64.静けき屋敷の夜話(前編)
――背中を見ていた。
広く、頼もしく、触れて、よりかかってみたくなる、そんな背中だと思った。
しかし今、なぜ自分がそこにいてそうしているのか、いつの間にそうしてしまっていたのか、それが彼女にはわからなかった。
名前を呼ばれた、彼の名前を呼んだ。事象の理解は出来る、理解は出来ない。
ぼうっと、もやがかかったように頭が熱くなり、行き渡る血液の循環が、全身の至るところから鼓動を発する。
触れ合っているはずの体は確かに感じられつつも、肩から下が無くなってしまったかのように、熱が首から上を支配していた。
彼は振り返ることも、身じろぎ一つもすることなく、背中に収まってしまう小さな体を受け止めていた。両肩に手を這わせ、甘えるように体を寄りかからせる彼女を、受け入れるでも払いのけるでもなく、ただされるがままに、動かずにいた。
「ダテ様……」
頬を彼の背中に当てたまま、シャノンは再びその名を呼んでいた。なぜ呼んだのかも、本当に呼んだのかもたしかではなかった。過分に熱っぽい声だったと、どこかに取り置かれている冷静な自分が思った。
添えるように置かれていた両の手に、僅かに力が入った。
漂う煙の匂いと、彼の匂いと体温―― 全てが甘く感じた。
両肩に置いた手を支えに、体を擦り合わせるように彼の背中を昇る。
目に飛び込む、彼の肩口、衣服の境、首筋。
上気する頬が、彼の頭へと寄せられ、朱を帯びた彼女の唇が艶やかに、
その鋭利な白い牙を覗かせた――
「~~~っ!?」
ゴロゴロゴロゴロと、彼女は口元を押さえ、絨毯の上を転がった。
「ふぅ……」
一つほっとしたようなため息が、先ほどと変わらぬ姿勢の背中から発せられた。
「……!? っ……!?」
脳をつんざくような激痛に涙目になりながら見るその背中、その首筋は、『鈍色』の光沢を持つ、金属にしか見えない色合いに変色していた。
痛みに声も出せず、口元を押さえ続けている彼女に、彼は一本を片手にしたままゆっくりと振り返る。
「目ぇ、覚めたかい?」
にこやかに、しょうがないなという優しい笑顔を向ける彼に、はたと彼女は自らの所業に思い至った。
「ダッ…… ダテさ……」
小袋に、急ぐようにして一本を揉み消した彼は、喋ろうとする彼女の元へと惑いなく動き、右の手のひらを彼女の口へと押し当てた。
「……!」
「こらこら、無理すんな…… 柔らかいものを意識して無茶苦茶固いものを噛んじまったんだ、地味に痛すぎんだろ……」
手のひらから緑色の光が漏れ、彼女の口から痛みを取り去っていった。
「ほら、口開けて…… うん、どこも切れたりしてないし、歯も欠けてないな。大丈夫だ」
そして無遠慮に口中を一通り観察して納得すると、彼女を解放し窓際へと戻る。
「ダ、ダテ様…… 私は……」
「とりあえず、服を直そう、目のやり場に困る」
激痛に転げ回ったせいで白い足がドレスから、太股までむきだしになっていた。
「はわっ……!」
即刻、跳ね上がるようにして立ち上がり佇まいを直す様に、彼は苦笑とともに背を向け、再びと、白い一本を引き抜いて発火させた。その首元は既に元の肌の色に戻っていた。
「……ダテ様…… 私はいったいなにを……」
服を直し、立ったままおずおずと尋ねるシャノン。ダテは煙を一つ噴いた。
「種族として…… 『吸血鬼』として当たり前のことをしようとしただけさ」
シャノンは目を見開き、胸元に手を当てた。
「まぁ、普段の何倍と魔力が増大して抑えが効かないって時に、美味そうなやつが油断して背中向けてるんだ…… なんていうか、すまんかった」
煙を発しつつ、どこか暢気な口調で詫びを入れてくるダテ。謝罪すべきは逆だと思うも、シャノンは語られぬものを知ったる彼の言葉に、謝るどころではなかった。
「ダテ様…… どうして私の…… 私の種族のことを……」
「ん……?」
振り返る彼の口元には笑みが有り、先ほどの行為に萎縮していたシャノンの心が解される。
「誰から聞いたわけでもないが、最初から見当はついてたさ。ステレオタイプっていうのかな……」
「すてれお……?」
「普通っていうか…… 一般的なイメージのそのまんまってことさ。夜に活性化する魔族で、貴族的な上品さで、色素の薄い髪色をしたとんでもない美人で、『コウモリのような羽』を背負う。ここまで型にハマってくれれば子供でもわかることだよ」
意味のわからない話だった。一般的なイメージ、その言葉の意味がまったく不明だった。首を傾げ、疑問符だらけといった表情を見せるシャノンに、ダテが苦笑した。
「ん~、まぁ、なんというか…… 別に珍しい種族ってわけでもないってことかな。ただの魔物同然のやつもいれば、神や悪魔に並ぶようなやつもいるが、『吸血鬼』っていうのは種として見ればメジャーな部類の種族なんだよ」
「主立った…… 種族……? 私達が……?」
「ああ、俺自身、これまで何度となく出会ったことがある」
ダテの言うことに嘘は無かった。だが、彼の言うことはこの世界では有り得ることではなかった。彼の知らないことではあるが、この世界における『吸血鬼』、吸血を行う人型の魔族である『ヴァンパイア』の一族はファデルとシャノン、わずか二名以外には存在していなかった。
「ところでシャノン、君はこれまで吸血は?」
「えっ? いえ…… まだ……」
「まだ?」
つい先ほどのこともあり、気まずそうにシャノンは俯いた。
「……私達は人間からしか吸血はしません。お父様は気が進まなくても一度は経験なさいとおっしゃるのですが、相手のあることですし、正直…… 血液を吸うというのは生理的に気持ちのいいものではないと……」
「そ、そうか……」
父と二人、吸血鬼の一族として育った娘はどうしてこうなったのか、奇妙なまでに普通の感覚の持ち主だった。
「吸うとどうなるのかは聞いているか?」
「お相手の方から魔力を奪えるのだと、そう聞いています。吸えば吸うほどに力を増せる一族なのだと、父は誇らしげに語っていました。口にしてみればとても甘美なのだとも……」
「甘美ね…… 俺は献血すら断られそうなんだがなぁ……」
「すすすすみませんっ! どうしてあんなことをしてしまったのか私にもまったく! い、以後無いように、気をつけますので!」
わたわたと、顔を真っ赤にして謝るシャノンは妙に子供っぽく見え、ダテは失笑しながら「いいよ」との意を込めて、軽く顔の前で手を振った。
実父の事を「お父様」と言ったり「父」と呼んだりと、思い返してみれば物言いや所作の一つ一つからも大人になりきれていない、年相応なところのあるシャノン。ダテは「実は吸血鬼は気に入った異性から好んで吸血する習性があるんだ」などとは口が裂けても言えないなと、この育ちのいい、純粋なお嬢さんに対して思った。
「ん……? 待てよ……?」
はたと、ダテの心にひっかかりが生じた。
「シャノン、君のお父さんは…… アロアに対して吸血しろという風なことは言わなかったか?」
急なダテの何かを推し量るような意味深な質問に、シャノンは落ち着いて頭を巡らすそぶりを見せ、答えを紡ぐ。
「それは勿論、言われています」
「もちろん?」
「『選ばれし道士』を合月の力を持って倒し、その血を吸収することで力を増すことが私達の狙いですから。合月の際に力を増せるとは言え、それはまさにその一時。人の世に打って出るためには、私達に対する最大の敵である『選ばれし道士』を仕留めた後、その力を奪って、比類無き力を得る必要がありますので」
なるほど、とダテは一つ頷いた。
「気にはなっていた部分だが…… そういうことか」
「と、言われますと……?」
「いや、合月の日に勝利をした後、実際に君たちがどうやって世界に席巻するのかは結構な疑問だったんだ。何かしら手段はあるのだろうとは思っていたが、掴めずにいた部分だ」
「そうなのですか……」
人間か魔族か、今後の覇権をかけての戦い。それはわかっていた。だが、あくまでそれは合月魔法の規模から繋がる事象や、シャノンやイサの口振りから理解した内容であり、ダテの中でその全貌は明らかになっていなかった。
ダテは今もう一つ、なるほどと思う。
この世界の未来はたしかに、合月の日にかかっていると思えた。
「お父様は合月より前に、早く相手から力を奪えとおっしゃいます…… きっとこれまでの例に無く、『選ばれし道士』よりも今の私の方が強いからなのでしょうけど…… 過ぎれば命を奪ってしまうかもしれない吸血を行う気にはなれず……」
「……? 死にはしないのか?」
「過剰にならなければ…… とは聞いています。ですがその後、合月の日には命を奪い合わなければならない相手です。本当のところはわかりません……」
ファデルが娘の性格を把握していたとして、そこに嘘があるかどうかをダテは考える。答えは出なかった。だが、先ほどのシャノンの様子を見る限り、実際にシャノンがアロアを吸血したとすれば、高い確率でアロアは死んでいただろうと思った。
血とは、力とは、吸血鬼にとってはそれほどに、夢中になって過ぎてしまうほどに「甘美」なのだ。
「ま、やらなくてよかったな。命を奪わずに済んだとしても、大変なことになったかもしれん」
「ええ…… 吸血は、相手に血を噴かせる必要のある危険な行為ですし……」
「いんや、そうじゃない」
言葉を中断され、シャノンが小首を傾げた。ダテは過分にイタズラっぽい表情で、床に置いていたグラスを手にとって軽く掲げた。
「吸血鬼に血を吸われた人間は、支配下の吸血鬼になる」
「……?」
「そうしたいと想いを込めて吸血することで、相手を従属した自分の仲間にしてしまえるのが君たちの一般的な能力だ。もし君がアロアに吸血していたら、あいつは今頃君お付きの吸血鬼になってたかもな」
「そ、そんなことが……!」
初めて聞いたという様子だった。もしかすると、彼女の一族にはその力は無いのかもしれない。そう思いながらも、ダテはからかってみたくなる。
「ああ、危ない危ない…… もうちょっとで俺がどんな命令にも付き従う、君専属の吸血鬼になるところだったよ」
「な、なぁ……!?」
ぼふん、と煙が出た。お子様には刺激が強かったらしい。
ダテは一つ笑い、グラスを煽って空にした。
「さてと、お開きにしようか、そろそろ夜も更けた。明日もあるし…… 寝るとするかな」
「あ、は…… はい……」
グラスを盆に置くダテの動作を合図に、シャノンはテーブルに寄って片付けに入った。
「……シャノン、明日が最後の機会だ」
ダテの静かな声に、彼女の動きが止まる。
「明日一日で、全ての情報を洗いたい。協力してくれるか?」
シャノンはダテへと目を合わせ、どこか彼に影響された、力強さのある笑みを見せ――
「はい……!」
と、返した。




