91.増大されし想い
「ねぇ…… アロア……」
囁くような柔らかい声と、わずかな微笑み。
おぼろに霞む瞳に映る彼女の顔は、雲の向こうからの月光のように思えた。
「私ね…… 私…… ずるくて、よくない子だった……」
握る彼女の手から力が抜け、伸びていた爪が戻っていく。
「私は今…… どうしてなのか、あの都でのことを思い出して、踏みとどまることが出来たの」
それはアロアにもわかっている。何がどういうことなのかはわからない。ただ、シャノンも自分と同じく、あの日の屋上の風景、三人でいたあの夕闇の風景を見たのだろう。今のシャノンが、その答えだ。
「でもね…… アロア。私があなたに襲いかかる前…… その時も、私が思い出していたのは、あの都でのことなの……」
シャノンの微笑みが崩れ、こぼれた雫とともに彼女は顔を伏せた。
「あなたと一緒に魔力を撃ち合って、うまくいくのが…… 心が合わさったようで嬉しくて…… 仲良くなれたことが嬉しくて…… つい、あなたと出会えたこと、都で過ごしたこと、これまで一緒にいて、楽しかった毎日のことを思い出してしまったの……」
弱々しく彼女の手が震える。アロアはつい力を込めて握ってしまいそうになる自分の手を諫めた。
「そうしたらひとつだけ…… 心にひっかかった想い…… すごく醜い、馬鹿な考えを抱いたことまで思い出して……」
辛そうだった。今にも嗚咽が混じり、消えてしまいそうに言葉を繋ぐシャノンを、アロアはただ見守るよりなかった。
「都で…… あなたが私を庇って倒れて…… ダテ様がそれを見て、すごくお怒りになった時――」
――『それほどまでに、ダテ様はお怒りなのですか……?』
――『当然でしょう! 大切なものを傷つけられてブチギレるからこそ私の大将で、プロのヒーローなんスよ!』
「羨ましいと想ってしまったの……! あなたが怪我をしたから、怒ったんじゃないかって想ったの……! 私だったら……! どうだっただろうって想ってしまったの……!」
絞り出される声とともに揺れる、シャノンの髪。その白金の揺らめきを見ながら、アロアは思った。
――そうか、あいつあの時…… 怒ってたのか……
都の騒動の後、全身を血だらけにして帰ってきたダテ。何かいつもより妙にへらへらしていて、らしくないとは思ったが、機会を逸して何も聞けずにいた。
彼はただ解決のために相手に手荒な制裁を加えたわけではなく、自分達が手ひどい暴挙にあわされたことに怒ってくれたのだ。
「シャノン…… それは、わたしだからとかじゃなく……」
「わかってるの…… わかってる。ダテ様は…… 私達のどちらが傷つけられても、傷つけられなくても、怒ってくださったと思う。これは私の馬鹿な考え…… ただの…… わがまま……」
きゅっと、シャノンの手が握られる。
「でもそこから……! そんな小さなわだかまりを一つ思い出してから……! あっという間に、どんどんと同じようなわだかまりが一気に頭の中に流れたの……! 着替えた私達を褒めてくださったダテ様があなたの方を向いていたとか……! 昨日の夜は苦労をしたあなたの方がたくさん褒めてもらえていただとか……! どうして…… あなたにだけ家族みたいに、気安い触れ方をなさるのかとか……」
――そう、なのか……
「気にする必要もない……! 気にしてもいなかった……! そんなことまで次から次へと溢れてきて……! 気がついたら私は……!」
――シャノンは……
「あなたが邪魔で仕方なくなってしまったの……!」
――あいつのことが、好きなんだ……
アロアは今更ながらに、理解した。
ダテの前では妙にぎこちなく、小さくなってしまうシャノン。見るに不自然に思えた所作。だがアロアの中には、その気持ちを解ける感覚も知識も無く、答えは遠く、見えていないものだった。
ただ一つだけ、答えを匂わせる彼女の持つ経験。それは姉代わりだったローラのこと。
今にして思えばわかる気がした。ダテのそばに立つシャノン、ダテの話をするシャノン。その時の彼女の様子は、表情は、たしかにいつかの姉と同じではなかったかと。
「そう思ってしまったらもう…… 止まることが出来なかった……! 暗黒の魔力に一息に絡め取られて、あなたの命を奪うことしか頭になくなってしまった……! あなたを殺せば、独り占めできるんだって想いしかなくなってしまった……!」
理解から、思い、至る。
種類は違うのかもしれない。でも、その気持ちは知っている。
そいつが邪魔だから、どこかにやりたい。取られるのが嫌だから、そいつが悪くなくても嫌いになる。
――嫉妬、独占欲。
シャノンを狂わせてしまったその想いは、かつてアロアが抱え続けていたあの想いだった。
「今は一時でも、こうしてあなたと話が出来るまで戻ってこれた…… でも、戻ってこれたとか、踏みとどまれたとか……! そんなの都合のいい物言い! 私があなたを邪魔に思った、いなくなってしまえばいいと思った! それは私自身の想いで、世界の力はその想いを大きくしただけ……!」
握り返していたアロアの手を、そっとシャノンが両手で包む。
その手はシャノン自身の手によって、シャノンの胸元へと、脈打つ位置へとあてられた。
「ごめんね、アロア…… 私はあなたの友達なんかじゃなかった…… 欲しいものはなんでも力尽くで奪おうとする人間の敵で、魔族だった…… だから……」
優しく微笑む、申し訳なさそうに微笑むその顔は、やっぱり月の光のようで――
「討って、アロア…… 私を…… 人々や、ダテ様や…… あなたを苦しめようとする前に、今、あなたの手で…… 『邪悪』を討って」
心が安まるように、哀しかった――
「なんだよ、それ……」
何も人と変わるところが無い、温かな体温と鼓動を手に感じつつ、アロアは声を震わせた。
邪魔だと思ったと言われた。いなくなってしまえばいいと思ったと言われた。世界に想いを大きくされてしまったとはいえ、それが本心だったとも。
でも、それはお相子だ。
アロア自身も、想いを増幅されてしまっていたのだから。
シャノンを取り戻したい、友達を失いたくない。
それは自分のわがままで、本当は世界のためには、自分以外の人の幸せのためには、自分一人が友達を失うことなんてどうでもいいことなのではないか。
自分を捨ててでも、『邪悪』を討つべきなのではないか。
そんな心を突かれ、増幅され、精神を操られてしまったのだ。
本当に小さな想いでも、どんなに理性で閉じ込めた想いでも、容赦無く表に出させてしまう世界の魔力。身に染みてわかっているアロアには、何を文句を言うつもりも、言える立場もなかった。
ただ――
「言ってくれよ、最初から…… 言ってくれてたら、こんなことにはならなかったのに……」
『馬鹿だな、シャノンは』 ――そう、思った。
「アロア……?」
不思議そうに見つめてくるシャノンに、アロアは微笑みかけた。うまく笑えているかは、彼女にはわからなかった。
「わたしはまだ子供だからな、今になるまでわからんかった。シャノンはあいつのことが…… ダテのことがそんなに好きだったんだな」
落ち着いて言えた言葉に、シャノンが呆気に取られた表情を見せた。その表情は全くこの場に相応しくない、どこか間の抜けた日常のものに思えて、アロアは知らず自然な笑みをこぼしていた。
「あ~あ、それならそうと、言っといてくれないと」
するりと、アロアはシャノンに握られていた手を擦り抜いた。
「アロア……!」
「いいんだよ、もう……」
――そう、もう争うことなんてない。
「だってシャノンがわたしをやっつけようとしてくるのって、あいつを取られると思ってたからなんだろ? だったら、もうそんなこと考えなくていいじゃないか……!」
――取られると思うから、やきもちを妬く。
「そういうの人が悪いって言うんだってな……! 最初っからそうやって、素直にわたしに話しといてくれればだ、わたしは……」
――そんなこと、思わなくてもいいことなんだ。
「……? アロア……?」
――あれ……?
とても簡単なはずの、解決の言葉。頭に浮かんでいるはずの言葉。
それが喉にひっかかる、奇妙な違和感をアロアは感じた。




