4.c11,12/17 夕
クローズドの看板が掛けられたムクィドの前、ダテはホウキでアスファルトを掃いていた。
周囲の街灯にはそろそろと明かりが灯され、太陽は赤く、海に沈もうとしている。ムクィドが開かれるまでの、数分前の一時だった。
『そうか……』
『う~ん…… 私が見る限りは、ほんとにただ店番してるだけって感じでした』
ダテの隣には、彼以外には目にすることの出来ない妖精の姿がある。
昨晩ムクィドに現れたデイトルという客。ダテは彼の経営する古書店にクモを飛ばし、午前中から今までの一杯を張り込ませていた。
しかしこれと言った動きは無く、そこにはただ、書店の店主の日常があるだけだった。
『ねぇ大将、そんなに珍しいものなんですか? 魔力を感じないって』
『んん?』
浮遊するクモに対して、ダテが片眉を上げる。
『いやほら、こういったいわゆる普通の、『魔法』が存在しないような世界ってやつですか? 誰も魔法が使えないわけですから、魔力が全然無いって人も普通にいそうな気もするっスけど……』
『まったく、何回言わせる気だお前は……』
ホウキでかんかんとチリトリのゴミを寄せながら、ダテが呆れを返す。
『これまでも何度となく教えたろ? 「魔力」っていうのはいわゆる「気」だのなんだの、生き物を動かしてるエネルギーだって』
『はぁ…… それは何回か聞いてるっスけど……』
『生き物全て、それこそ『世界』って生き物を含めて、全くゼロじゃ一切活動出来ない仕組みなんだよ。だから生きてる人間全て、どんなに微弱だろうが持ってるもんだ』
『誰でもっスか?』
『そいつ独特の雰囲気とか空気とか、威圧感とか言うだろ? 魔力を持ってるからこそ生まれる言葉だ』
『はぁ……』
どうにもピンとこないのか、クモは金髪を揺らして小首を傾げる。
――『あいつが、「要人」だ』
昨夜クモに対してダテが送った一言は、ムクィドに入店したデイトル、その姿を目にした瞬間に抱いた、彼にとっての確信めいた勘だった。
電気、水道、自動車に加え、航空機までもの文明をもった世界。しかしそこに『魔法』の技術の姿はない。それは世界の持つ魔力の量が少なく、それほどの利用価値が無い世界であることを示す。
そのような世界においては、人々には微弱な魔力を感知する力も、それをコントロールする力も無いことが普通と言えた。
しかし、彼のデイトルという男は――
『微塵も感じないなんてことはまず無い、あるとすれば、そいつはロボか死体かなんかだな』
その道に長けたダテにさえも不可能なまでに、完全に魔力を無にしていたのだ。
『ロボ!? まさかあのおじさん、ロボっスか!?』
『白黒ブラウン管テレビの時代に、そんな技術があるとすればだがな』
白熱電球がLEDに変わろうと、そんな技術は有り得ない。ハイボールを飲み、ピアノを楽しむ屍であろうと、魔力の供給無しに動くことはならない。
我ながら馬鹿なことを言ったと頭を振るダテに、歩み寄ってくる気配があった。
「あらダテさん、お早いですね」
セミロングの金髪を揺らし、ベージュ色のコートを着た女性。ムクィドのバーテンダー、ナタリーだった。
アップテールにした制服姿ばかりを印象付けられていたダテは、その姿にしばし戸惑う。
「ああ、おはよう…… じゃなくて、どう言えばいいんだ……?」
頭を掻くダテに、ナタリーがくすくす笑う。
――ナタリー。ここ数日で聞き及んだところによると、歳はダテの一つ下で二十三。
学生時代、進学をきっかけに単身アキュラの町へと移り住み、ムクィドにはその頃から勤めているらしい。大学卒業後も職も住まいもそのまま、気ままな一人暮らしを続けているのだと言う。
真面目で、頭が良く、落ち着きのある人。ダテが彼女に持つ印象はそんなところで、特別何かを思う―― 『要人』として目を見張らなければならないような人物ではなかった。
ただ一つ気になる部分があるとすれば、彼女はこの「世界」において、一番最初に出会った人物であるということ。しかし、ただそれだけで『要人』と見なしてマークし続けられるほど、彼の「仕事」は単純なものではない。
「掃除終わったぞ、開店前ってあとは看板出しとくだけだったか?」
「ええ。ふふっ、もうすっかり慣れましたね、ダテさん」
笑顔を崩すことなく、ナタリーが掃除されたばかりの店の前を見回していた。
「……? えらく上機嫌だな、どうした?」
ほんの小さな違和感。
別に無愛想でも笑わない人間でもないが、今日の彼女には妙に浮ついたような雰囲気を感じた。
「え? いや、なんでも。じゃあね」
軽く手を上げ、彼女がその場を離れる。彼女はムクィドの建物の脇、更衣室兼休憩所となっている二階への階段を上っていった。
その姿を目で追ったダテは、ホウキを杖に二階を見上げる。
「……見たか?」
『ええ』
答えを濁した彼女のその視線が、手元へと泳いだ瞬間を彼らは見逃していなかった。
彼女の右手には長方形の白い紙片。切手を貼られた封筒が持たれていた。
『むむむ……』
『どうした? クモ』
両手で頭を抑えてうなるクモに、ダテが細い目を向ける。
『ピンチっスよ! 大将!』
『え?』
『前々から思ってましたが、あの封筒のお相手が怪しいっス!』
ちっこい手で握りこぶしを前に出し、確信したとばかりに声を張り上げる妖精。対しダテは、保険のセールスを相手にするような顔で口を開く。
『文通相手だろ? 前に聞いたし、こんな時代じゃ文通も珍しくは無いだろ』
彼女には文通をやっている相手がいる。その話は、軽い話題として業務中に聞いていた。昨日今日入ったダテが聞ける程度の他愛も無い情報で、彼女本人も隠してなどいない。ダテからすれば、「仕事」の手帳に書いたか書き忘れたかさえもどうでもいい情報だった。
流行でさえもないただの文の文化にして、ただの連絡手段。それを怪しむということは周囲の人間の電話一本すら怪しむことと同じで、かなり非効率―― というよりも、現状ほぼノーマークな彼女に対しては変態行為に近しい。「仕事」に必要の無い限り個人的なことには立ち入らない、それは彼の信条でもある。
『男っスよ!』
『ああ、それも聞いてる。海外の心理学者かなんかで――』
『なんとかしてください!』
『はぁ?』
発言許さぬとばかりな勢いに、ダテの口がぽかんと空いた。
『大将をここへ拾ってくれた女の子なんスよ! もっといいところを見せて文通相手から早く奪わないと! それが転がりこんできた不作法な男が起こす、恋愛の王道展開ってもんでしょうが!』
『……お前は何を言ってるんだ』
ま~た始まったかと、そう思うより他なかった。
『きっとそれが今回の「仕事」っス! おじさん追いかけてる地味な展開より、ヒロインとの絡みを増やす路線に変更してください!』
『うん…… お前みたいなやつがきっと、邦画を駄作まみれにするんだろうな』
どういったわけだか、このクモという存在は可愛い女の子と恋愛沙汰が結構な好物だった。そこにダテが絡むのであれば、輪をかけて楽しいらしい。
半ばいつも通りな妖精の思考に、ダテは半ばいつも通りな呆れ顔でため息を――
「……!?」
――世界が、揺らいだ。
オレンジの雲間、波打つ海面、アスファルト、レンガやコンクリートの壁。その全ての境に四角いノイズが走り、遠くを歩く人が、コマ送りの動作で現れ消えつつ、途切れ途切れの歩行を見せる――
「……?」
『どうかしたっスか?』
ダテは辺りを見回す。
「いや……」
『なんスか? なんか…… 『禁則』にでも触れたっスか?』
「……そんなことは、ねぇよ」
心配そうな顔で見上げてくるクモに軽く笑いかけ、ダテは遠くを、見知った港の町を眺めた。
彼の目にはいつもの港の光景。なんら異常の無い、今の彼にとっての現実世界が広がっているだけだった――




