98.戦慄せし人間の無情
悪夢のような合月から九年が経とうとしていた頃、その男は一冊の書を手に領域を訪れた。
ファデルは男がやってきた際の慣習のように、不愉快さを滲ませながら私室へと招き入れる。家人に見せたい客ではなく、この男に応対している自分もまた、見られたい姿ではなかった。
「これを、実家の方で見つけてな」
二人掛けの円卓の上に、古ぼけた書が置かれた。
書は重厚さを持ちながら、手記といった趣がある。素材が羊皮であることから、年代の古さや内容の重みが察せられた。
「これは私の家に伝わる…… そうだな、ルーツを記したものというべきか」
一ページ、一ページと、図柄や挿絵、文字を交えた書が開かれていく。
「私も驚いた。実は、私の祖先は――」
その手が、目当ての箇所で止まる。
「太古の『勇者』だったのだよ」
男の名はレナルド。
現ルーレント教会神父にしてファデルの父を破った、合月に『選ばれし道士』。
その穏やかに見せる巨躯と顔に隠すギラついた目は、初めて出会い九年経った今もいささかも変わってはいなかった。
この時、ファデル二十九歳。レナルド三十四歳。
現在より十六年前、シャノンが生を受け、まだ間も無い頃だった。
~~
「レナルドの指したページには、聖杯の絵が記されていた。手記によればおおよそ五百年と前、魔王との戦いにより深手を負い、初めて聖杯により『棄てられた』勇者がレナルドの祖先だそうだ」
その語りの口開けに、誰もが言葉を失った。
知ることのなかった近しい者達の繋がりや、突拍子も無い神父の背景。
それぞれがそれぞれに、戸惑いを持たずにはいられなかった。
身内に属さないダテが、皆を窺いつつ口火を切る。
「なら…… 神父は聖杯を、その手記から知ったってことか?」
「そうだろう。緻密に、数ページにも亘り聖杯について記されていた。私は要点のみをレナルドから聞かされたまでだが、あの文量から見ればまず間違いなかろう」
ダテは二、三と頷き、得心した様子を見せた。済んだこととはいえ、レナルドが聖杯を知り得たルートは未だ疑問の残っていた部分だった。
「お父様…… 腰を折るようですが、お尋ねしても?」
ファデルが首を向け、一度目を伏せる。
「こちらの神父様とは、どういったご関係なのです?」
ちらと、シャノンがレナルドを見やる。シャノンからすれば、都でクモから頭に送られてきたイメージ以外では初めて目にする顔だった。館に来ていたという話すらも聞いたことがない。
「無論こいつは『選ばれし道士』だ、父の仇でもある。愉快な関係ではない。私は…… そうだな、人の世界の言い方をすれば、この男から長きに亘り恐喝を受けていたのだよ」
「恐喝……!」
シャノンが声を上げ、アロアがその言葉に目口を開いた。
「二十五年前の合月、勝利を手にしたレナルドは、そのままの足で我が領域に踏み入った。最強の『邪悪』を葬った今を機会に、この世界から『邪悪』そのものを根絶やしにせんとな。だが――」
ファデルが、倒れているレナルドに目を向けた。
「やつは領域に入り、そこで考えを変えたらしい」
「考えを……? どのように?」
「以前より一族の領域の在処は知っていたらしいのだが、実際に次元の扉を破り、乗り込んだのはその時が初めてだったそうだ。やつはそこで見た。私に継がれて間も無い、領域の姿をな」
ファデルが生まれる以前、長く領域は力のある当主に恵まれず、地は荒れ果て、かつて城であった住処は俗人の家と変わらぬまでに没落していた。そこを一息に盛り返し、領域を再生させたのが彼女の祖父であり、前代の『邪悪』だった。
その力の影響により、不毛の地同然と化していた領域には草木が緑を帯びるまでに再生し、多くの魔物が生まれ、家屋は館と呼べるまでに規模を増し、内部には数十の使用人さえも備えられた。
シャノンはこの話を度々ファデルより聞き、よく知っていた。
「レナルドにとって、その姿はいたく魅力的に映ったらしい。資産家に生まれ、ものを見る目が備わっているだけに、特別、館の様相や調度品に興味を惹かれずにはいられなかったそうだ。いったいこれらの品は、どこから仕入れられているのだろうとな。やつは私を追い詰め、『領域』というものの在り方を聞き出した。それからが…… 今日まで続いた苦渋の日々の始まりよ」
「恐喝、というのは…… 二十五年前のその時から……」
「私がそこにいる限り、物は際限無く、代価を支払う必要すらなく生まれる。領域から外に出した物は私の影響を離れ、消えてしまうこともない。商売をする者にとって、それがどれだけ魅力的かということだ。やつは『邪悪』を滅ぼすという道を棄て、搾取により活かす道を選んだ」
クモがうげぇという顔をして、レナルドを見た。
「お父さん従っちゃったんスかぁ……? そんなえげつないお話に……」
黙ってろ、という体で、ダテがその頭をはたく。
「……従わざるを得なかった、という以外にあるまい。父が死に、その時点で我が一族は私一人になってしまった。続く手立てがあるのならば玉砕もあったやもしれんが、長く続いた一族…… そこで終わるわけにはいかなかった。次代に繋げられるのであれば…… 私の代のみが辛酸を舐めればいいのであれば、そちらを選ぶのが道理だと、自らに言い聞かせた」
内容に反し、感情を見せずにただ坦々と当時を語るファデルの様が、憤るにも遠すぎる、二十五年という月日の流れを語っていた。
そんな父の様子に堪えきれず目元を覆うシャノンに、当の父は困ったような微笑を送った。
「私が今日まで、やつに従い続けてこれたのはお前のおかげだ」
「え……?」
「お前が生まれてくれなければ、そうだな…… 代えの効かぬ、父の形見を持って行かれた日までもを耐えることは出来なかったろう。よく、生まれてくれた」
「……いえ……! お父様こそ……!」
長らく目にすることのなかった父の優しげな笑顔に、シャノンが言葉を詰まらせた。
「……? どうしたっス? 大将?」
「ん? ああ…… なんでも……」
そんな親子の場面に、途中から小首を傾げて教会へと顔を向けていたダテが、二人へと目を戻した。
「聖職者よ、先ほどの続きを話そう」
「いい加減ダテでいいんだが…… 頼む」
アロアは身動ぎすることなく、じっとレナルドを見下ろしていた。
~~
レナルドは『聖杯』についてをファデルに語った。
ファデルにとっては、レナルドは「恐喝」を受けているだけの相手。レナルドにとっても、ファデルは「戦利品」を受け取るだけの相手に過ぎないはず。
レナルドがなぜそのような話を持って来たのか、ファデルには見当もつかなかった。
「実は…… このアーデリッドに、『国』を興そうと考えている」
一通り聖杯の話が終わり、ファデルがしびれを切らし始めた頃、レナルドは言った。
辻褄の見えない突然の言葉に、ファデルは一瞬と思考を失わざるを得なかった。
「私はこの聖杯を利用し、それを成すだけの力を得る。お前にも動いてもらうぞ」
そして、レナルドは青写真を語った。
一介の神父には不釣り合いなまでの途方も無い絵図。何を馬鹿なとは言い返すことが出来なかった。それほどにレナルドは真摯な面持ちでファデルを射貫き、語っていた。
だが――
「レナルドよ、無謀が過ぎる」
そう苦言を呈さずにもいられなかった。これまでの付き合いから、レナルドという男の人となりと頭の良さはわかっていた。
しかしいささか以上に、計画には不備が多すぎた。
聖杯の入手経路もさることながら、その真偽。合月時に『邪悪』より力を得られたとして、その持続性。計画を達した後の、その後――
らしくもなく、大部分に一商売人が講じたとは思えない賭けになる部分が見られた。
そして何より――
「私の力を得たところで、それほど大それたことが出来るとは思えん」
偉大なる父を持つファデルには、己の非才がわかっていた。その父を事も無く葬った、目の前の男の異常さも理解出来ていた。
だが、レナルドの描く話はあまりにも規模が大きい。例え次期の合月により、自らの力が一時膨れあがるにせよ、目の前の男が望むまでの力を生み出せるとは思えなかった。
その苦言に、レナルドは真剣な目をしたまま、片微笑んだ。
「次の『邪悪』はお前ではない、お前の娘だ」
ファデルはその笑みを、長く忘れることが出来なかった。




