73.天高き双月の下にて
夜の教会の廊下を、少女が歩む。
「うおぉ…… 寒……!」
廊下の寒気にまだ水気を含んだ髪が冷やされ、ことのほか寒さを増長させる。ネグリジェの上から着込んだガウンは、足下と頭部の冷えには無抵抗だった。
「ぅぅぅ…… 内緒であいつに火の魔法でも習っとけばよかったか……」
こんな夜更けに沐浴とは、今更に馬鹿なことをしたものだと後悔する。だが、汗にまみれ、草と土にまみれた体を我慢したまま、今夜眠りにつけるとは思えなかった。
特に、明日が明日だ。
「疲れたままにしといてくれればよかったのに…… わざわざ回復しやがって……」
ぶつぶつと、思い浮かぶ顔に文句を言いつつ、彼女は自分の部屋を目指す。
「アロア」
唐突に背後からかけられた声に、彼女は背筋を凍らせた。
驚きに凍らせたのではなく、その良く知った声に。
「……し、神父」
法衣ではなく、寝間着のシャツ姿の神父が後ろに立っていた。
教会の朝が早いのは神父とて例外ではなく、眠っていることを見越していたアロアは、自らの浅はかな行動に動揺の色を隠せなかった。
――普段通りにしてろよ。絶対に勘づかれるな。
ダテの言葉が頭を過ぎる。平静さを復帰しようとする心が、更なる動揺を誘う。
「……こんな夜更けにどうした? 浴室から音がしていたようだが…… まさか、この寒さの中で水浴びか?」
寒さに震える体と、動揺に震える心で声を絞り出す。
「……ごめん。どうしても、ね、眠れんくて……」
首の辺りに、血管ごと握られたような締めあげられる感覚。しかし、心臓の音は妙に大きく聞こえる。感じたことも無いような緊張感に彼女は戦慄した。
神父の手が、彼女の頭に乗せられる。
「……っ!」
目を固く閉じて身を強ばらせたアロアは、その手の思いも寄らない柔らかさに、怖々と片眼を開いていく。
「……すまないな、いつも大きな役目ばかりをさせて」
その声は濡れた髪を撫でる手と同じくらいに柔らかく、優しかった。薄まる圧迫感に放心した顔を向けるアロアを、身を寄せた大きな体が包み込んだ。
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ。明日の儀式は難しくは無い。安心してお休み」
数年前、まだ小さな子供だった頃以来の抱擁。
つん、と、アロアの鼻孔を夜の大人特有の香りがついた。
「酒飲んでんのか、神父…… こんな時間じゃイサに見つかったら怒られるぞ」
「ん、はは…… たまにはな…… 今のお前に言っては情けないが、私も眠れん時はあるらしい」
微笑を見せ体を離す神父。その顔はずっと見てきた、何をしてもなんだかんだで許してくれる、いつもの神父だった。
「妙な時間の沐浴は見なかったことにしよう、お前も何も見なかったことにして、黙っててくれるか?」
イタズラな物言いに、アロアは半分と調子を取り戻す。
「いいのかよ、神様に仕える者が嘘ついて」
「神様は嘘はよくないとおっしゃるが、隠し事はダメだとは言っていない」
「なんだよそれ…… ひどい言い訳だ」
「じゃあこうしよう、私は眠れない夜の薬として酒を飲んだ。お前は、大事な儀式のために体を清めた。これならいいだろう?」
酒が入ると少しばかり饒舌になる。何も変わらない、良く知った性格。
「……ならいいか。そうだな、そうする。おやすみ」
「ああ、おやすみ」
軽く笑みを交わして、アロアは廊下を歩み出す。
「アロア」
自分の部屋のノブを掴んだ彼女に、神父の声がかかった。
先の場所から、顔をこちらへと向けている神父。
「風邪をひくなよ、暖かくして寝なさい」
彼女はやわらかに笑い、「おう」とだけ返して部屋に入った。
扉を閉じ、ノブを後ろ手に背中を扉に預ける。
足音を忍ばせ、静かに歩く神父の気配が廊下から消えていった。
「……なんなんだよ、もう」
アロアはその場でずり落ちるように座り込み、張り詰めたものがが去っていく感覚に身を任せた。
――「隠し事はダメだとは言っていない」
ただ、その言葉だけは、長く頭を去ってはくれなかった。
~~
窓辺に立ち、両開きのガラス窓の片側に手を掛ける。
ほのかな甘みを錯覚させる、夜の空気が部屋へと入り込み、彼女の意識を覚ます。
「明日……」
その目は見えるはずのない、近くて触れ合わない世界の双月を探す。ここには無い二つの衛星は、彼女の体の底へとたしかな影響を示していた。
ともすれば、影響のままに黒く昂りそうな心。そして、投げ出したくなるような迫る運命の日への重圧。
今日この日まで、特に最後の日々を堪えられたのは、彼と、彼女のおかげだった。
窓をそのままに、後ろを振り返る。
壁に掛けられたランプの灯りが淡く照らす、いつもと何も変わらない、望まぬ限り変わったことのない私室。
見渡し、思わず失笑し、窓の外へと視線を戻した。
彼は最後の打ち合わせにと、自分と彼女と観測者を例の広場へと呼び出し、明日の行動を示した。何をしていても賑やかに感じる彼女と過ごした数時間前。そのせいはあるのだろう。
一人に戻り、時を待つ私室が異様に広く感じられた。
いや、きっと、昨日は彼がこの屋敷にいた。そのせいもあるのだろう。
何にしても、笑ってしまう。
明日の大事を前に、『寂しい』などと考えてしまう自分の暢気さに。
自身や彼女が彼から指示された明日の行動は、何も難しいことではない。何をする気なのかは教えてくれなかったが、他のことは全て任せろと言ってくれた彼の方が、難しさも、負担も大きいだろう。
だが、明日は明日。大事という言葉ではとても足りない、まさに全てのかかった局面だ。
なのに自分は、『寂しい』と。一時とはいえ、こんな時にまるで小さな子供のような感傷に浸った。それが可笑しくてたまらなかった。
「いけませんね…… ダテ様に、アロアにからかわれてしまいます」
音を立てることなく、彼女は窓を閉じた。
なんの意図もなく、よぎった感情の滑稽さから繋がり、口をついて出た二人の名前。
シャノンはその音の響きに、心が安まる自分を感じてまた、少し笑った。
~~
「よし……」
この世界には存在しない、大量生産のスウェットパンツにシャツを着た、一月と半月前にテレビゲームに興じていた男が手帳を閉じ、ローテーブルに置いた。
その声と物音に、テーブルの上でいつの間にやら寝こけていた妖精が、むにゃむにゃと目を擦りながら身を起こす。
「ふぁ…… 終わったっスか? 大将……」
「ああ、準備は整った。後は野となれ山となれだ」
「それはそれは…… あるぇ? シャノンちゃんは……?」
半目で辺りを見回す妖精に、男はジト目を向ける。
「なに寝ぼけてるんだ、いるわけねぇだろ…… ここは都だぞ?」
「ふぁ、そうでした……」
窓の外、不夜城の灯りを見なければ判断はつきにくいだろう。室内のベッドが一つであることを除けば。
「ご苦労さんですねぇ、大将。今日も泊めてもらえばよかったのに……」
「んなことできるか…… 明日は本番だ。もう不自然な真似は出来ん」
言って、男は冷めたブラックコーヒーを煽った。
「ねぇ、大将?」
カップを口から離し、「なんだ?」と一言、テーブルに置く。
「この『仕事』って…… 最後どうなっちゃうんでしょう……」
テーブルから、憂いの色を帯びた表情が男を見上げる。
視線を外し、金襟の箱から一本を取り出すと、男は先端を発火させた。
「……どう、とは?」
煙を吐く。内心分かっていて、あえて尋ねている様子だった。
「だって…… 大将のお考え通りなら、あんまりいい結末にはならないじゃないですか。お二人は助かっても――」
「クモ」
伊達は吐き出す煙とともに言葉をさえぎった。いつになく真面目な、『仕事』の顔だった。
「俺達には、分際がある。俺達には人様を救うなんてことは出来ない。出来ることはほんの一時、手を貸してやれるってだけだ。それに…… それだって俺達の『仕事』じゃない」
「でも」という言葉を呑み込み、クモは俯く。
理解はしている。『仕事』の依頼主は『人』ではなく、『世界』なのだ。
「でもな……」
はっと、クモは絨毯から立ち上がる彼を見上げた。
「出来ることなら、いい結果がいいよな?」
力のある、頼りがいのある笑顔がそこにあった。
「そっスよね! そうに決まってます!」
だから歯を見せて、ニッと笑って返した。
根拠は無い、彼も持っていないだろう。でも大丈夫、彼は奇跡でもなんでも呼び寄せて、いい結果を無理矢理にでも引きずり出す。
クモには、そう思えた。
「さってと……」
ずるずると、彼は空中に腕を「吸い込ませて」いく。
今時分から何をと首を捻る妖精の前で、彼は中にあるものを掴み、引っ張る。
「うぉ…… 結構使ってなかったんだな」
黒い糸状の物から、絡まる埃が払われていく。その先端には彼の親指ほどの大きさの、液晶を持った赤い箱がくっついていた。
「えらく懐かしいスな、何するんスか?」
「何ってお前…… 聞く以外に何に使うんだよ」
彼は指先を紫色に発光させ、赤い箱の端子へと押し当てる。「よし、動く」と言った彼の手元で、液晶に青いデジタル文字が浮かび上がっていた。
「さて、寝るか。おやすみ」
型落ち品のMP3プレーヤーを手に、イヤホンを装着しながら伊達がベッドに向かう。随分と久しぶりな彼の様子を、クモは不思議そうに見送った。
最早一つと見える双月は、今夜の地上を白く染めあげていた。




