30.知り難き思し召し
昼食後。魔物討伐の仕事へと赴くダテを見送ったアロアは、教会東側の書庫にいた。例え暇を持て余していたとしても寄りつかない場所、その中で彼女は自らの記憶を頼りに一冊の本を探していた。
「あれ……? 無いな……」
おぼろげな記憶、そこにあったはずのその本は見当たらない。
「まぁ、結構みんな来てるもんな…… 誰か読めば場所は変わるか」
かつて読むことを断念した本、それを求めて彼女は本棚を漁っていく。
「おっ? これは……」
――『異空を操りし神人の書』
青い本がアロアの目に止まる。それはダテには読むことが出来なかった、アロアの言う二冊の魔法書の内の一冊だった。
彼女はそれを、ただ普通に棚から引き抜き中を開く。
沈黙が有り、無言のまま本は棚へと帰って行った。
「……やっぱ、こっちはダメだな。さっぱり意味がワカラン……」
相も変わらず見たこともない書体に意味不明な式が載る、一生読めない部類の本だった。
「ま、イサでも神父でもわからんらしいし、最初から無理だな……」
アロアが幼い頃の記憶として、青い本を難しい顔で睨む神父の姿がある。一ヶ月か二ヶ月か、神父は本と格闘していたようだった。その時の顔は小さなアロアにとっては怖いもので、「さっぱりわからん」と言い残し、本をここに放り込んでくれた時には随分ほっとしたことを憶えている。
「やっぱりあっちだよな…… わたしにもいけそうなのは……」
くるりと、アロアがさっきも見た本棚へと振り返る――
「……!?」
「どうしたのです?」
振り返った背後に、手を後ろで組み、穏やかに微笑むイサがいた。
「うわわわわっ! 何も! 何も悪いことは……!」
手をバタバタと前にし、身を引くアロアにイサは首を傾げた。
「珍しいですね、アロア。あなたが書庫にいるなんて」
「えっ? あ、ああ…… そうだな……」
つい反射的に慌ててしまったが、全くもって自分に否が無いことを思い出し、心を整える。
「なぁ、イサ、あの…… 魔法の本知らないか? 確か紫色のやつ」
「ああ、それならダテ様が借りていますよ。まだお返しになっていなかったのですね」
「へっ……? ダテが?」
思いもよらない話だった。魔法を教わっている相手であることもさることながら、彼は勇者とともに魔王と戦っていたという世界でトップクラスの人間であるはず。一緒にいるうちに最近後者のことは忘れがちになるが、それでもこんな田舎の教会のこんな埃っぽい所にある地味な魔法の本を読むとは到底思えなかった。
「あいつ…… すごい魔法とかいっぱい知ってるはずなのに……」
「それだけ勉強熱心だということでしょう。どんなに知っていることでも、繰り返し学んでいけば新しい発見はいくらでもあることですから」
「ふ~ん……」
やっぱりご苦労さんなやつだなと、アロアはそう思う。
「ところでアロア、どうして急にあの本を?」
「えっ……!? いや……」
――あれ? そういえば…… どうしてだろう?
ダテが仕事に出ていって、暇だなと思って気づけばここにいて、本を探していた。正直本なんて普段の祈りの時間だけでたくさんなものだ、何が書いてあろうと読む気なんておきない。どうして急に「魔法の本を読んでみよう」なんて思ってしまったのだろうか。自分のことながら、アロアには自らの行動がよくわからなかった。
知らず、頭に手を当てて首を捻っていたアロアに、イサが微笑みかけた。
「興味が湧いた、ということなのですね?」
「興味……」
イサの言葉を繰り返す。
そうかもしれない。少し面倒にも思うし練習自体退屈にも思うが、やればやるほどに、教われば教わるほどに自分がうまくなっていくことが実感できる。半ば無理矢理に始められてしまった魔法を教わる日々、今はその日々の、僅かな時間を楽しみにしていることは確かだった。
――そっか…… いつの間にか、わたしは……
魔法を学ぶことが楽しい。学ぶことのはずなのに、遊びの延長線上にあるように楽しいのだ。それは不思議な感覚で、心が心地よく波打ち、考えるほどに頬が緩んだ。その感覚は物心ついて、気付けば毎日やっていて、うまくなって楽しくなった。オルガンを弾いている時に似ていた。
「ダテ様に」
「へ?」
自らの沈想から全く繋がらないイサの言葉に、アロアはきょとんと表情を変えた。
「ですから、興味が出てしまったのでしょう? ダテ様に」
ぱちぱちと、二、三度、目をしばたかせ、発言の意味を頭で処理する。理解が進むと同時、かっと頭が熱くなった。
「な、なななっ! 何言ってんだイサ!」
「あれ? 違うのですか?」
「ち、違うも何もっ、なんでそう思うんだよ! 本読みに来ただけだぞ!」
「いえ、ですから、ダテ様が教えてくださる前に自分でいろいろ勉強しておいて、褒めていただこうと思っていたのでしょう?」
「ほ、褒めて……」
そういえば、自分には乱雑な物言いをするダテだが、なんだかんだで練習の時はよく褒めてくれるなと思った。そう思ってみると、さっきまで考えていたことが少し違ってきてしまう。
「ち、違う違う! 別に褒めてほしいから頑張ってるんじゃないぞわたしは!」
「アロアももうそういう年頃なのですね…… 私もおばあさんになるわけです」
「うぬぬ……!」
真っ赤になって否定すると、図星を突かれて焦っているように見えてしまうのが自覚出来て、尚更真っ赤になってしまう。抗議は敗色濃厚、というより敗色しかなかった。
「もうっ! なんだよもうっ! イサまでノナやみんなみたいなこと言って! 違うって言ってんだろぅ!」
もういいとばかりにアロアは書庫を出て行こうとする。
「あらあら? でも、みんなが言ってる通り、暇さえあればダテ様にひっついているのは本当のことなのでしょう?」
「そ、そりゃあな! ひっつくさ……!」
扉の前で立ち止まり、少し迷うそぶりを見せた後――
「あいつは…… 友達なんだ」
言い残してアロアは、扉を開けて静かに書庫を後にした。
「……すっかり元気になったようで、なによりです」
感慨深げに呟き、イサは後ろにまわしていた腕を解き、前に戻した。
その手には一冊の、『紫色の本』が持たれていた。
「これも、神の思し召しなのでしょうか……」
ほんの一瞬のすれ違い。ほんの気の迷いで口をついた嘘。
何かに仕組まれたような流れに想いつつ、彼女はそっと、本を棚に戻した。
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意匠を凝らした家具を配された、清潔感はあれど生活感の無い広い部屋。窓から見下ろす眼下には均整を取られて配置された木々が並ぶ庭があり、その先にはこの国で最も栄えた大通りが見える。
重厚な扉が静かに開かれ、その人物が部屋に入る。
手には白い布に包まれた百五十センチ程度の長物。もう片方の手には三十センチ四方程の大きさの木箱を持っていた。
長物を壁に掛け、その傍に木箱を慎重に置いた大柄な人物は、部屋の中程に備えられたソファにどかりと座り、前のテーブルに備えられたヒュミドールから葉巻を一本取り出した。
先端をカッターで平らにし、長いマッチで丁寧に先端を炙り、それを咥える。
濃厚な煙が鼻孔をくすぐり、上品な薫りが周囲へと舞った。
「後は…… 成すだけか……」
片眼鏡を外し、質の良いソファに身を沈ませる。
それは長く長く、時を待ち続けた体を包み込むような一時だった。
「さぁ、あと一息だ…… 全身全霊を傾けるとしよう」
男は煙の中、不敵な笑みを浮かべていた。




