1.c11,12/14 夜
凍てつく海風をレンガに隔て、ざわめきの中に聞かせない。
天井に壁に、黒を基調とした内装を配した店内には、カウンター席と五つのテーブル席。地元では指折りの老舗であるバー・ムクィドは、今日も漁を終えて暇をもてあました船乗り達と、近郊の倉庫作業員達で溢れかえっていた。
両開きの玄関口から中央奥には、一台の古ぼけたグランドピアノが座す。それはこの店の今の客層にはひどく不釣り合いな、長い時を見守ってきた店のシンボルとも言えた。
「だから俺の方のナッツが少ないっつってんだろうが!」
入り口近くのテーブル席の一つ、一人の体格のいい男が椅子を鳴らして立ち上がった。頭に灰色の布を巻いた無精髭の作業着姿は、焼けた肌に相まったまさに漁師然とした様で、酔いを示した赤ら顔と伴い、中々の凄みがある。
対し、男が大声で威嚇する相手は、白いシャツに黒のベストとパンツという、フォーマルなユニフォームの年若い、男装のバーテンダーだった。
「そうは言われましても…… うちではマスターが決まった分量で出しているわけですし……」
歳の頃は二十代前半。長い金髪をアップテールにした彼女は、困り顔で男を取りなそうとするも、男は聞く耳をもたない様子で不満をわめきたてる。華やかとはいかないまでも、美人といっていい顔立ちの彼女には、困った風ではあってもさしたる怯えは見えない。それは周りのにやついた顔を向ける客達も同様だった。
近年のこの店ではそう珍しくも無い光景であり、地元では酔うとタチが悪いと有名な男の狼藉。店に馴染みのある者達にとっては、またかと言った類いのひと騒ぎに過ぎなかった。
「おやおや…… どうされました?」
騒ぎの中へと、彼女の脇からひょろりと細身の男が入る。彼女と同じ格好をした背の高い中年の男は、丁寧に整えられた口髭に見合った、落ち着いた仕草で酔漢の前に立つ。
「どうもこうもねぇだろ! 見ろよこれ、明らかに少ないだろうが!」
口髭のバーテンダー、ムクィドのマスターが男の示すままに白い小皿に目をやる。
それは店の乾き物の定番、ナッツの小皿だった。
「うーん、たしかに…… 少ないですねぇ」
マスターは二、三と目をしばたかせる。皿の上には、いつも出している半分ほどの量しか見られなかった。日に多く頼まれる安いメニューではあるが、この客からのオーダーはつい数分前。マスターはそれを憶えていた。
「だろ? てめぇ俺をナメてんのか?」
その見解に男は気を良くした声で、威圧を含めた目で彼を見据える。マスターは片手を前に、押しとどめるように軽く上げ、首を振りながらに言う。
「いえいえ、決してそんな…… お取り替えで、よろしいですかね?」
「取り替えだ? 何言ってやがる。俺にこんな扱いをしといてそれだけで済むと――」
「ところで」
言葉を遮ったマスターの目が、男の作業着の胸ポケットに向いていた。
「そこ、ちょっと膨らんでますよねぇ? 食べ物をそんなところに入れるのはどうかと」
男の目が、ちらりと自身の胸元に動く。その動きを見逃すことなく、マスターは言葉を繋ぐ。
「お忘れかもしれませんが、あなたがこの店でその手を使ったのは二度目ですよ? 前回は他のお客さんの手前見逃してあげましたが…… さすがに今回はないですね」
男から視線を外したマスターは、店のカウンターへと振り向くと二度手を叩く。
そこにはマスターや彼の横にいる彼女と同じ、バーテンダーの衣装に身を包んだ一人の男がいた。黒髪に少し見慣れない肌の色をした、見るからに若い異国の男。彼は磨いていたグラスを置くと、折り目正しい動作で騒ぎの渦中へと歩み寄ってくる。
「な、なんだこいつは……」
横柄を貫いていた男が、怪訝な顔でその異人を見る。観光客としても珍しい人種にして、今の状況に呼び出された男に、彼は戸惑っていた。
「ダテ君、お客さんがお帰りです。送って差し上げなさい」
目元涼しく、一言告げたマスターは場を後に、現れた彼の代わりとばかりにカウンターへと歩んで行った。
残るのは異人と対峙する男と、置かれたままの彼女と、客達の好奇の目。
わけもわからず立ったままの男へと、異人のバーテンダーが目を合わせる。彼は端的に、告げた。
「……だ、そうだ。悪ぃ、帰ってくれ」
「な、なに……?」
白とも黒ともつかない肌をした異人から放たれたのは、無遠慮なこの国の言葉。
男は理解出来た言葉に気勢を取り戻す。人種の違いに不気味さを感じこそすれ、見るに頭一つ二つ小さな若い男。舐められて癇癪を抑える必要も無い。
「てめぇ…… 相手見てもの言えよコラ……」
「見てるさ、ただのヤカラだろ? 客ですらねぇ。邪魔だからとっとと飲み代置いて帰れ」
体躯の差や憤怒の声を恐れる様子すら無い異人に、憤った男は酔いと怒りのままにテーブルをひっくり返す。ナッツが飛び、食器が割れ、倒れた椅子がテーブルにのしかかられ、盛大に砕けた。
その騒音に昂ぶった客の一部からは、もっとと言わんばかりの口笛が飛ぶ。
「おいおい……」
「でかいクチ叩くじゃねぇか! どうなるかわかってんだろうな!」
いよいよと、まわりの目線からの勢いも手伝って憤慨する男に対して、異人の男は頭を掻く。今にも殴り合いになりそうな場に、彼は冷や汗一つ見せることなく、ひっくり帰ったテーブルに目をやった。
「どうなるも何も…… お前今割った皿やら弁償出来んのか? 俺はお前の財布の中身が心配だ」
それを挑発ととった外野から、ひゅーと再び口笛が鳴った。
「や、やろう……!」
「足らないなら足らないで、周りから借りるんだな。ちょっとそこで待ってろ、マスターに皿代精算してもらうわ」
くるりと、異人の男が背を向ける。
「ふざけんな!」
突如と男は、異人の―― ダテと呼ばれた男の背後から殴りかかった。
男の体躯にとって、ダテへの距離はまさにあっという間。まわりの客達が何か口に発する間も無く、彼の拳はダテの後頭部へと飛ぶ。
「……!?」
しかしそれが到達する寸前、後ろを向いていたはずのダテの体は消えていた。
肩すかしを食らい、突然に背後から背中を押された男は、そのままの勢いで床に前転し、大の字に転がった。
「そんなところで寝るなよ、だらしねぇなぁ」
「な……? ……?」
床に仰向けに寝転がり、上下逆さまに見る世界。涼しい顔でダテが見下ろしていた。
「ほれ、さっさと立て。ぞっとするような代金がお前を待ってる」
「こ、この野郎……!」
床に手をついて起き上がった男は、怒りに任せて再びダテに殴りかかった。
真正面から顔面を狙った拳を、ダテが軽く横に動いてかわす。
「なろっ……!」
二発、三発、太い腕を振り回してしゃにむに殴るも、その全てが空を泳ぎ続けた。ダテは常に男のそばを離れず、くるくると横や後ろに動いているだけであるのに、何度殴ろうとも掴みかかろうとも指先ひとつ触れることが出来ない。
思い通りにいかない苛立ちに、男は声を上げて一撃渾身の拳を振るい、空を切った勢いで前のめりにバランスを崩す――
「おっと、踊りたいならちゃんとペアの方を向けよ」
他の客のテーブルにつっこみかけた男の首元に、ぎゅうと前から作業着が食い込んだ。
後ろから襟首を掴んで男の転倒を妨げたダテは、そのまま強引に服を引っ張る。
「ほれ、足下が危うい、酔いすぎだぜ」
「ううっ……? おおおぉっ……!?」
食い込む襟首に男の体が後ろ歩きを始める。酔った足下が今度は後ろにと転倒しかけるところを、ダテは作業着の袖やら肘やら、あちらこちらを引っ張って倒れさせない。
そしてダテは、掴んだ男の襟首を押し、無理矢理に男を前に走らせ始めた。
「うおおおっ!? なんだ!? やめろおぉっ……!」
襟を掴まれたままの男は、ダテを中心に円を描いてぐるぐると走り回る。
二周、三周―― 真ん中で小刻みに足を刻むダテに合わせ、男はなすがままに走り続け――
「それ! フィニッシュだ!」
急激な横回転から一転、ダテが勢いよくその場にしゃがみ込む。
男の体が襟首を軸に綺麗な縦回転を見せ、そして――
「……!?」
静かに仰向けに倒れた男へと、ダテの拳が降り、その眼前に止まった。
くたり、と、呆けた男の体から、力が抜けていった。
数秒の静寂を挟み、ムクィドに大歓声がわき起こる。
拍手と口笛が鳴り、周囲の客達からおひねりが飛んだ。
「あ…… あ……」
ぱくぱくと、呼吸に苦労している様子の男の目が、立ち上がったダテへと向く。
見下ろす彼の顔には、どこか呆れたような、柔和な笑みが灯っていた。
「よかったな…… みんながお前にカンパしてくれるってよ」
「え……?」
「投げられた金で弁償には足りるだろ。飲み代はちゃんと払えよ?」
「お前……」
「あと、後でマスターとナタリーには謝っとけよ」
身を起こし、男が追いかけたダテの視線の先、チリトリとホウキを持ったバーテン姿の彼女―― ナタリーが、他の客達と笑い合いながら倒れたテーブルや食器を片付けていた。
「……すまねぇ」
その光景を見つめる男がぽつりと言い、ダテは「へっ」と、小さく鼻で笑った。
「ダテ君」
ダテの背後からマスターが歩み寄り、軽く彼の肩を叩いた。
振り返った彼にマスターは店の奥、グランドピアノを指す。
ダテは頷き、そろそろと席に戻り始めた客達へと口を開く――
「みなさん、お騒がせしました。お詫びに一曲やらせていただきますので、楽しんでいってください」
興奮覚めやらぬムクィドの店内を、陽気なカントリーが流れた。
ロクソル共和国、港町アキュラ。
冬の海風吹きすさぶ町の、変わることの無い穏やかな日常が続いていた。
前章より長らくお待たせしました。
玄人仕事『#8』開幕です。
今回はこれまでの章には無いタイプのお話となっており、やや難解な内容となっておりますが、おつきあい頂けると幸いです。




