そう言ってデイトルは席を立ち、一階へと降りる階段に電気を点けた。
ダテはやれやれといった体で、促されるままに階段を踏み出す。
「ああ、そうだ。今度の巻き戻しの日、ここに迎えに来てくれるか?」
「ん?」
「今回でループが終わるというのなら話は別だが、最後の日には彼女が出る番組があるのだろう? ここにはテレビが無いのでな」
提案として悪くなかった。翻訳魔法で誤魔化しているダテやクモとは違い、この世界に住み、当たり前にこの世界の言葉で話しているデイトル。彼に番組を見てもらえば、それだけで内容は明らかに出来る。
「わかった。約束は出来ないが、それでいいなら」
「うむ」
だが、素直に答えることは出来なかった。
仮に解決出来てしまえば、その時点でもうデイトルに会える可能性はなくなりかねない。
ダテは本屋を後に、夜の町を帰っていった。




