18.蒼き渇望の夢
「んっ?」
キッチンの裏口にある井戸へと出て、バシャバシャと顔を洗っていたアロアは遠く東側、書庫の辺りに揺らめく光を見た。
それは気のせいかと思うほどに僅かな光で、窓のガラスにほんの少しだけ反射する程度のものだったが、今の彼女には気にかかる光だった。
「書庫だよな……? ひょっとして…… あいつか?」
一見してランプの灯ではないことはわかる。ランプの火はあんな風には揺らめかないし、何より色が違う。ちらちらと舞う、黄金色の美しい光――
「……!」
思い当たった。昨日の夜、アロアは同じ色の光を見ていた。
「クモだ……! ってことはあいつも……」
遠く、窓を見つめたまま突っ立つ。
だが、ほどなくアロアはそれに背を向けて井戸の方へと向き、まだ濡れたままだった顔を布で拭った。
「……一応偉いやつなんだし、本くらい読むよな。こんな時間に本だなんてご苦労さんなやつだ」
来る途中、洗濯カゴに放り込んだベール。代わりに持った麻布をくるくると振り回しながら、アロアは裏口の扉へと歩み出した。
「さっさと寝よう…… 明日もあれをさせられるわけだし……」
二歩、三歩、四歩―― その足が、止まった。
「み、見張るって決めたよな……! そ、そうだ! そう……! 決めたことだからな! 決めたことは…… やらんといかんな!」
盛大に自分に独り言を言い聞かせ、アロアの足が怪しい方向へと向いた。
~~
仄かな光で辺りを照らす、妖精が首を傾げた。
『合月魔法……?』
閉じられた紫の本を片手に、ダテが答える。
『ああ、この世界の空、月が二つあるだろ?』
『ええ、ありますね。大将と一緒にいると珍しくも無いんで、気にもしませんでしたけど……』
一ヶ月前、この世界に来たばかりの時から当たり前のように空に浮かんでいた双月。時を経て、月達は今や随分と距離を近いものにしている。
『あの二つの月はな、この本に書かれてある話ではどうやら二十五年に一度、完全に重なって一つに見える時が来るそうだ』
『お、おお! じゃあ、もしや今年が……!』
ぽんっと手を合わせ、期待に目を輝かせるクモ。
『前の年はわからんし、この世界の暦なんざ覚えちゃいないが、間違いなくそうなんだろうぜ。その理由が、合月魔法だ』
『なんなんスか? それ……』
『言ってしまえばそのまんまだ。合月の時、その限られた間だけ使うことが出来る魔法がある。選ばれし者、のみにな』
クモが『うぉうっ!』と目を見開いた。
『そそそ、それって……! やっぱり……!』
『色々符合しまくりだろ? これだけネタがそろってりゃ誰だってその時がクライマックスだってわかるもんさ。合月は近々…… 俺達はその魔法に関わることになるんだろうぜ』
『そりゃ決まりっスよ! それなら大将にだってわかるレベルっス!』
『……ぶっとばすぞてめぇ』
失礼な物言いに悪態一つ、ダテは紫の本を元の位置へと押し込んだ。
『あれ? それ、しまっちゃうんですか?』
『一応な…… 考えがある。今見た部分以外に見るところは薄そうな感じだったし、今はそれよりも、もう一冊の方だ』
『ん…… そういえば、二冊って言ってたっスね』
ダテは再び本棚に魔法を掛け、背表紙を見ていく。右上から左下までくまなく見ていき、一つ目の本棚が終わると別の本棚へと移る。
ぐらり―― と、ダテの視界が歪んだ。
「っ……!?」
『大将!?』
それは何度となく味わい、何度となく触れてきた、あの感覚だった。
ダテは強烈な目眩を振り切り、感覚を与えた一冊の「青い本」に魔法を集中する。
――『時空神義』
かろうじて読み取れたそれは読み取ったダテに更なる目眩を与え、同時、彼の奥底にある渇望に火を点けた。
「こ、この本は……」
「大将! どうしたんスか!?」
激しくなる目眩に顔を歪ませながらも、ダテは青い本に手を伸ばす。
「ぐっ、あ……!?」
酷い耳鳴りが起こり、思わず声を上げる。
「世界」は確実に、彼に対する警告を発していた。
「ふ、ふざけんなよ……! まだ…… 開いてもねぇだろうがっ……!」
「大将…… まさか……!」
強引に、ダテはページを開き、苦痛に負けじと魔力を集中させページを手繰る。
「ダ、ダメっス大将! それ『禁則』触れてるっしょ! それ以上は……!」
「うるせぇ……! 話し…… かけんな……!」
全身から汗が噴き出すほどの激しい目眩。抵抗を止めれば治まり、抗うほどに苦痛となる。度を超せば、「仕事」は終わる。限界を探るようにして全神経を指先へと向け、脳を焼き切るように瞳がページをなぞる。
――宗 曰く、異世界へ 渡航と 還は、術式を に きこみ
彼の意地はそこまでだった。
支えるものも何もなく、無防備に崩れ、音を立てて床へと倒れ込んだ。
「た、大将!」
薄れていく意識の中、伊達は小さく「畜生」と一言嘆いた。
~~
ぼんやりと眺める黒板に、スーツ姿の大人が文字や図形を書いていた。
文字を読むことも何が書いてあるのかもわからない。だが、なぜか彼にはそれが数学だということはわかる。
場面が転換した。
手元には木刀。四角く狭い部屋に、恐怖を抱えながら立つ小さな自分がいた。
再びの転換―― 見慣れた鉄格子。
一切れのパンを手に、場所にそぐわない期待に胸が膨らみ、高鳴る。
転換―― 奮う暴力、尋常を超えた高揚。怖れる愚者達、堪えきれない絶笑――
ふと気付けばあの時の、ただ蒼い、眩く蒼いあの空間――
そこに佇む人に、彼は手を伸ばす――
「……ル…… ア……」
「大将!」
伊達は微睡む意識の中に、聞き覚えのある声を聞いた。
――ああ、そうか…… 夢か……
たった一滴、たった一滴だけ、長く忘れていた涙が頬を伝っていることを感じた。
そして暖かく、包み込むような光。
伊達は目を開く。
「ダテ……!」
そこには手をかざす、緑白色の髪をした少女の顔があった。必死に魔法を送る悲壮なその顔が、伊達の夢に被り、彼は緩やかにその頬へと手を伸ばした。
「出来るじゃないか…… 合格だ」
その声は自分でも、誰なのかわからないくらいに穏やかだった。




