71.疑わしき対極にある者
三階建ての白い外壁の屋上から、真昼の空へと舞い上がる。陽光に煌めく街はあっという間に小さく、作り物のようになり、石壁の迷宮の様相を見せる。
騒ぎにならない高さまで上昇したところで、ダテがシャノンに合図をし、二人はアーデリッドへと進路を取った。
レナルドの調査が滞ってしまったのなら、対局に位置するファデルへと。
シャノンからもたらされた方針の切り替えはダテにとっての盲点をついており、彼は惑うことなくその意見に賛同した。
彼女の父であり、領域の主。合月に赴いた前代を父に持つ円熟したヴァンパイアにして、『邪悪』側の筆頭。レナルドと同じく『代表者』の影にいるその存在は、今などではなくもっと早々に調べておくべき要人と言え、これまでその考えに至れなかったダテは、自らの間抜けさに舌打ちを禁じ得ない心持ちで都を飛び立つことになった。
十一日前、都にてレナルドを見かけてから知らず育ち、大きくなりすぎた疑惑に目を曇らされていた。長く『仕事』を続けてきた彼からすれば、自分を呪いたくなるような未熟なミスだった。
都が遠ざかり、眼下にはただ、丘と野が過ぎていく。
裂けていく空気の当たりから充分な速度を感じたダテは、後方から追走するシャノンへと、一度視線を送った。
『シャノン、君自身は…… 父親を不信に思うところはあるのか?』
野が過ぎていく。答は返らない。
『……奇妙に思った言葉や、行動はなかったかな? もしあったら教えてくれ』
思念の声色を柔らかく、ダテは問い直した。
彼女から言い出したこととはいえ、育ちのいいシャノンにとっては、自らの父に疑惑を向けるような発言は気持ちのいいものではないのだろうと。
『すぐには思いつきません…… 身内ですので、近すぎて見えていないのかも知れません』
身内ゆえに見えない。ダテにはわかるような気がした。
家族だから、家族であるからこそ、家族であっても、見えない。伝えても、伝えなくても、伝わらない。
『ただ…… やはり『合月の日』を目前に、選ばれし道士を討てと言われたことには違和感を』
浅く『現実』へと浸かり始めていたダテの意識が、『現実』へと引き戻される。
『違和感…… それはどうしてだ?』
『私は幼い頃より今、二十五年に一度の合月のためにと父より沢山の指導を受けて来ました。父は来たるべき日を正確に把握していて…… 私自身も、明日に迫ったその日を目指して修練を積んできたのです』
二十五年に一度の一日。天体にとっては何ということはない僅かな時間。『邪悪』と『道士』、どちらの側にも、その正確な日取りをうかがう術はあるようだった。
自力にて観測する以外になかった余所者は、若干気を滅入らせる。
『合月の日を正確にか…… そいつは、君に早くに聞いておけばよかったな。それで?』
『はい…… それが唐突に、ダテ様とこうして知り合う少し前に、父は日を待たずともよいと』
『唐突に、か?』
『はい、それまで慣習を破って強行するような話は一度も』
たしかに、奇妙な話だとダテは思い入る。
『それってその辺りのタイミングで、シャノンちゃんのお父さんがアロアちゃんを見たんじゃないスか? 待たなくても勝てそう、みたいに思ったとか。一人だけあんなに目立つ青い法衣着てるんスもん。正体バレバレでしょうし』
クモの思念が二人に注ぐ。シャノンがダテの後ろ姿に向け、頷いた。
『そうかも知れません。私達が合月の日に動く理由は、魔力の高まるその日以外に選ばれし道士に勝てる見込みが無いからでした。合理的なことが好きな父のことです、その考えは妥当かと思います』
『だが、君には違和感があるんだろう?』
『……! はい……』
鋭く挟み込まれたダテの思念に、シャノンは小さく、返事をした。
『……今の話は俺からしても違和感バリバリだ。君の勘は正しい』
『ほぇ? どっかおかしいっスか?』
『おかしいに決まってるだろ……』
眼下にここ数日、四度目に見る湖面が広がった。晴天から注ぐ陽光に水面を煌めかせる湖の形状に、ダテはわずかにずれていた軌道を修正した。
『青い法衣で正体バレバレっていうなら、ずっと昔からファデルはアロアのことをマーク出来ていたはずだ。いくら教会に神父がいるにしても、四六時中傍にいるわけじゃない。ましてや夜行性の魔族なら、目もさることながら感覚は人間の比較にはならない。人目につかず、アロアを観測することは充分に可能だ』
『ってことは…… 最近どころかずーっと昔からアロアちゃんのことは知ってたと?』
『だからそう言ってる。来たるべき日の敵なんだ、のんびりと直前になって「さぁ、そろそろ相手を見てこようかなー」なんてバカはいないだろ』
『そ、それはそうっスな……』
クモが納得する様子に、ダテは話を区切り、今聞いた話を脳内で整理する。
シャノンが感じた違和感、ファデルの突然の方針転換、そして、その時期――
「ん……?」
話とは別に、今に違和感を感じたダテは後方を振り返る。
ちんまりと、彼に置いて行かれる形でシャノンが空中に静止していた。
『私は…… バカなのでしょうか……?』
ちょっと泣きそうな思念が聞こえ、慌ててダテはフォローに入るのだった。
~~
教会の東側廊下、事務所となっている部屋から現れた痩身のシスターに、彼は話しかける。
「お疲れ、イサ」
「あら…… お帰りですか?」
力強い腕が、先端に六角形の枠を持つ、都の守護修士隊が持つものと同型の錫杖を床に付く。
「……少々どころか、かなり厄介だったがね。まぁ、やれることはやってきた」
少しくたびれた様子の彼に、イサは笑いかけた。
「もうお年なんですから、ご無理はなさらないでください。今の林には、ダテ様でさえ手を焼いているご様子でしたよ?」
「年上のお前に言われると複雑な気持ちになるな。しかし…… あの林の様子だと、正直ダテ様が帰ってしまったことが悔やまれる……」
長年と連れ添ったこれまでの時と同じように、軽口を叩いて彼らは別れた。
礼拝堂へと歩き出すイサを尻目に、彼は自らの執務室の扉を開け入る。
後ろ手に閉めた扉。ノブに備えられた鍵を閉める。
横目で見る背後の壁沿いには、持って来たままの状態の、布に包まれた長物がある。
彼は部屋の奥、黒檀の机をわずかにずらし、机の脚跡が刻まれた紫色の薄い絨毯をめくった。他の部屋と変わりの無い、フローリングの床が現れ、他の部屋には無い、『床下収納』の取っ手へと彼は手を伸ばす。
取っ手の窪みへと差し込まれた指が床板を持ち上げ、開かれた扉の中へと、光が入り込む。
そこには大きさ一才足らずの木箱と――
布に包まれた長物があった――
一才:三十立方センチほどの大きさ。




