8.c12,12/11 夜
――何が起こった…… いったい……
雪の路地に座り込んだまま、ダテは呆然と周囲を見渡す。
右手には、桟橋と海。左手には、並んだレンガやコンクリート造りの、大きな建物。
それはかつて見た時と何一つ変わらない、ただ今は既に、目に馴染んだ光景――
「あの……」
手をこちらに向けたナタリーが、不安げに声をかけてきた。
『大将!』
「……!?」
脳に直接響いた、クモの声。
「すまない……」
我を取り戻せたダテは、厚手の茶色い手袋に包まれた彼女の手を取り、立ち上がった。
「どうなさったんですか? そんな薄着でこんなところで……」
「いや…… 実は…… 身ぐるみ一切盗まれてしまって…… 泊まるところも無しでどうしようかとウロついているうちに、情けない話が行き倒れちまったというか……」
「まぁ……」
ダテは体にまとわりついた雪を払いながら、幾分かの注意をもって質問に答えた。いつもの黒いジャンパーに、適当に引っ張り出した青いジーンズ。真昼の広場にいた時と同じにして、今のこの服装には確信がある。
彼は出来る限り「同じように」答えた。ならば彼女の次の言葉は――
「とりあえず、私の勤め先…… 飲食店なんですけど、そちらにいらっしゃいませんか? ずっと外を歩いていたなら体も冷え切っているでしょうし……」
確信の通り。彼はそれを顔には出さず、「続き」を演じる。
「いえ、言った通りで金もありませんし……」
「このままだと凍死してしまいます、こんな時に遠慮はしないでください」
「……はい。じゃあ、お言葉に甘えて」
彼の返事に小さく微笑みを浮かべたナタリーが、彼を先導して歩き出した。
半歩下がって彼女の背を歩くダテは、鋭い目でアキュラの港町を観察する。
「外国の方ですよね? どちらの方です?」
「……生まれは東の方の島国だそうです。今は南から、旅をしてきました」
「南……? ダンニワスからですか?」
「ええ、暑いところでした」
そんな国の名前は、「以前」は知らなかった。
「ここです」
やがて彼の前に、彼女の勤め先が現れる。
『ムクィド』―― 「初めて訪れる」、「勝手知ったる」、港の酒場だった。
――決まりだな…… これは、この「仕事」の初日だ。
ムクィドに連れられて約一時間後。ダテは口髭のマスターの後ろ、雑居ビルの階段を上がっていた。奇妙にしか思えないくらい、わざとにも思うくらい、マスターはまったく憶え通りの動作や仕草で四階へと上りきり、扉を開けて彼を案内した。
「じゃあダテくん、ここ自由に使っていいから」
「何から何まで…… すいません」
「気にしないで。丁度従業員募集中だったからね、こっちも助かるんだ」
「……ありがとうございます」
「じゃ、お休み。明日からよろしくね」
「はい」
テーブル、コートハンガー。ベッドにブラウン管テレビ。以前と同じ、まだ住み込む前の自室へと彼は足を踏み入れる。
「さて……」
ダテはジャンパーをコートハンガーへと放ると、腕を組み、足を組んでベッドへと座った。
ぽんっと白い煙を立て、クモが彼の前へと現れる。
「いきなりですが、「仕事」が動きましたね」
「動いたっつーか…… 戻ったな……」
ダテは部屋の床、「まだ」何も無い部分に目を向ける。ここに置かれる予定の白いストーブは、明日寒いだろうとマスターが持ってきてくれる物だった。それは記憶や考えなどとはまた違う、「物」が示す巻き戻りの証拠でもある。
闇から一転、ダテは確かに世界が巻き戻っていく様を見た。だがそれは、彼にしても断片的にしか理解の出来無い速さであり、ある種の幻覚を見せられたような想いすらあった。
しかし世界は夢幻でも誰かのペテンでもなく、確実に巻き戻っていた。マスターやナタリー、出会っていたはずの彼らの記憶すらも持ち去って。
「一応聞いておくが…… 今の時間は?」
「時間は壁掛け時計の通りです。ただ、日付は十日前になってますな」
クモは現在現地点の日付や時刻を正確に、瞬時にして知れる能力を持っていた。どうしてわかるのか、どのようにしてわかるのかは、クモ自身でさえもわからないらしい。感覚的には能力というよりは「機能」。人で言えば色や音を識別出来るというような、当然過ぎて疑問すらも抱かない類いのものであるらしかった。
「なら間違い無く、今は十二月十一日か…… 意味不明だな、突然過ぎる」
「そうっスね…… わけがわかりません」
意味不明、わけがわからない。ダテは「仕事」を通じ、何度となくそんな事態に出会ってきた。「過去」へ戻ったことも、またその逆も、全くの未経験というわけではなかった。
しかし問題はその原因――
全ての時間が巻き戻るという、神の所業とも言える大掛かりな出来事がありながら、彼はそれを予期することはおろか、発動の瞬間を察知することすらも出来なかったのだ。
世界の文明レベルを見るに、タイムスリップが可能な技術があるとは思えない。
世界の魔力を感じるに、それを可能と出来るほどの大きな力は無い。
今回の意味不明は、彼の知識の外にあるようだった。
「……クモ、お前は戻る寸前のことを覚えてるのか?」
「はい? 大将がベンチから立ち上がったところまでは覚えてますが……」
ナタリーやマスターには、彼に対する記憶は無かった。彼女達だけになく、それは今日酒場にいた客達も同様だった。しかしクモは憶えており、またダテ自身にもはっきりとした記憶がある。
ダテは考えを巡らせつつ、ベッドを立ってハンガーへと向かうと、ジャンパーの胸ポケットを探った。
しかしそこに、こういった時に必要な薄く固いものの感触が無い。
「ん……?」
「ああ」と、以前の行動を思い出した彼は、「空間」へと腕を差し入れ、黒い手帳を引っ張り出す――
「……残ってる」
「はい?」
手帳を開いたダテが、クモへと振り返る。
「あ……」
手帳の中にはベンチに座っていた時と同じ、これまでの記録が残されていた。
「全てが全て、一からになったってことじゃないわけか……」
別の「仕事」の記録の後。十二月十一日から十二月二十日まで、自らの筆跡は確かに続いていた。
彼のそばを飛ぶクモは、今は言葉を口から音声にして出し、姿を実体化させている。思えば以前、クモがこの世界で実体化出来るように魔力を与えた日は、前回の今日この晩のことである。
「ん~? でも今はしっかり十日前なんスけど……」
あらぬ方向を見上げて時間を確認しているらしきクモを置き、ダテは再びベッドに座った。
「……わからんな」
「ん~? ん~?」
「だが、状況としてはふりだしのようだ」
ぱたりと、手帳を閉じる。
「さて、どう動いてやるかな……」
ロクソル共和国、港町アキュラ。
二度目の日々が始まりを告げた。




