45.黒き沈想の救い手
「くっ……!」
錫杖に魔力が込められ、唐突に膨れあがった力が彼女の手から柄を解き放った。
修士隊の使う錫杖は一種のマジックウェポンであり、聖なる魔力を注ぐことにより扱う者の意思を読み取り、望むままの動きを実現する。持ち手にとっては羽のように軽くなったと感じるのみだが、実際には筋力と魔力の合力の相乗効果により、倍以上となる力がそれを制御することとなる。
「おのれ……!」
男は柄の握られていた部分を見、悪態を一つ放った。僅かにへこみ、曲がっている。相対するシャノンは自らの左手を見つつ、表情を変えずに二、三と開閉していた。
確かに錫杖には急激な力がかかった。しかし、それで無理矢理と引き離されたわけではない。彼女からすれば単純に、杖に苦手とする聖なる魔力が流れたことに驚き、ついと離してしまっただけだった。
――やはり弱い。
それほどに、彼女の「種」としての力は男を遙かに凌駕していた。そして、
――腹立たしい……!
下等な「種」に、驚きを与えられたことが忌々しくあった。
「……今なら、場を去る時間を与えましょう」
「なんだと……?」
「悟れぬほど愚かですか? 力の差は歴然…… 絶望に沈む前に消えなさいと言っているのです」
わざわざ顔を合わせる必要も無い、俯いたままでわかる。
目の前の男は軽い戦慄を覚えている。生半可に強く、経験があるからこそわかるだろう圧倒的な力量の差。だが――
「何を言うか貴様!」「愚かなのは貴様だ……!」
わからない者もいる。今この場で取り囲んでいる隊の者は当初の六人に対し十数人。増員をかけたということは未経験な者が混じる可能性も高い。ならば彼女の力を察せない者もいる。
そんな彼らからの罵声に、シャノンは口の端を上げた。
――これで下がれまい。
右手の爪が尖り、完成を見せ始める。
人の社会とはかくも愚か。皆が皆、己に見合わぬプライドや使命感を持ち、時にそれが引き際をわきまえさせず、自壊へと至らせる。
「ぬ……!」
意気揚々と我も我もと錫杖に力を込めていく部下達の様に、目の前の男や、この場にいる何人かの熟練の者が苦悩を見せ始めた。
だが、おそらくは誰も撤退などは指示できないだろう。先ほどまでの主格の男とのやりとりがそれを裏付けている。横柄にて傲慢、それがこの者達の在り方。故に小娘に「挑発」されて退く姿など下の者には見せられない。
あまりにも思い通り、あまりにも頭の悪い展開にシャノンの笑みが強まる。
――さぁ、退くに退けぬ、つまらない意地に駆られたまま…… 死――
「シャノン……」
すっと、笑みが消え、淀んだ意識が透明になっていった。
背後で背中を向けて倒れていたはずのアロアが知らぬ間に仰向けになり、首をこちらに向けて弱々しく目を開けていた。
「逃げろ……」
その目は、シャノンだけを捉えていた。逃げろと言われても囲まれている。きっと、それすらもわからないほどに朦朧としているのだろう。
「アロア……」
自分はどんな顔をしていた―― 何を考えていた―― わからなかった。
「……そんな顔を、するな…… 今逃げれば…… ダテがなんとか、してくれる……」
ただアロアには、不安そうな、悲壮な表情に見えたのかもしれない。アロアは澄んだ夜の月の光のように明るく、包み込むような優しい笑みを彼女に向けていた。
知らず、一筋と理由のわからない涙が頬を伝った。
シャノンはそれを手で拭い、振り返り、主格へと顔を合わせた。
「……!」
男は彼女の変貌に驚きを禁じ得なかった。美しくも威圧的にも見えた表情は年相応の少女の顔に戻り、強く睨んでくるその目には邪気が無い。
その様は今は倒れ伏している、果敢にくってかかってきた少女にそっくりだった。
「お前は……」
男は狼狽していた。横暴であれ、横柄であれ、人の子として感じずにはいられなかった。まっすぐな瞳で睨みを利かせ、倒れた者を庇うように立ち塞がる少女。それを取り囲み、魔物すら沈黙させる武器を持って囃し立てる自らの部下達。
何かが違う、何かがおかしい。
職務に忠実であり続け、長く麻痺していた人の良心が異様な光景に呵責を生み出しつつあった。
「お前は…… なんなんだ……?」
シャノンは答えない。
今の彼女には、「友達」を守る―― それ以外の思考はなかった。
全力を持ってして、庇いきってみせよう。それ以上の思考は持たなかった。
男とシャノンの膠着状態。数秒が数分にも感じられるその間に――
「……!?」
功を焦ったのか、部下の一人が錫杖を振り上げ、少女に向けて足を踏み出す様が男の目に映った。
止めようとすべきか、それが正解なのか身じろぎも出来ないままに、こちらを見続ける少女に向け、武器が振られ――
――閃光が巻き起こり、光の柱が彼女の周りに降り注いだ。
石畳を激しく打つ炸裂音と明滅する光の連続に、男達が後ずさり、地面に転げ、棒立ちになり、目を覆う。
白煙と光が止んだ中、中心にいた少女は倒れた少女を被さるようにして守っていた。
突然の激しい魔法に皆が言葉を失い、沈黙が訪れた。
その沈黙は、天上から降り注ぐ声によって破られる。
「私の教え子ですが、何か問題でも?」
突如響いた高所からの大声に、皆が一様にそちらを向く。
白い石壁の屋上に、男が一人立っていた。シャノンが男達とは意匠の違う、その白い外套を風に煽られる姿を捉え、息を呑んだ。
「あ、あれは……」
主格の男が目を剥いた。隊の幾人か、その顔を知る者達も同様に目を見開く。
「ダテ様……!」
シャノンのその一言を皮切りに、皆に動揺が走っていく。
屋上のダテが彼女を見やり、軽く笑顔を向けた。
「いけませんねぇ皆さん、大の大人がよってたかって…… 私には到底、神に仕える者達の行為には思えませんが、ドゥモの神はそんな皆さんのことをどう思われ――」
一陣の風が吹き、外套が彼の顔面にめくれ上がった。
「ぶふっ……! ぶはっ……! 風強ぇ!」
『大将…… 変にカッコつけるからっス……』
「ええ? でも、やってみたいじゃん。そこまでだ! みたいなの……」
『いや、でもこの構図やっぱりビミョーに昭和っスよ……?』
見えない妖精との彼の一人コントに修士隊達が呆然と立ち、シャノンがダテの茶目っ気にくすりと笑った。
「ああもうっ、くそっ……!」
シャノンに笑われてちょっと恥ずかしくなったのか、ダテは勢いよく跳躍すると数回転と空中で回り、石畳に音を立てて着地した。
その異様な身体能力に絶句する周囲の男達を目で払いつつ、彼は悠然とシャノンの元へと歩む。
「よく頑張ってくれた…… すまん、遅れた」
アロアの元に座り込む彼女の頭に彼は手を乗せ、柔らかな髪を親指で優しく撫でた。
「い、いえ…… それよりも……」
「わかっている。だが…… それよりも先に……」
唐突にダテの体から紫色のオーラが立ち、腕を伝わりシャノンの体にも同色のオーラが昇った。
「ダ…… ダテ様……!?」
「危ないからな、少しもらっておく」
魔力が大きく失われる感覚がシャノンを襲い、数秒でオーラは消失した。
「ふぅ…… よく堪えたもんだ」
「これは……」
意図を計りかねる彼の行動を問いただす間もなく、彼の真剣な表情がアロアに向いていることに気づき、彼女は押し黙った。
「……まったく、無茶ばっかするやつだ。しょうがねぇな……」
ぐっと握られたダテの手から、眩しいほどの緑色の輝きが現れアロアを包んだ。乱れた呼吸を繰り返していたアロアの表情から険しさが無くなり、その体から力が抜けていく。
「ダテ様…… アロアは……?」
「心配無い、この世界なら数分で全快するさ。しばらく看ててやってくれ」
淡々とそれだけを言って立ち上がり、ダテは背を向けた。
見上げる背に頼りがいを感じつつ、何か普段とは違う彼の雰囲気に、シャノンはかける言葉を見つけられなかった。




