103.別れし時の狂想曲
二人の前に現れた幻想の光景。
その光景が彼の黒い衣服の輪郭を、逆光に白く浮かばせていた。
ダテは口元に笑みを浮かべたまま、目を閉じる。
「……クモ」
パタパタと、幻想と同じ色をした粒子をたなびかせ、妖精が絵の中に入り込む。
「はい、大将」
彼はクモへと、穏やかな目を向けた。
「悪い、ちょっと残ってもらえるか?」
ダテの指先が彼女達の後ろ、崩れた教会を指す。
「了解っス」
「どれくらいかかりそうだ?」
クモが指先の方向を向き、「ん~」と唸った。
「とりあえずなら明日。完全復旧なら三日ってとこっスかね」
「わかった、ゆっくりしていけ。迷惑かけず大人しくしてろよ」
「はいっス!」
ぴしりと敬礼を見せたクモが、彼のまわりを前に後ろにとくるくると回った。破れていた衣服が見る間に姿を取り戻し、戦いの跡を消していく。
彼はポンと指先で妖精の頭を叩くと、二人へと目を向けた。
ダテは手の届かない距離からゆっくりと歩み寄り、二人の前に立つ。
「悪いな…… 俺はここに留まることは出来ない。これで、お別れだ」
その言葉を、二人は予感していた。
そして今は、予感以上のことをはっきりと理解出来てしまう。
「ここ」とは、アーデリッドや都などではない。もっと広い―― もっと大きな枠組み。
見たこともない服を着た彼と、背後に輝く、どうして『扉』だと思えるのかもわからない光の長方形。
もう、会うことは無い――
言わずとも、伝わっていた。
「どうして……」
シャノンは心に突き動かされるように、声に出していた。彼が何者なのか、突然現れた扉は何か。そんなことよりも――
「どうして…… ですか……?」
どうして別れなければならないのか、どうして行ってしまうのか。
それが―― 哀しかった。
ダテは彼女に向け、答える。表情を変えることなく、いつもより幾分優しいだけの、明瞭な声で。
「俺の『仕事』は終わった。仕事が終わった労働者は、仕事場にいてはいけない。次に俺を待っているやつがどこかにいる…… そいつに会いに、俺は行くんだ」
翠の瞳に浮かんだ水面に光が煌めき、シャノンが俯いた。
「どこへ…… でしょうか…… 誰で……」
震えた声が、途切れる。
――連れて行っては、もらえないのでしょうか。
その言葉を発することは、彼女にはできなかった。
それは口に出来ても仕方の無いこと、あの先には彼とその小さな相棒、妖精以外には踏み入れない。それがわかっていた。
彼女を見るダテの頬と目元がわずかに強張り、不器用に、無理に戻る。
「黙っていて、すまなかった…… 何も伝えなかった俺を、恨んでくれ。そして明日からは新たな家族と一緒に、この世界―― 君の世界を…… 歩んでくれ」
そう言って、彼は背中を向けた。
「恨んでくれ」。言って無駄なのかもしれないとダテは思う。
「伝えなかった」のではない、「伝えられなかった」。
聡い彼女は、きっと見抜いてしまうのだろう。哀しいまでに利口な彼女は。
「アロア」
彼は首を後ろに向け、役目を終えた『選ばれし道士』に託す。今は憮然と困惑の入り交じった表情を見せているだけの、彼女の友人。
こいつなら、もう何もしてやれない自分の代わりに、彼女を支えてくれるだろうと。
「じゃあな」
それを口には出さず、代わりに強く、笑顔を送った。
何も言う必要はない。ダテが見てきたアロアは、そういう子だ。
ダテは歩み出す――
『仕事』は終わった。
合月は去り、その秘密は今の道士と邪悪に伝わった。それは一度だけの儀式の改変であっても、もう間違いを起こさないための礎にはなる。
二十五年の後までに、改善を行うのは彼の仕事ではない。ここに住まう、この世界の人々が自分達で解決に導く仕事だ。一時の労働者、彼の『役割』とはそういうものであり、彼はそこに、何を思うでもない。
ただ後悔するは、弄び、踏みにじり、見捨てざるを得なかった少女の想い。
だがそれも、いずれは時が解決する。
なぜならそれは、失恋―― いずこの世界にも、道行く人々の中にも普通にあるもので、彼女に乗り越えられないはずはない、そう思えるから。
住む世界と、続く未来。それを残してやれたのだから、それ以上の高望みはしない。
だからこの場は、残酷に歩む。
その仕打ちに彼女が、一日も早く無能な労働者の存在を忘れることを願って。
――扉に、手を伸ばす。
「うおおぉおおおおおおりゃあああああぁーー!」
「へ……?」
――青白い魔力を全身にたぎらせた体が、彼の背後斜め四十五度の位置からロケットのようにつっこんでくる。
「おごっ!?」
その頭部が、ダテの脇腹に突き刺さった。効果音で言えばドスコイ。
ダテは見事に扉を逸れ、突如飛び込んできたアロアとともに、青と黒でどっちがどちらかわからないくらいの回転を加えながら地面をゴロゴロと転がった。
回転が止まり、大の字に寝っ転がったダテは、一体何が起こったのやらと目を回しながら白黒させる。
どすん、と彼の腹の上に、犯人が馬乗りになった。
「お、お前…… ごほっ、何を……」
合月醒めやらぬ魔力全開の頭突きにむせながら、当惑の表情で彼女を見る。
アロアは眉をしかめ、口元と頬をぷるぷるさせながら彼を睨んでいた。
「ア、アロア……?」
彼女の右手が持ち上がる。
「うっさいわ! ボケ!」
「……!?」
迫り来る拳と怒声に、ダテが身を固くする。
彼女の拳が――
ぽすん、と、彼の胸板を叩いた。
「……?」
ぽす、ぽすと、数発と叩き、彼女の両手が胸の上で留まった。
「アロア……」
見上げたダテは、子供のようだと思った。それくらいに隠しようのない、遠慮の無い泣き顔がそこにあった。
「……なんでだよ、まだ、なんにも言ってないじゃないか……!」
力無く、体を支えるためだけに、握られた拳が胸の上に広がる。
「言ってないし…… 聞いてねぇよ……! ちゃんと…… 言ってから帰ってくれよ……」
体に伝わる彼女の体温と感情を、ダテは呆然と眺める。
「アロア! ダテ様!」
突然に巻き起こった目の前の事態に、シャノンが血相を変えて駆け寄ってくる。
広げられていたアロアの手のひらが、ダテのシャツを巻き込んできゅっと握られた。
「答えてから帰ってくれよ! お前がシャノンとわたしのことをどう想ってるのか! まだ聞いてないだろっ!」
『光の扉』が、一本の線になって、消失した――
「……帰っちゃうんだろ、もう会えないんだろ…… わかる…… でもな、大事なんだ。そこから逃げて…… 帰らないでくれ」
呼吸を忘れていたダテが、はっと息を呑んだ。
「わたしが、わたし達が知るダテは…… ずるい大人でもないし…… 逃げるようなやつじゃないんだ……」
「逃げる」。その言葉が、彼の心に漆喰を剥がされるような感覚を与えていた。
「お願いだから、最後までダテのままでいてくれ……」
落ちた水滴が、青いシャツの色を濃くする。
「頼む……」
俯いた彼女の言葉は、そこで止まる。
微動だに出来ず、シャノンが立ち尽くしていた。
そして――
「くっ……!」
ダテの顔が歪み、声が漏れる。
「くっは……! ははは……!」
盛大な、愉快そうな笑い声――
「ダテ……?」
「……?」
場違いに、底抜けに明るい笑顔でダテが笑っていた。合月の空気も吹き飛ばすような、日常でも見ることのなかった彼の押し殺すことのない笑い声。
呆気に取られ、二人がぼうと笑い続ける彼を見つめていた。
「はー…… 悪ぃ、ちょっとどいてくれ」
ひとしきり笑い、身を起こそうするダテに、促されるままにアロアが離れた。
彼は立ち上がり、ズボンやジャンパーをぱたぱたと払う。
「あーもう、綺麗になったばっかりでもう砂まみれじゃねぇか。無茶苦茶するなお前は」
砂埃を払い終わり両手を軽くはたくと、彼は少し離れた位置にいるシャノンに向けて手招きを見せた。
「しっかし、驚いた…… 普通あんな場所でつっこんでくるやつなんていないぞ? 色んなやつを見てきたが、さすがの俺も妨害食ったのは初めてだ。みんなわかってくれるっていうか、なんか邪魔しちゃいけない空気ってのが伝わるもんなんだけどなぁ……」
シャノンが小走りにアロアの右に並んだ。
「その辺りはさすがはアロアだ。我が道を行くというかアホというか……」
その呆れたような軽口にアロアがジト目をし、口をへの字に開けた。
「お、おまえなぁ……」
砕けた雰囲気の中、シャノンが困ったように笑みを作る。
「……わかってる。もう逃げたりなんてしないさ。ちゃんと、答えて行く」
ダテは二人が寄せてくれた想いに対し、自らの想いを語った。
――そして語り終えたあと、彼は消えた。
来訪から、一月と十五日――
長い仕事を終えた労働者は、合月の終わりと重なるように、
アーデリッドより姿を消した――




