75.現れ出でし彼方より
天には星々が生まれ、陽は橙色の空の境を遠く、丘の向こうへと連れ去っていった。
法衣の二人が森を歩む。今宵最大の役者である双月の姿は、高く茂った木々の葉により遮られていた。
「アロア、大丈夫ですか?」
「……お、おぅ、思ったより、キツいな。体は元気なんだけど、元気過ぎて堪えるのがキツい」
ランプをかざし、足下を照らす細身の修士。その後ろには、青い法衣を着て、布に包まれた長物を「杖」のようにして歩く小柄な修士がいる。
彼女らは歩み続ける。森の奥地、身を穿つような黒き力を放つ少女の元へと――
~~
夕刻―― 東側の執務室に『選ばれし道士』は立っていた。
彼女の目線の先には、彫り物と装飾豊かな机に座る、見知った壮年の男がいる。
「アロア、これを取りなさい」
机の上には白い布を巻かれた、彼女の身長ほどある長物が置かれていた。
「開けていいか?」
「……だめだ。今回の儀式において、それを目にすることが出来るのは『選ばれし道士』のみに限られている。法王より授かった物だ。心して受け取りなさい」
法王より―― 物は知っていても、聞かされていても、その言葉には重みを感じた。ドゥモの修士として根底の心根は変わらぬままに、彼女はそれを両手で恭しく持ち上げた。
重い、日傘などとは比べられない重量が彼女の腕にかかる。
「こ、これって…… 錫杖か?」
「ああ、『二柱の杖』という。今夜の儀式には欠かせないものだ」
知っていた。その名前も何度か耳にした。
だがその名前が今、目の前の神父から放たれたことに、彼女はついに訪れた現実を感じた。これまでのことは、ただの趣味の悪い作り話ではなかったのだと。
「何も…… 何も聞いてないぞ。私は何をすればいい?」
その言葉に、これまで何も語られなかった不満が交じらなかったわけではなかった。
「何も難しいことは無い。お前はこれからある場所に行き、それを一度振るだけだ。それで儀式は終わる」
しかし、神父には伝わらなかった。思惑を「何も語られなかった」不満は、儀式の内容を「何も語られなかった」不満でもある。主語の違う二つの不満は、他者には伝わらないものだった。
「振るだけ? 一回振るだけでいいのか?」
そんなはずはない。振るべき場所には、振るうべき場所には、彼女が待っているのだから。
「ああ、それだけだ。その場所へはイサが案内してくれる。イサが呼びに来るまで、自室で静かにしていなさい」
嘘をつくなと、本音を語れとつっかかるのは簡単だった。
「わかった…… 頑張る」
錫杖が包まれた布を手に、彼女は神父に背を向けた。
「アロア」
足を扉へと、向かわせようと思った矢先に声がかかる。
「……疲れた顔をしているな。儀式は夜になってからだ、時間まで、少し眠っておきなさい」
アロアは憤りそうになる心を抱えたまま、執務室を後にした。
ダテへの信用と、ダテからの信用。
その二つが彼女の心の支えとして、この場を耐え切らせた。
~~
前を歩み続けるイサの背中を、アロアは見る。
神父と同じく、気づいた時には傍にあって、日々見てきた背中。長身で、十五になった今も追い抜くことはなかったが、まっすぐに見る視点は随分と高い位置になったように思える。
そしていくらか、昔に比べて細くなったようにも感じる。
「なぁ、イサ……」
「はい?」
――『神父はなんで、嘘をつくんだろうな』
「……神父は、いつ頃になったら来るんだろうな?」
「後から助けに割り込むと言っていました。もう森に入っている頃かも知れませんよ」
その背中に、問うことは出来なかった。
物心ついた時から、イサの背中も、神父の背中もあったのだ。
考えてもみれば当然に、イサと神父は、それだけ長い時を教会の代表として過ごしてきている。
――共に過ごしてきた相手を、疑いたくない。
その心があるからこそ、イサは神父の心根を疑うようなことを言葉に出来ないのだろう。それは今のアロアには、わかる気持ちだった。
信頼に足る、そんな相手を見つけたアロアには。
しかし、言葉にはされずとも、イサが神父に疑惑を抱いていることはわかる。そうでなければ一昨日と昨日、神父を抜きにした夜の集まりが嘘になる。特に一昨日は、自らで呼びかけた集まりだ。
それをどのような気持ちで決断したのかは、アロアにもわからなかった。
「アロア」
歩を止め、イサが振り返った。
「ど、どうした……?」
イサは袖口へと手をやり、黒いベルトのついた、見知ったポーチを取り出す。
「そろそろと、頃合いでしょう。ダテ様のおっしゃった通り、こちらを身に付けなさい」
昨日の夜、交わした取り決めを思い出し、アロアは堅い表情で頷いた。
~~
森の奥、因縁の地である広場の近隣に、彼は潜んでいた。
月明かりがわずかに照らすも、肉眼などは役に立たない闇の中。彼は腰をかけた切り株にて目を閉じ、微動だにしない。それはいつからかの、落ち合う際の慣習とも言えた。
やがて木々の高みから枝を揺らし、葉をざわめかせる音が彼へと迫り、黒い影がその身を上方から降らせた。
暗闇に紛れ、現れた人影は赤い双眸を光らせ、問う。
「首尾はどうだ?」
静かに眼を開き、無表情なままに彼は答える。
「予定通りだ…… 先ほど森に入った」
人影が辺りを見回すように首を振る。赤い光が左右に揺れた。
「何も感じぬし、見えないな。本当に来ているのか?」
「場が暗黒の魔力に満ち過ぎているせいだ。少しは抑えるように言わなかったのか?」
意識せずとも、見ようとせずとも、周辺の異様ははっきりとその姿を現わしていた。例えなんら魔力を視る術を持たぬ者であろうとも、目にすることが出来ただろう。今や森の奥地は、放つ者を中心に暗い紫色に染まりつつあった。
「言わずとも、抑えられるのであれば抑えているだろう。どうやら時が迫り、力が溢れているようだ」
フンと無表情なままに鼻で笑い、切り株に腰をかけていた彼が立ち上がる。
空に浮かぶ最早一つとなった双月の光を、片眼鏡が反射した。
「……ついにこの時が来た。長きに亘った雌伏の時も、幾星霜続いた我らの儀式もこれで最後か」
右手には白い布に包まれた長物。少女が持つものよりも長い、同型の長物。
月を見上げ、近くにいる他者など見えていないかのように呟く彼に、赤い目をした男が訝しげに尋ねる。
「はっきり言わせてもらうが、あれの力は予想以上だ。本当に大丈夫なんだろうな? 手に負えぬと理由をつけて、今更約束を反故にするなど……」
リンカニック型に揃えられた、上品な顎髭の口元が動き――
「安心しろ、予想以上であれば尚のこと良い」
――レナルドは、にやりと笑みを浮かべた。
「くっ…… 何を考えているのやら、まったく……」
口惜しそうに赤い目の男がぼやく。
レナルドはそんな男の表情に目をやることもなく、切り株の脇に置かれていた「木箱」を小脇に抱えると、長物の上部を木々の一方へと向けた。
「では、行くぞファデル」
長物の先には、強烈な魔力の気配。決戦の地へと待機している『邪悪』の気配があった。
「ああ、では……」
ファデルが一歩と、その方向へと歩みだす。
続き、レナルドが向けていた長物を下ろそうとした、その時――
「……!?」
「な、なんだ……!?」
清浄なる力が、彼方より、一瞬に爆発するように姿を現わした。
レナルドが長物にて指した逆方向、その方角は東、この森を遙かに越えた先――
「あの方向は…… 教会……!?」
「なんだと……!?」
無人の学び舎には、たしかな聖なる魔力が立ち昇っていた。




