90.握りし友の手
目を細め、痛切な想いで妖精は二人を見下ろしていた。
自らにはけたたましくも聞こえるアラーム。その音に、頼りなさを感じずにはいられなかった。
一人の少女が、顔を上げた。
――まだ、まだもう少し。
音よ止まるな。クモは願いを込めて、託された切り札を二人へと掲げ続けた。
~~
それは今日の夕刻。都のダテの住処、その屋上を発つ直前に語られた。
「催眠術…… っスか?」
ダテが頷く。彼が眺める石壁の迷宮は、あの日と同じ紫と橙のコントラストに染まっていた。
「発動キーは懐中時計のアラーム。その音があの旅行の最後、ここで過ごした時を意識の表面に浮かび上がらせるように暗示をかけてある」
「いつの間に…… でも、どうしてそんなことを?」
クモにはよくわからなかった。彼がそういった技術を持っていることは知っている。しかし、今回事前にかけておいたという、その意図がわからない。
逆に、ある日を境に、彼女達が彼を忘れてしまう――
そういう暗示であれば、疑問を持つことはなかっただろう。
「二人にやらせる例の合月対策…… その保険だ」
「ほけん? ひょっとして大将、お二人は失敗して…… 魔力に操られるって見てるっスか?」
「いや、使う必要が無ければいい、そうは思う。だが、この世界の魔力は強過ぎる。それに…… 人の心は、どうやったって読み切れるものじゃないからな」
遠く沈む陽を見つめる彼が、何を想い、誰を想っているのか。長年連れ添うクモにも、長年連れ添ってきたからこそ見通すことは出来なかった。
人の心の複雑さ、それを想う場面は幾度となく有り過ぎた。
「まぁ、俺はもうおっさんだし? 十代の女の子の考えなんてわからんってこった」
冗談めかして笑う彼の顔はいつも通りで。
その夕陽に染まる笑顔に、クモはいつもの通りのもの寂しさを感じた。
~~
その後、「保険」としての行動を指示しつつアーデリッドに到着したダテは、分かれる寸前にクモへと懐中時計を託した。
――『いいか、クモ。一度だけだ、一度だけの保険だ。そいつはただの古い時計で音も小さい。俺の催眠術も絶対じゃない。機を見据えろ、最高のタイミングで…… 鳴らせ』
そう言い渡されたクモはダテと同じく、使う必要が無ければいいと思わずにはいられなかった。だがまるで、世界の決め事のように彼の勘は当たってしまう。
ダテの示した合月への対策が破綻を見せてから、クモは言われた通りに最高の機会を窺い続けた。二人が激しく争っていては音を届けられない。無闇に近寄れば二人の力の煽りを受け、時計は壊れてしまうかもしれない。
待ちに待った機会は最高にして最悪、今の一度以外に訪れなかった。
「シャノンちゃん……」
身を震わせ鳴り続ける、ゼンマイ仕掛けのアラーム。
鳴り始め、その音はたしかに二人に届いていた。二人から燃え上がっていた炎の柱は、もう消えた。
アロアがこちらを向いて、いつもの彼女の顔を覗かせている様子が見えた。
だがもう一人、白く輝く金の髪が、頭を上げてくれない。
――『その後は、祈れ』
クモはじっと、二人に向けて目を凝らしていた。
「あれは…… クモ……?」
ジリジリと鳴り続ける音の先に見える妖精を、白昼夢を見た後のような鈍い頭でアロアは見ていた。
「……!?」
しかしすぐ様に、今置かれた状況へとアロアの意識は立ち戻る。
握りしめた冷たい手の感触。真っ赤に染まった彼女の手と、同じく真っ赤に染まったそれを抑える自らの両の手。
合わさった手は、アロアの胸の前、十センチの距離で留まっていた。
「ぐ……」
アロアの胸に、小さく痛みが走った。突き刺された指を引き抜いた後、すでに回復が作用したのか身に危険を感じるような痛みではなかった。
――そうか、わたしは、聖なる魔力に操られて……
アロアは理解した。正気を失い、今、戻ったのだと。
クモが鳴らしているこの音で、戻れたのだと。
「シャノン……?」
ならばと、アロアは期待を込めて彼女へと目をやった。
自分が戻れたのであれば、きっとシャノンも――
シャノンは顔を俯かせたまま、動かなかった。アロアの胸元へと、手を伸ばしたままに、動かなかった。
時計の音が、止まる。
――ダメ…… なのか?
白金の前髪に隠れる彼女の顔、その顔が持ち上がった時、彼女の顔は狂気の笑顔なのだろうか。そうであれば、また自分も正気を失うのだろうか。
おそらくは、ダテが用意していてくれたのだろう一時の静かな時間。それを活かせないままに、また自分達は狂ってしまうのだろうか。
そう思い、握る。強く握ってしまいそうになる、シャノンの手。
その手が、震えだした――
「アロア……」
金の髪が持ち上げられ、緑の宝石を水に濡らしたように、雫が白い頬を伝った。
その顔を、アロアは素直に美しいと思った。だから、強く呼びかけた。
「シャノン……!」
間違えようがなかった。そこにいたのは、アロアがよく知るあのシャノンだった。大人びていて、恥ずかしがりやさんで、一緒にいることが誇らしくなる。守ってやりたくも、かまってほしくもなる、一番新しい、大切な友達。
「シャノン! 戻った…… 戻ったのか!?」
握る手に、力がこもった。
やっと辿り着いた、取り戻せた彼女に、アロアの顔が思わずほころび――
「殺…… して……」
頭の中が白く、時間を止めた。
「え…… え……?」
全身に力が入らなくなり、浮き足だって呆けるアロアに、彼女は容赦無く二の句を継ぐ。
「早く…… 私を殺すの……!」
はっきりと、アロアの頭の中にその言葉が入ってきた。
涙とともに感情が流れる言葉、生きた言葉がアロアの意識を覚ました。
「な、なんでだ! せっかく戻ったのに……!」
「今、一時だけ…… 一時だけ戻れた、それだけなの。すぐに私はまた暴れ出すの。だから早く、殺し――」
「できるわけねーだろ! 勝手なこと言うなっ!」
気づけば、怒鳴っていた。
「友達に友達を殺せっていうのか!? お前も世界と一緒か!? わたしが諦めずにやったことを! ダテが頑張ってやってきてくれたことを! そんな簡単に諦めるんじゃねーよ!」
どうしようもなく、腹が立ってしまった。希望を垣間見せて、また叩き落とそうとするこの合月に、どうしようもなく腹が立った。
「頼むから…… 諦めんじゃねーよ……!」
目頭が熱く、目の前が滲んだ。我が身に与えられ、その力を知った「世界」はあまりにも強大で、あまりにも無慈悲だと感じた。腹が立って歯向かおうとすると、ひどく、怖かった。
だから一緒に、立ち向かって欲しかった。
恐ろし過ぎる世界の力へ、同じ恐怖を抱く友達として――




