2.巣箱の中の卵たち
高く昇った春の陽が、白い校舎の壁を目が痛いほどに反射していた。
少年は一人、校舎裏で、そんな刺激を避けるように日陰のベンチに座っている。
二つの切り株の上に、丸太を縦に輪切りにして乗せたような簡素なベンチ。その粗雑な席と人通りの少ないこの場所は、彼にとっての特等席だった。
金や赤の刺繍を施された青い制服を着た少年は、前方のただ一点をぼうっと見つめ続ける。
そんな彼の視界の外から、土を踏む音が近づいた。
「シュン、お昼休み終わっちゃうよ?」
少年の寝ぼけた風な胡乱な目が、声の方へと向く。黒髪が陽光に反射し、光を受けた部分が深い青を見せた。
「何してるの?」
彼とは違う、白い法衣のような制服を着た少女が、柔らかそうな桃色の髪を揺らして立っていた。
「ああ、ユアナか……」
いちいち名前を言って今気づいた体を装わなくとも、その声だけで誰かはわかっていた。
こんな場所にいる彼に声を掛ける人物は、彼の知る限り三人しかいない。
「あれを、見てたんだ」
ベンチからまっすぐにシュンが指を差す。その先には緑の葉に紛れ、五枚の花びらを持つ桃色の花が咲いていた。
「……えっと、ゼラニウム?」
「よく知ってるな」
薄く微笑みを見せた彼にユアナは応えるようにはにかみ、頭を掻いた。実のところ、この場所からよく花壇を見つめている彼を意識して予習しておいたとは言い難い。
「……実家でさ、この時期になるとよく売ってるんだ。育て易いし、正直効果はあんまりだと思うけど虫除けになるっていうんでよく売れる。今頃家の方は忙しいかなってちょっと考えてた」
「そうなんだ……」
シュンが立ち上がった。あまり背の高い方ではない彼だがそれはユアナにしても同じく、並んでみるとバランスのいい二人と言えた。
マルウーリラ国立神学校。世界にも類の無い「浮遊島」マルウーリラ国においての最高学府。高等教育以降を行うこの学校に、シュンは数少ない交換留学生としてやってきた。
彼の祖国は遠い異国の地。この国では見られない黒い髪を持つ少年―― 城野村瞬は、入学から一年経ち、二年生となった今でも、周囲に馴染んでいるとは言い難かった。
そして馴染めない彼の様は、同じく周囲に馴染めずにいた少女の共感を呼んだ。
最高学府においての最高学部、「神学」の特待生。その白い制服に身を包む彼女が、彼にこうして話しかけるようになるまで、それほどの時間は必要とされなかった。
「実家…… 帰りたい? シュン……」
心配そうに尋ねる彼女に、シュンは一息笑った。
「遠いよ、面倒だ」
ゼラニウムを見ながら笑うその横顔が、ユアナにはひどく物憂げなものに映った。
その表情には実際に、遠すぎる故郷への郷愁も含まれているのかもしれない。だが、彼女には彼の、別の想いが見えていた。
この学校には、「魔法」の授業がある。
かつて古代マルウーリラの民がもたらしたといわれる「魔法」。今や世界に広まっているその技術は、マルウーリラの名を冠するこの国発祥のものであり、この学び舎は生徒達にそれを教えていた。
当のシュンも、その素養がありここへと送られてきたのだ。
その授業の前、彼はこうして今のような表情をする。
「魔法」の成績は極めて優秀で実践にも長けている。そうであっても、これまで彼がそれを誇るところも、褒められて喜ぶところも、彼女は見たことがなかった。
その理由は、この一年で理解出来つつあった。
「ねぇ、シュン…… シュンはそんなに魔法が――」
二人きりである今なら、ほんの少しだけでも彼の悩みを聞くことができるのかもしれない。そんな想いでユアナが問いかけた、その時。
「くぉらキノムラー! みっけたわよー!」
一人の女生徒が校舎の角より現れ、大声で彼女の言葉を打ち消した。
「うげ…… シオン……」
「『うげ』とはなによ! 『うげ』とは!」
のっしのっしと長いウェーブがかった紫色の髪を揺らし、気の強そうな女生徒が二人へと迫る。
「ちょっとあんた! さっきの授業の答え何!?」
「な、なにってお前…… え? お前まだ怒ってたのか!?」
「聞き逃せるわけないでしょうが! あんたここが何学校だかわかってんの!?」
現れた女生徒、シオンの剣幕にシュンが仰け反っていた。
「『神学校』なのよ『神学校』! どこの世界に神学校の授業で神様の在り方を否定する馬鹿がいるのよ!」
「否定? 否定なんかしてないぞ」
「してたでしょうが思いっきり!」
その突然巻き起こる見慣れた光景に、ユアナは困った顔をして笑うよりなかった。
マルウーリラ国の大教会において司祭を務める父を持つシオン。それに対し、別の国からやってきてこの国の神をよく知らない、ほぼ無神論者とも言えるシュン。
二人の違いは二人が出会うきっかけとなり、そのきっかけも、今やちょっとした学校の名物になりつつあるこの言い合いだった。たいていは些細なシュンの発言にシオンが噛みつき、騒ぎが起きる。
ユアナ自身、何度となくこんなやりとりを見てきた。
彼女はため息をひとつ。
「……シオン、シュンは何をしたの?」
「『蜂の砦』よ」
「……? ことわざ?」
「そう、『一見穴だらけに見えても危ないものは危ないから近寄るな』っていう、あれ。それを先生が彼に知ってるか? って聞いたのよ。そしたらこいつ、なんて答えたと思う?」
ちらりとシオンがシュンを睨み、シュンが顔を逸らした。
「シュンはなんて?」
「こいつったらね――」
「『触らぬ神に、祟りなしってことですよ!』…… だったかな?」
場にもたらされた更なる乱入者の声に、皆が振り返る。
シオンがやってきた方向から、背の高い金髪の男子が歩み寄ってきていた。
「さすがだねぇシュン…… 久々に、この僕も笑いを堪えるのに必死だったよ」
シュンと同じ制服を着る彼は頬を緩ませ、上げた両手を広げながら悠々と歩く。
「笑いごとじゃないでしょうがリイク! あんた意味わかってんの!?」
「わかるよぉ、わかる。君よりは理解しているつもりだ」
シオンの噛みつきを首を振って涼しい顔で受け流し、リイクはびしりとシュンに指を突きつけた。
「『蜂の砦』って意味だよね! シュン!」
「え?」
「あんたそれひっくり返しただけでしょうが!」
呆けるシュンの横で、シオンが盛大につっこんだ。
司祭の娘であるシオンと同様に、こうしてじゃれている時にさえ彼のその佇まいには気品がある。歳に見合わない高貴さと茶目っ気。一言で、リイクは不思議な少年だった。その印象はシュンやユアナにとって、昨年シオンに紹介されたその時からまったく揺るがない。
シオンの幼馴染みにしてマルウーリラ隣国、ガローシュ国第三王子。本心を隠す作り物のような彼の所作が、何を隠しているわけでもない彼の本来の姿である。
そう心から理解出来ているのは、ここにいる三人だけだった。
「ダメだよ、シュン」
シオンに詰め寄られながら、ひらひらと文句をかわしているリイク。その様子を見ていたシュンの袖が、軽くユアナに引っ張られた。
「え……? なにが?」
「シオンはシュンの立場が悪くならないか心配で、それで注意してくれてるんだから……」
首根っこを掴まれてリイクががっくんがっくん揺すられる。彼は楽しそうだった。
「……わかってる」
じゃれあっている二人を見ながら、シュンが微笑んだ。
まだ冴えない顔をしているが、いくらか気分は良くなったのかもしれない。そんな想いでユアナは目を閉じ、小さく頷いた。
シュンとユアナが出会い、シュンがシオンに出会い、シオンがリイクを引き合わせ、彼らの今は築かれた。
留学生、特待生、司祭の娘、王子――
お互いがお互いに、朱に交わりきれないという、小さな心の空白を埋めたがっていた。
始まりの彼らの絆は、そんなものだったのかもしれない。
だが、そこから始まり一年。いつしか彼らは良き仲間、良き友人となっていた。
「あ! シュン! チャイム!」
「おお、まずいねシュン! シオンで遊ぶのはここまでだ、早く戻ろう!」
「あんですってぇ!?」
そして――
「……?」
「シュン、どうかした?」
「いや、誰かが…… フェンスの向こうからこっちを見てたと思ったんだが…… 多分気のせいだな」
彼らの築いた繋がりは、その命運を弄ぶように彼らを引きずり出す。
世界が望む事象へと。彼の『仕事』の舞台へと――