11.巣立ちの予兆
愕然と、シュンが凍り付く。
「ガラの…… 書……」
フェンスに右手を掛け、体を支えるレラオン。
その左手には、リイクの手にあったはずのガラの書が握られている。
「……あまりに一瞬の出来事に、守り…… きれなかった。すまない……」
出会ってからこれまで、聞いたことが無い力んだ声だった。まだ覚めない悪夢に、シュンは思考を動かせなくなる。
シオンの手がリイクの腹部を離れ、シュンへとその光を向けた。
「一、二、三、四――」
「シオン……?」
温かな回復の光を受けながら、シュンは呆けた表情で彼女を見る。
「九、十…… 今のあいつ相手ならそれで充分でしょ、行きなさい」
シオンの手は、もうリイクに戻っていた。
意図を理解したシュンへと、ユアナが声をかける。
「シュン、私も行くわ、取り返しましょう!」
「……! ああ!」
友人達に背中を押され、シュンは駆け出した。
覚めない悪夢を振り払う、その旅の、入り口へと――
走り出す二人を高く校舎の上、見下ろす目がある。
「さてと、今回は長くなりそうだな……」
青い帽子のつばを引き、目深に被った男が、床に落ちていた物を手に取る。
「頑張れよ、城野村君」
シャコシャコと、屋上に鉄ベラの音が響いていた――
――翌日。
廊下を歩むシュンは、後ろから袖口を引かれて立ち止まった。
振り返る前からわかっていた。こんな気恥ずかしい呼び止め方をする知り合いは一人しかいない。
「ユアナ……」
何度かやめてくれと言った覚えもあるが、そういう癖で育ってしまったのか、その行動は今だに続いていた。
「シュン、校長室?」
「あ、ああ…… ひょっとして…… ユアナもか?」
「うん……」
午前の授業中、シュンは突然に呼び出しを受け、校長室へと向かっていた。その道すがらに現れたユアナ。元々察せていた用件は、完全に固まった。
「……昨日のこと、だよね」
「そうだろうな……」
「何を言われるんだろう……」
「あまりいいことじゃ、ないだろうな……」
気を重くしている友人に対し、こんな返し方しか出来ない自分が情けなくなる。だが、楽観できないだろうことを無理に覆そうとできるほど、シュンは器用ではなかった。
こういう時、彼はリイクの頭の柔らかさが羨ましくなる。
上履きをぺたぺたと、二人は授業に静まる廊下を歩み、階段を降りていく。
一階の踊り場に差し掛かり、彼は昨日のことを思い出した。
「ここで…… 別れたんだ」
呟いた彼に、ユアナが不思議そうに顔を向ける。
「……戦えって言ってくれた、用務員さん」
「ああ、そっか…… ここなんだね……」
騒ぎの後、生徒達は駆けつけた国の軍部の者達の手により、家や寮へと送られた。何も話せないままに別れた友人達へと、シュンはその日の夜に、ガラの書を手にするまでの経緯を伝えておいた。
気落ちしていた様子のリイクに連絡を入れるかは迷ったが、彼からは直々にシュンに連絡があった。自ら行動してくれたことは、シュンにとっての救いだった。
「どこに行っちゃったんだろう、っていうか、何者だったんだろう……」
「わからないの?」
「ああ、朝に聞いたんだけど、そんな人はいないって言われた」
シュンは通い出して一年、今更ながらにこの学校の用務員の服装というものを知った。確かに形も色も似ていた。だが、今朝見た本物の用務員のおじさん達の作業服は、もっと薄い青だった。
「忍び込んでいたってことなの?」
「そう…… なんだと思う。普通の用務員さんがガラの書の在処なんて、知ってるとは思えないしな……」
朝に聞いた話によると、この場所には二人の過激派と、曲がったバールが一本転がっていたという。鉄の棒が曲がっていたというのは怖かったが、昨日の用務員のバイオレンスな屋上の一件を思いだし、不謹慎にも彼らしいと笑いがこみあげた。
「……いい人だったんだね?」
「え?」
「昨日のことを話す中で、用務員さんのことを話している時だけは、なんだか楽しそうだったよ?」
「そ、そうかな……?」
自覚はなかった。でも、妙に鋭い所のあるユアナが言うなら、そうなのかもしれない。シュンはそう思った。
自分とはまるで違う、芯があり、軽さのある大人。自分はそういうスタイルの大人になりたいのかなと、根が生真面目なシュンは少し考えた。
一階廊下の隅、校長室の重苦しい木製ドアを叩く。
「城野村です、入ります」
『おお、入りなさい』
中からの返事に、シュンは遠慮がちにドアを開いていく。校内では珍しい絨毯敷きの手狭な部屋の奥、デスクに座る校長と目が合った。
立ち上がった校長に促され、シュンはユアナを連れ立ち、応接テーブルのソファに体を沈み込ませる。二人の着席を確認し、校長が対面に座った。
「昨日は大変だったね、キノムラ君。体に問題は無いかい?」
叱責の可能性を頭にしていたシュンは、温和な様子の校長に若干拍子抜けするように「大丈夫です」と答えた。
「君も、ガラの書に触れてしまったわけだが……」
「はい、私も大丈夫です」
校長に首を向けられ、ユアナが恐縮しながら頷いた。
「ならばよかった…… 何せ頭に直接情報を流し込むという本だ。何か不調は起こらないかと心配していたのだよ」
校長室のドアにノックが響き、見知った教員が紅茶を三つ、テーブルの上に置いて辞去していった。生徒相手とは思えない気遣いに、シュン達は紅茶と校長へと視線を惑わせる。
「長くなりそうだからね、頼んでおいた。あまり固くならずにお上がりなさい」
「は、はい……」
シュンはユアナが逡巡する様子を見やり、率先して一口だけ飲んだ。彼に続き、ユアナと校長がカップに手をかける。
「あの…… それで、俺…… 僕達がここに呼ばれたのは……?」
校長がカップをソーサーに戻すタイミングを見計らい、シュンは声を掛けた。部屋の壁面を埋める分厚い本の入った書棚や、トロフィーや書状が並ぶガラスケースが居心地の悪さを助長する。
「うむ…… 君達には、話しておかなければならんことがあってな…… 君達も、私に聞きたいことはあるだろう?」
たしかに、聞きたいことは多くあった。突然に現れた過激派、わけもわからないままに触れてしまったガラの書。何かに絡め取られるように巻き込まれたが、何事だったのかさえも知らされていない。
口をつぐむ二人を見やり、校長は幾分と神妙な面持ちで切り出す。
「私の知ることは全て話しておこう。真魔法と書について、あの男について…… 君達は知っておかねばならない」
「あ、あの!」
校長の声色に意識を固くするシュンの隣、ユアナが声を上げた。
「それって…… 知らなければダメですか?」
「ユアナ……?」
眉を上げ、シュンは彼女を振り向く。彼女にしては珍しい、押しの強さがある声だった。
「本に触れてしまったことなら謝ります。でも、昨日の人のこととか、どうして本を奪いにきたのかとか…… 本当に私達が知らなきゃいけないことなんですか?」
見た目も性格も、ふわふわとやわらかそうな印象を受けるユアナ。そんな彼女の切迫したような物言いに、シュンは戸惑い、言葉を忘れた。
「残念だが、話しておかなくては…… いや、聞いておいた方がいい」
だがこの時、すでに彼女は予見していたのだろうと、後にシュンは思う――
「ガラの書がレラオンの手に渡ってしまった以上。君達以外に、彼と戦える者は世界にいないのだから」
これから託される、理不尽な過酷を――




