21.翼、休まる時
遠くに見える森林は緑の頭部をオレンジに浮き立たせ、その向こうには眩しい輝きが落ちようとしている。小雨を見せていた雲は今や散り散りに、紫に体を染めていた。
暖かな夕刻。草地を歩く少年の背、もたれかかっていた少女がみじろぎをした。
「よっ、ユアナ。起きたか?」
周囲の景観に彼女が首を振る。砦は遙か後方、足下には草を踏む音。彼に負ぶわれ、外へと出ていることを把握するまでに、幾ばくかの間が必要だった。
「シュン…… 戦いは……」
「終わったよ、ブン殴っておいた。ガラの書は残念だけど、これで終いだ」
「レラオンは……?」
「あの様子だともう動けないだろう。通報はしておいた、すぐに捕まるさ」
ぐっと、肩にかかる彼女の腕が引き締められ、間近に香る彼女の頭部から嗚咽が届いた。
「なんだよ、泣くなよ……」
「あの時…… ほんとに死んじゃったかもって……」
今になって、自分が『死んだ』時のことを思い出したのだろう。そう思ったシュンは、「大丈夫」と改めて一言置き、彼女が泣くままに任せた。
彼をしても背中に感じる温もりがなければ、今が夢なのかもしれないと、そう考えてしまうような現実感の無い出来事だった。
「――神様のおかげってやつかな」
しばらく歩き、彼女が落ち着きを見せた頃に、シュンは呟いた。
「神様の?」
「ああ、よくわからないけど、とにかく助かって生きてる。ラッキーなことだよ」
くすりと、ユアナが笑った。
「シオンに聞かせてあげたいわ…… どんな顔するかしら」
「ははっ、やめてくれ。でも、俺の国には八百万って言って、いっぱい神様がいるらしい。その中の誰か一人でも俺達を見てて、助けてくれたのかもな」
いるともいないとも思わない、そんな存在。ただ何か奇跡が起こって、助かったことには誰にともない感謝があった。そして、そんな感謝は実のところどうでもいい。
今は話題が変わって、彼女が笑ってくれればそれでよかった。
戦いは終わったのだ、レラオンとの決着によって――
炎を纏った拳が堰き止められ、両掌に黒く魔力をたぎらせるレラオンと肉薄する。
「ふははははっ! なんという力だ!」
目の前の彼は笑っていた。
見下すのでも、含むでもなく、快活な笑いだった。
「さぁもっと見せてくれ! お前の力を! 俺を仰天させてみろ!」
シュンは渾身の力を込め、レラオンを押す。
気を抜けば死ぬ、この一撃が勝敗を決める。そんな最中、シュンはその顔から目が離せなかった。
――こいつは、こんなに楽しそうに笑うやつなのか……
繰り返してきた戦い、その最後の瞬間にシュンは知った。
「終わりだレラオン!」
彼の黒竜が力を霞ませる、その一拍を見逃さずにシュンは一息に勝負を持って行った。
体を離れた鳳凰がレラオンを連れ去り、壁へと叩き付けるまでの間にも、彼の表情は変わらなかった。
――ああ、そうか……
決着に息を吐きながら、シュンは思う。
――こいつも、俺達と同じだったんだ……
上から見られるのではなく、下から崇められるのでもなく、対等――
天才であるがゆえに何をやっても人を上回り、上からは誉められて見下され、同じ立場や下からは同じ人間としては見られない。
それはどれだけ寂しいことなのだろう。
彼自身がそれを理解していたかはわからない、ただ彼は、探していたんだろうと思う。
自らと『対等』、そう思える相手を――
力に群がった信奉者達は違う。だが黒騎士や、もしかすればアスタリッドは、そんな彼の心をどこかに感じ、そばに居続けたのかもしれない。
シュンは、そう思った。
「ねぇ、シュン?」
『敵』を想い、つい黙り込んでいたシュンは少し体を震わせた。
「な、なんだ?」
「私…… シュンの国に行ってみたい」
「えっ?」
そういえばと、話題が祖国に触れたことを思い出す。
「遠いぞ? 地味なところだし…… 行って面白いようなところは――」
ふと、思い出したことがあった。
それは三週間前、全てが始まるあの日の、何気ない会話――
「……じゃあ、卒業旅行にしようか」
「卒業旅行……?」
「ああ、まだまだ先になるけど…… 高等部の終わりにでも行こう。シオンやリイクも誘ってさ、みんなで行こうか」
それは考えるに、楽しそうな未来だった。
西日が遠く沈んでいく。赤く紫に染まる世界に、シュンは穏やかな笑顔を送る。
「ううん」
ぎゅっと、ユアナが身を引寄せた。
「な、なんだよ…… やっぱり遠すぎるか?」
「ううん」
小さく首を振る仕草が、髪の匂いを強める。
「二人で、行きたい」
シュンは息を止められ、足を止められた。
わずかに上がる体温を、彼は首を振って誤魔化した。
「わがままだなぁ……」
「ダメ?」
「……いいや、それは近い内に、考えとく」
シュンは再び歩み出す。
見上げる空の向こう、赤い一隻の飛行船が彼らの元へと飛んできていた――
薄く、辺りを橙色に染める光に、彼は目を開けた。
霞む目が周囲を映し、その場所が良く知った地下の広間であることを知る。
「……!」
背中に激痛が走った。その痛みが彼の意識を覚醒させる。
「……生きて、いるのか…… 私は……」
目の前には崩れ、瓦礫を枕に斜めに倒れた巨大な柱がある。戦いは夢などではなくたしかにあり、叩き付けられた背中の壁は現実のものだった。
火の鳥が舞い、黒竜で対抗した。そして、敗れた。
完全に意識は消失し、抵抗する力などはもうなかった。
しかし―― 生きていた。
「……ふざけるな……!」
痛む体などものともせず、レラオンは立ち上がった。
「生かしておいただと! この私を……! 拘束するでもなく、ただ放置して生かしておいただと!」
全身から黒い魔力が噴き出し、自動回復がかかる。
とどめをささずにいたシュンの甘さが、彼の怒りを奮い立たせた。
「生かして逃がせば……! 改心するとでも思ったか! 愚か者め……!」
痛みと憤怒に顔を歪ませ、倒れた柱に手を付き、鈍い足が床を踏み始める。
どれだけ眠っていたのかはわからない。だが追いつきさえすれば、いや、どこへ逃れていようとも追いつき、完全な形で決着を付ける。
鬼気迫る内心を隠す様子も無く、その足取りが戦いに崩れた大扉へと――
「……?」
そこでレラオンは気づいた。
『薄く、辺りを橙色に染める光』とは、この周囲を照らす明かりとはなんだと。
感覚的に、火の明かりだとはわかった。だがこのフロアの照明などは先の戦いですでに壊れ、辺りには闇が広がっているはず。
火の明かりは柱の下、わずかに開いた隙間から足下を照らしていた。
理解の及ばない状況に、怒りを忘れたレラオンは歩いて柱を周り、その反対側へと出る。
――カンテラを持つ、奇妙な『鳥』がいた。
「おい」
「おわっと……!」
どすどすと太い足で向きを変え、『鳥』が大仰な仕草で驚きを表した。
「なんだ貴様は…… 誰だ?」
初めて見る『着ぐるみ』だった。配下の中にもふざけた人間は多少いるが、こんな場所に、こんな格好で訪れる馬鹿はいない。
敵とも味方ともわからない珍妙な来客に、レラオンの興味は惹きつけられていた。
鳥がカンテラを置き、声を発する。
「ふぇっへっへ、お初にお目にかかります。私、ボッタと申す者」
「ボッタ……?」
焼け跡残る一室に、くぐもった老人声が響き渡った。




