53.紅き世界の主
身を起こす。
普段より薄暗い室内が更に闇深く、その紅い双眸に目覚めを与える。
「ふむ……」
両の手を握り、開き、我が身を確かめる。研ぎ澄まされた感覚と、高揚を禁じ得ないまでの魔力の増大を感じた。
パチリ、と指を鳴らす。壁に掛けられたランプに明かりが灯る。
「ふっ…… いよいよだな……」
彼は寝具を抜け出し、華美なダークスーツに身を包むと寝室を出た。
アーデリッドの森の奥、人が入りこむことのない領域に彼の住処はあった。
いつから存在するのかは彼をしてもわからない。ただ、彼の一族は古くからその場所を当たり前のように所有しており、今は彼が領主として、その力により場を維持している。
「む…… 部屋が一つ増えたか……」
屋敷の中、廊下の中心に敷かれた赤絨毯を歩む彼は、見慣れない一室を見つけ扉を開いた。部屋の隅にベッドが二つ、絨毯の上にローテーブルが一つ。彼は静かに扉を閉めた。
彼の力により維持されるこの領域は、過分に彼の影響を受ける。特に、住まう屋敷にはそれが顕著だった。合月を前にし、増大された力により近頃の屋敷は日々変化を見せている。今日増えていたのは「客間」だった。
「つまらん……」
かつては「城」であった頃もあるという。力を増していて尚、屋敷は屋敷。己の不甲斐なさに高揚感も失われようというものだった。「客間」ではなく、「使用人」の一人でも現れていようものなら気分も違っただろう。
「あれが寂しがっている…… そういうことなのかもな」
自ら程ではないにしろ、屋敷の変化には親族の力も影響する。屋敷にいる親族は最愛の娘ただ一人、彼は現れた「客間」に思いを巡らせた。
だが今は、そんな感傷は必要無い。もう時は目前に迫っているのだ、先延ばしになっていた大事を進めねばならない。
それこそが娘のためでもあり、一族のためでもある。
彼は屋敷中に「信号」を送り、娘の位置を探す。
「……? 出ているのか? いないようだな……」
自分とは違い、昼間の時間を好む娘。数日と前、林を見に行かせた日から外出が増えたようにも思う。屋敷にいることが普通だったはずが、最近はいないことが多い。「合月」を前に、娘は娘なりに、一族のために動いているのだと微笑ましくも思っていたが、何か違うような気もする。
特に昨日は、どこで手に入れたのか見覚えのない服を着て可愛らしくなって帰ってきていた。
「む……」
遠く、彼の聴覚が玄関を開く音を捉えた。
「帰ってきたか」
例え口論になろうとも、もはや猶予は無い。娘には無いことだとは思うが大事の前に遊び呆けているようであれば一喝をくれてやる必要もあるだろう。
何を考えているのか、いつ言いつけの実行に至るのか、今日こそは聞き出す。そんな思いで彼は勇み、玄関へと向かう。
いくつもの無意味な部屋が並ぶ廊下を歩み、玄関への角を曲がる、そこに――
「ででで、では…… どうぞ」
「おう、お邪魔します」
若い男を玄関へと招き入れる、娘の姿があった。
「なななななな!? なー!?」
お父さんは反射的に、曲がり角の壁に人知を超えた速さで身を隠した。
「きゃ、客……!? それも男ー!? あ、あのシャノンが!?」
考えていたことが全てふっとんでしまうくらいの非日常だった。
「ばばば馬鹿な……! 他の魔族や人間はおろか、私以外と会話したことがあるかどうかも疑わしい娘だぞ……! きゃ、客人を招くなど…… ましてや男……」
好奇心は猫どころか魔族にも避けられず、ついと角から壁越しに玄関をうかがう。
「立派なお屋敷じゃないか…… 広くて羨ましい」
「いやですわ、見た目だけですのに」
娘、なんだかすごく嬉しそう。お父さんがちょっと見たことのない表情をしていた。
「……朗らかに『ですわ』ってなんだ……! そんな子だったか……!」
メリメリと、壁に爪がめりこんでいた。
「っていうか屋敷を否定するな……! 私への否定だぞそれは……!」
最近の記憶の中にある娘、いつの間にか、怜悧な顔で、冷淡に物事を告げる表情以外に思い出せなかった。ああ、いつからだろう、娘がどこか冷たくなったのは。子供の頃は天使(魔族だけど)のような微笑みを向けてくれていたというのに。
お父さんはこんなところで、普通のお父さんの苦悩を味わっていた。
「だ、だが……! 主たるもの、ここで退く身は無い……!」
すっと背を伸ばし、真剣な面持ちを作ると、彼は堂々とした足取りで玄関へと歩み始めた。銀髪に紅い瞳、すらりと背の高い彼が歩む姿は、さすがはシャノンの父という風格がある。
彼が現れるその姿を、玄関の二人が目にとめた。
「あ、お父様」
「やぁ、おかえりシャノン」
先ほどまで取り乱していたとは微塵も思わせない、紳士たる優雅な振る舞い。娘の表情が素に戻ったことには若干傷ついた。
「そちらの方は?」
「えっと…… こちらは……」
目を逸らし、ぽぽぽんっといい感じで頭から蒸気を出すシャノンに哀しくなりつつ、彼は男の方へと目を向ける。
見るに見事に顔立ちの整った(この世界限定)、紳士的な服装をした彫像のように美しい男(この世界限定)がそこに立っている。
そのあまりに完成された造形美(この世界限定)に、「あ、うん、息子でもいいかな」とちょっと思ってしまったのはお父さん的には内緒だ。
「初めまして、私はダテと申します。こちらのご主人様でしょうか?」
「左様、私はこの領域の主、ファデルと申す」
挨拶を返しながら「おや?」と思う。何か、とある情報がぱちりぱちりと、目の前の若い男に符合していくのを感じた。
「お父様……?」
「ん? んん? ああ……」
「ほんの数日ということですが、こちらのお方が当家に逗留なさりたいとのことです。お世話の方は、わわ私がいたしますのれ、かかまいませんでしょうか?」
微妙に後半言えてなかった。
「……そうか。客人に粗相の無いようにな」
「よいのですか! お父様!」
ぱぁっと、近年見ることもなかった華やいだ表情がお父様を打つ。
「お前が決めたことだ、私が口を挟む必要などないだろう」
父の信頼に顔を綻ばせながら恥ずかしそうに俯く娘から顔を上げ、ファデルはダテと名乗る若者にその魔王然とした堂々たる立ち姿で視線を合わせた。
「人間よ、我が館へようこそ。だが、ここは魔の城…… くれぐれも軽はずみな真似をして奈落に落ちぬようにな……」
そして、まるで外套でも羽織っているかのように背を向け、尊大な雰囲気を漂わせながらファデルは場を後にする。
「お父様……」
「ご厚意、ありがとうございます」
若者からの礼の言葉に片手を挙げて、背中越しの僅かな微笑で答える。
ファデルはそのまま、背中に二人からの視線を受けつつ、感じつつ、油断なく歩き、曲がり角を曲がって、一呼吸置き――
びしっと、背中を当てて先ほど隠れていた壁に張り付いた。
「だーーーーーー!? ダテ!? ダテだとっ!? 『せーしょくしゃ』じゃないかっ! なぁに考えてんだうちの娘っ!」
黒髪の、二目と見れぬほどに美麗な物腰の柔らかい男。聞き慣れぬ『ダテ』という珍しい名前。ルーレント教会に滞在しているという情報。そして何より、この領域に入り、領主たる自分に会い、一切の動揺を見せることないその振る舞い。
法衣を着ている着ていないは問題ではない、十中八九どころか百発百中で『聖職者』に間違いなかった。
「やややややばいぞやばいぞっ……! 噂通りであればアレは化け物だ……! あんなモンが気が触れたりしたら計画どころか私の存在自体が終了してしまうっ……!」
魔族間に流れる『聖職者』の噂は人間の間に流れるものよりも遙かに誇大なものだった。勇者との旅の間、彼の噂は魔族間千里を走り、話によれば「~~の魔将が一撃の元に心の臓を打ち抜かれた」だとか、「巨竜が肘鉄により頭部を破壊された」だとか、「籠絡を試みた魔王軍のサッキュバス部隊が全員籠絡されて帰ってきた」だとか、「魔王が彼の追撃から逃げ惑い、余裕の振りをしながら脱糞していた」等々、嘘か誠かその噂は溢れんばかり。
今、魔の側にいる者達の中で「勇者」以上に近寄ってはいけない、危険な人間ランキング第一位が『聖職者ダテ』なのである。
「こ、ここれはどうすれば……! へへへ下手なことは出来んぞ……!」
きっと、この世界にスマートフォンがあればファデルは思わずと「ダテ 逃げ方」で検索を始めていたことだろう。とにかくそれくらいに動揺していた。
「く、くぅ…… ここに現れたということは…… おそらくはシャノンが招いたことには違いあるまいが……」
なんとか気持ちを落ち着け、置いてきた二人を壁越しに見やる。
「そ、そそれではダテ様、ご、ごごご案内致します!」
「ああ、悪いな」
「いえいえ!」
お父さんの気持ちは知らず、娘、すっごい嬉しそう。緊急時のどもりっぷりは血筋なのかと少し思った。
「……なにやら親しげだな、ん? まさか……」
ふと、ファデルの頭に、昨日帰ってきたシャノンの様子が思い起こされた。ひらひらとした見慣れない服を着ていた娘――
「あれは…… 『聖職者』より贈られたものであったのか……!?」
ファデルの紅い双眸に光が宿る。それはこの危険過ぎる状況を一気に裏返し、更なる飛躍に繋がる最大の好機の可能性だった。
その可能性を考えると、比類無き美しさに育ってくれた娘に感謝せざるを得ない。
「ふふ…… ははは……! これはなんという僥倖! うまくすればヤツを出し抜くどころか、我が一族は一息に飛躍を成し遂げる!」
ファデルは体を預けていた壁を離れ、廊下を歩む。
「ことが成れば最強の『手駒』だ……! 娘には悪いがな……! ふははは……!」
そうして彼は、笑い声とともに闇の中へと溶けていった。




