1.行き倒れシーサイド
1Kの安普請なアパートの一室、携帯を握って男が喋っている。その声色は普通の会話にしては若干高かった。
「ええ、ええ、ただいま戻りました。タイムシート郵送しますんで、また月末にでも振込みを…… ああ、いやいや、いいんですよ急な夜勤くらい。休みがちな私を切らずに仕事まわしてくれるだけでもありがたいことですから。えっ? ああ…… 最近はちょっと体もいいようで…… はい、それじゃあまた、ありがとうございました」
ふぅ、とため息をつきながら二つ折りの携帯を閉じ、出したままになっているこたつの上に置く。今時こんな骨董品もあるものか、時代を感じさせる携帯電話だった。
「今月はまだ12日か…… 恭次の入れてくれる金には手をつけたくないんだが」
男が一人呟いた時、インターホンのチャイムが鳴った。ひょこひょこと、ドアに向かう。
「はい?」
「ああ、伊達さんのお宅ですか? 配達です」
ややおカタい感じの制服を着た壮年の配達員がそこには立っていた。民営化されて随分と立つが、それ以前から勤めている者の雰囲気は何年経っても以前のままらしい。
「ああ、どうも」
おカタい配達員が来た場合は受け取る物もおカタい物だ。男は配達されてきた物に若干の興味と面倒くささを感じながら挨拶した。
「良一さん、ご本人です?」
「はい」
「こちらにサインを…… どうも、ありがとうございます」
ドアを閉め、部屋に戻る。
「内容証明……? ああ、キャッシュカードか、そういや再発行したっけ……」
思ったより面倒ではなかったと安心しつつ、それもこたつの上に投げる。代わりに置いたばかりの携帯を取り、時刻を確認した。
「切れた電球買いに行かなきゃだし、ついでに残高でも見てくるかな……」
と、これからの予定を考え始めた伊達良一の真横に、キラキラと白い光が集まりだした。
光は収束を始め、彼の身長ほどもある長方形を形作る。
「……おいおい、夜勤明けなんだよ、勘弁してくれない?」
~~
よく整備された石造りの堤防を、鳥を追いかけるようにして小さな少年が駆けていく。子供らしい行動には不釣合いな上質のシャツを着込んだ少年は、利発そうな顔立ちも手伝い見るからに良家の子に見えた。
鳥は少年の足など歯牙にもかけず、ひとっとびで滑空し、彼を置き去りに海へと飛んだ。
ドクス卿の一人息子タストは港に出て、今日も一人で遊んでいる。
彼の住むバロア島は観光地であり、シーズンになるまでは風景が綺麗なだけの小さな漁村にすぎない。同年代の子供もおらず、あるものと言えば時代がかった家々のただの白い壁と、人に慣れて好き放題にうろつく猫や鳥、そんなものだ。物心ついた頃からすぐにここへと移り住むことになった彼自身には、それが寂しいという感情は無い。
ただ、退屈である。
観光客ならば絶賛するはずの陽光に照らされる白い街並みも、美しい砂浜も、島を取り囲む暖かで心地よい陽気も、彼にとってはただの日常の風景に過ぎないのだ。
退屈は言い付けを破り、こうして港に一人で来るほどに募ってしまっている。
だが今日はそんな退屈を破る、大きな予感を感じさせる出来事に遭遇した。
「あれ?」
~~
「アーニリア! アーニリア!」
白壁の別荘に彼女を呼ぶ声が聞こえる。使用人として住み込みで仕事をしている現地人、アーニリアは家事を中断し、声のもとを追った。
部屋数十もなく、そう広くもない別荘に騒然といった物音が巻き起こっている。玄関へと繋がる廊下を見ると、よく知った少年が手近なドアをかたっぱしから開け閉め、こちらを探している様子が伺えた。
「タスト様! どうなされました!?」
暇をもてあました少年が家事中に遊びをねだりにくることはある。しかし、今日は少し様子がおかしい。
「アーニリア! ちょっと! ちょっと来て!」
アーニリアを見とめたタストが、彼女を手招きする。少年は彼女が向かってくるそぶりさえ確認せずに、玄関へと走り出した。
ただならぬものを感じたアーニリアは着の身着のまま別荘を飛び出し、タストを追いかけは始める。脱兎の如く駆けていく子供を追う使用人服の女性。傍目からみれば子供のイタズラを咎めるために大人が追い掛けているという、ある種微笑ましい光景に見えないこともないのだが、実際に子供の身軽さと体力を相手にする大人はたまったものではない。
「ちょっと待ってください、何をそんなに……!」
なんとか力を振り絞り一声かけられる距離まで近づくと、アーニリアは足を止め、息を荒げながらも問いただす。
「いいから、こっち!」
だが振り返った少年は彼女の状態を構うことはなく、無情にもどんどんと先へと進みだした。
「ああ! タスト様また勝手に港へ出て! こちらは危ないからダメと……」
褐色の肌に良く似合った長い黒髪を海風に乱しながら、再び少年を追いつつアーニリアが声をあげる。タストは彼女の言葉など耳に入らないかのように、夢中で駆けていく。
「ほら! あれ!」
やがて立ち止まり、タストは小さな指を前へと伸ばした。
アーニリアは熱くなった背中に汗がにじむ感覚を覚えながら息を整え、示された方向へ視線を向ける。
少年が指差す先、倒れている見慣れない男の姿があった。
~~
「はぁ、では、行き倒れですか?」
「ええ、まぁ…… 腹が減って、というわけでもないんですけど…… とにかく眠くって」
別荘の中、食卓にてアーニリアは男から事情を聞いていた。使用人としては関わりたくもなかったのだが、タストがあまりに強く言うもので男をこうして家に招いてしまっている。
男にしてはあまり高いとも言えない背丈。一見して粗末ではあるが複雑で、驚くほどに良い縫製の衣服。そう広くも無い肩幅の上には黒い髪と黒い瞳の、どこか子供じみた印象を受ける大人の顔が乗っている。
雰囲気から察するに、そう問題のある人間でもなさそうなのだが。
「それにしても、記憶が無いとはどういうことでしょう。何かあったのですか?」
「いや、それが…… それを思い出せればいいんですけどね。何があったのかもさっぱりで……」
「困りましたね、この島には大きな病院などはありませんし……」
聞けば男は記憶が無い、どうしてこの島にいて、自分が何者なのかもわからないという、一人の大人としては信用しかねることを言い出していたのだった。
「ほんとになんにも覚えてないの? 兄ちゃん」
先ほどから、男の隣に座って足をぶらつかせながら話を聞いていたタストが物珍しそうな感じで尋ねる。
「んー、兄ちゃんって歳でもないことは覚えてるんだけどな…… あと、名前?」
「名前は覚えているのですか?」
「伊達、私はダテって言います」
「ダテ…… 初めて耳にするお名前ですね。やはりこちらの国の方では無いのかも……」
アーニリアにはこの男の白とも黒ともつかない肌の色、顔立ちが気になっていた。多種多様な国の人間が訪れるバロア島、シーズン中の観光客の中にも見ることの無い人種だった。
「あ! あと一つだけ! これはなんだか覚えています!」
「はい?」
「はっきりとはわからないんですけど、何日かしたら迎えが来る。これだけはわかります」
「迎え…… どなたがです?」
「……? 誰だろう…… でもこれだけは間違いないと思うんですよね、多分数日で、誰か来てくれるんだって」
「……そうですか」
微妙な話だった。厄介なことにならずに出て行ってくれるのが一番ではあるのだが、彼の返事はどうにも心もとない。いや、ここまで来るともう彼女の中で、訪れるであろう厄介ごとがなんとなく予測されていた。彼女の横で、浮ついた様子で話を聞いている少年だ。
「ん~…… もうすぐ観光のシーズンだし、その時に来るんじゃない?」
横目でちらりと見てしまったのに気づかれたのか、少年が話しかけてきた。
「そうかもしれませんね……」
適当に相槌を打つアーニリア。目線を逸らし、頼むからそれ以上は言うなと心の中で念じるも――
「じゃあ兄ちゃん、それまでうちにいなよ」
「タスト様!」
――ほら来た!
彼女は思った。
「ダメなの?」
「それは……」
タストが最近退屈を募らせているのは感じていた。彼はきっと、この男を自らの家で保護しようと、自らの遊び相手にしたいと考えるだろう。そして、先のようなことを言い出すのだ。
ダメなのかと聞かれれば、個人としてはダメに決まっている。だが、それは簡単に言ってしまえるようなことではない。何もかもを失った人間を簡単に見捨てること。雇い主である彼の父に対し、そして母に対し、彼の前で道徳に反するようなことを見せることは世話だけになく、教育をも任されている身としては行い辛いのだ。
彼女の予測は予測の通りに当たり、自分が言葉に窮するところまでもが予測通りだった。
「いや、はは…… 気持ちは嬉しいんだけど、お家の人に怒られるだろうからそれはやめとくよ」
だが目の前の男は、では有難くとは言わなかった。
一応の分別はある人間なのかと、アーニリアはダテという人間を見定める。
「でも、兄ちゃんどうするのさ、名前しかわからないんでしょ? お金とかあるの?」
タストはただただ、引きとめようとしているのが傍目に見て態度に漏れ出している。だが、この少年は同年代の子供に比べても中々に賢い。論理的に男の弱点をつき、考えを崩そうとしていた。皮肉にも、アーニリアの教育の賜物である。
「ま、まぁ、なんとかなるさ。暖かい所みたいだし、さっきみたいに適当にどっかで寝てれば……」
「夜寒いよ? この島」
「えっ? 寒いの?」
「あと食べ物は? 漁師の人達厳しいから魚とか勝手に捕ってたら酷い目にあうよ?」
「ん…… 漁は自由じゃないのか…… 意外と進んでるじゃないか……」
「はぁ…… わかりました……」
やりとりを聞いていたアーニリアが切れ長の目を伏せ、ため行き混じりに言った。
「アーニリア!」
タストは彼女が簡単に折れるとは思っていなかったのか、弾んだ声で彼女を見た。
アーニリアは背を伸ばし、改まった様子を見せながらダテを正面から見据えて言った。
「悪く思わないで頂きたいのですが、こちらにはこの別荘の持ち主の息子であるタスト様、そして使用人の私しかおりません。本来このようなことは私達では決定できないことですし、常識的に決めていいことでもないでしょう……」
「ですよね…… 私も迷惑かけたくはないですし……」
「ですが、あなたがもし今度の観光シーズンでこのバロア島にこられる方…… 貴族様方の親類等であられた場合、見捨てたとあらば旦那様の家名によくない影響が懸念されます。くれぐれも、粗暴な真似をなさらないと約束頂けるのであればこちらに逗留することを許可しましょう」
元より、何もせずに追い出すような真似を彼女は考えていなかった。出来れば病院なり国の機関なり適切な場所を案内し、それが無理なら数日間の宿を工面してやりたいと思っていた所だ。使用人であれ、その程度の裁量であれば家名の保護とタストの人道教育を名目に可能であると彼女は踏んでいた。
もちろん、そのような手段を使わずに済むのなら、数日空き部屋を貸すだけで済むのならそちらの方がいい。彼女が問題視していたのは、力で敵わないだろう男を自らと大切な子息の住まう場所に置いてしまうというその一点にあった。
「え、いや、そういうわけにも……」
「いいじゃん、いいって言ってるし」
「いやな、大人ってのは色々と……」
こういうところだった。
このダテという人物はひどく遠慮を重ねる。それはアーニリアにとっては珍しい人種だった。自らが窮地に立たされた時、人はここまで遠慮が出来るものなのだろうか。
アーニリアがダテの逗留をついと許してしまった。その理由は彼のこういった心根のあり方にあった。
「ちなみに、おいくつなのです?」
自らの甘さを払拭するかのように、幾分鋭い声色で質問する。
だらしなくも、子供に説得されかけているくせに大人だと言い張る。そんな部分が気に障ったこともあるのかもしれない。
「えっとコセキ…… それはいいか、生きてきた時間なら多分二十六くらいかと」
「……二十六!?」
アーニリアが驚きの声をあげた。
「26歳なの? 兄ちゃんかおじさんか結構微妙な感じだね」
「うぐ……」
「に、にじゅうろく…… もっと子供かと思っていましたわ……」
自分も若く見られる方だが、まさかの自分より年上。
外国人の見た目の若さというものに愕然とするアーニリアだった。




