63.その広き背中へと
昨日と同じように、同じデザインのカップを満たす褐色の液体を、彼女は口元に持って行った。
「……! 美味しい……!」
取り繕いの無い、素直に漏れた感想にダテは満足そうに頷いた。
「今日はわりと丁寧に煎れたからな。一人分だと美味いのが出来やすい」
そもそもが飲んだ経験が薄く、シャノンにはその善し悪しの判断はよくわからないのだが、今手にしているカップの中身は昨日のものに比べると香ばしく、風味にも水っぽさが無いように感じた。苦みに混じった、喉を通るコクのようなものが心地良い。
「ダテ様は、よくお飲みになられるのですか?」
「ん? コーヒーか? ある時は飲むな、無い時は諦めるが」
答えながら、ダテは部屋を見渡す。
「ちょっと暗いか」
ぐっとダテの右手が握られ、森の中で見たものより光度の低い、丸い暖色の玉が宙に浮いた。洋風の部屋はランプの灯りよりは明るくも、陰影を強くオレンジに染まる。洋酒を飲むには適した静かな明るさに、彼は満足そうに笑みを浮かべ、グラスを手に取った。
「……ダテ様は、色々なことが出来るのですね」
シャノンが不思議な人工の明かりを見つめながら言った。
「色々かどうかは知らないが、出来ることは随分多くなったな。こと魔法に関して言えば、戦いに使うためのものだと思っていた頃が懐かしくも感じる」
自らの作った明かりを見ながら話す彼の横顔に、シャノンは小首を傾げた。
「……? 戦いに……?」
おそらくは、世界観が違い過ぎるのだろう。疑問に思いながらもどう聞いていいのか言葉にしづらい、そんな様子が彼女に見られた。そして、その様子や一言から疑問を察せられるくらいには、彼は異文化に慣れていた。
くっと、ワインを一口煽り彼は答える。
「俺の生まれた場所には魔法っていうのが無くてね…… 小さな子供から大人まで、みんなにとって魔法はお話の中のものなんだ。架空の作り話は大抵が子供向けに描かれる。子供向けの作り話は子供にもわかりやすい、ヒーローが悪者をやっつけるものが多い。だからうちでは、魔法と言えば手から火を出したり、雷を出したり、戦いに使う力だっていうイメージが強いんだよ」
言わんとすることはわかるが、彼女にとっては不思議な話だった。この世界には人間達でさえ、生活や仕事のために火を起こす魔法を扱う者が巨万と居る。他者の病気や怪我を治療するためにもその力は当たり前のように奮われている。皆が皆、ダテほどに器用ではなく力は持たずとも、魔法の力を日常に認識しているのだ。
それは空を飛び、方位を知り、隔てられた世界に潜む。彼ら人間を超えた力を持つ存在である彼女には、尚更のことだった。
「我ながら、もうどこで覚えたのかもいちいち憶えちゃいないが、旅に役立つ魔法なら数えるには面倒なほどに覚えてきた。おかげでどこにいても生活に不便を感じることはなくなってきたな」
彼はクラッカーを一枚取り、チーズを乗せて口へと運んだ。咀嚼し、満足そうに一つ頷き、ワインを喉へと通す。
「……聞いても、よろしいのでしょうか?」
「ん?」
機嫌の良さそうな表情で顔を覗き込んでくる彼に、シャノンは目を逸らした。
「い、いえ…… やめておきます」
「……そうか」
彼はチーズのみを口に放り込み、グラスを置くと窓の外へと顔を向けた。黒一色、張り付くような夜の闇だけがそこにはある。
「君は気遣いが出来るというか、本当に優しいんだな……」
穏やかな声に、シャノンは彼の横顔を見た。彼の手元、グラスが空になっていることに気づきボトルを手に取る。赤ワインが流され、彼は小さく「ありがとう」と返した。
「……そうだな、君のお察しの通り、俺は聞かれちゃ困ることだらけの人間だ。答えにくいこともあるし、答えて面倒になることもあるし、言うことすら出来ないことも多い」
それはシャノンにとって不思議な感覚だった。聞こうとして、やめたこと。彼がそれについて答えていた。
「お前は何者だ、あなたは何者ですか…… 出会って数秒で聞かれることもあれば、付き合ううちに聞かれることもある。俺につきものの、一番困る質問だよ」
彼と一緒にいるとこういうことがよくあった。何かを言おうとすると、言わずとも察してくれる。何かに躊躇すると、そっと背中を押してくれる。
彼だから見通してくれるのか、大人とはそういうものなのか、人の中で生きる人間だから出来ることなのか、理由はわからない。
「俺はいつも、答えに困って、ちゃんと答えてやれない。どうしてだと想う?」
「……どうして、でしょう……」
「隠さなきゃいけないことも勿論あるが、だいたいは普通の人…… 君たち魔族も含めてかな、みんなと同じだよ」
しかしシャノンは、「彼だから」だという理由が最もらしいと思う。隣にいて、胸苦しいほどの動揺を感じつつも、話しているこの心地よさは彼以外には感じない。
「自分が何者かなんてわかるわけないだろ? 毎日一所懸命に生きてるだけなんだから」
見た目の良さでも、その身に宿した魔力でもなく――
「そんな自分のこともロクにわからない怪しいおっさんだが、君やアロアをなんとかしてやろうって気持ちに嘘は無い。都合のいい物言いかも知れないが、今だけでも、信用してくれるかい?」
その心地よい優しさに、出会ってからの彼女は惹かれ続けていた――
「はい……」
彼が傾けたグラスに、カップを取って軽く合わせる。ガラスと陶器のくぐもった音が、わずかにだけ響いた。
彼は笑い、つられ、彼女も微笑んだ。
「ああ、そうだ。これ……」
彼はシャツの胸元から、ベルトのついた小さなポーチを取り出し、彼女に手渡した。
「……? よいのですか?」
「ああ、一度あげたものだからな、またアロアを呼び出す時には借りると思うが、今は持っていないと君も不便だろう?」
「不便…… ということはありませんが……」
身に付けている服にしまう場所は無く、彼女はそれを昨日そうしていたように首に提げた。
「裁縫は得意かい?」
「どうでしょう? 比べられる方はおりませんので」
ダテは笑いながらグラスを持ったまま、体を引きずるようにして窓辺へと動き、窓を開いた。夜の空気が室内へと入り込む。人の世と変わらない、冷えた夜の森の香りだった。
「悪いな、感想がまだだったが、結構美味いワインなんだ。いい酒は久しぶりでね、不快だろうが、寛ぎたい気分なんで少々我慢してくれ」
そう言って、彼は紫色の裂け目を見せる空間へと『腕を吸い込ませ』、小さな白い箱と小袋を手にした。
「ダテ様?」
見たこともない精巧な、金色の襟をデザインされた紙箱から白い一本が引き抜かれ、それは彼の目によって先端に火を灯し、煙を浮かせた。
彼はシャノンに背を向け、窓辺によりかかると、一本を咥えて外へと煙は吐く。特有の、仄かに甘い匂いが辺りに漂った。
「ふー…… 頭を整理する以外で吸うのも久しぶりだな…… 嵐の前の一服って感じか……」
背中越しに煙を見せながら一人寛いだ声を出すダテに、シャノンはくすりと笑った。
「やっぱり、ダテ様も煙を嗜まれるのですね」
「ん? おお、バレてたか?」
一本を持つ手と灰を受け止める小袋を持つ手、両手を窓枠にかけたまま彼が振り返った。
「以前父がパイプを嗜んでいたのです。時折、ダテ様からもその頃の父と同じような匂いがしましたので」
「……悪い、消臭魔法はサボっちゃダメだな」
「いえ、パイプを咥えた父が穏やかに母と話していた…… 子供の時分の、優しい日々を思い出します」
「吸わないやつにはただ不快なもんだと思ってたが…… 吸ってたやつとか、思い出とか、そういうもんなのかな……」
再び、ダテは外を向いて煙を吐いた。
しばし静かな空気が流れ、シャノンはカップを口へと運び、窓枠にもたれる彼を眺める。
茶色いベストを着た彼の背中は、昨日都で見た彼よりも随分と親しみやすく見えた。窓の外へと白煙を浮かせるその後ろ姿は父よりも小柄で、それでも大きく、法衣を着ている時にはわからなかったがっしりとしたたくましさがある。
ついと、見つめ続けていた彼女の目に、彼の首もとが映る。黒い髪と広い背中の間、この地域の人々には見られない、彼特有の色をした肌――
「うん、趣味じゃないとは思っていたが、赤ワインもいいな。それほど高くもないし、ビール以外の選択肢として持っておくか……」
ダテは煙を吐く。程よいアルコールの火照りと、夜風に頬を緩めた。
「しかし、パイプか。たしかにシャノンのお父さんには似合いそうだな…… 俺ももう少しダンディならそういうのも有りかも知れないが、まだ二十五だしな……」
煙を吸い、吐く。
「ん? パイプ……? パイプか…… そういや最近、どっかで見たような気がするな…… あれはたしか…… 教会の――」
――ドッ、と、ダテの背中に重みが加わった。
「シャノン……?」
白い一本の匂いに満たされていた嗅覚が、鮮烈な甘い香りに全て上書きされる。
「ダテ様……」
彼女の薄桃色の唇が、その名を紡ぎ、開く。
温かく、甘く、柔らかい。そんな重みが、背中から広がっていた。




