カリプソの島【探偵は嗤わない、第二話】
探偵は嗤わない、第二話となります。
エピソードとしては独立していますが、前のエピソードにも言及する場面がありますので、第一話からお読みいただくことをお勧めいたします。
今回はクトゥルフ成分はほぼ皆無。のんびりほんわかしています。
車と空調が立てる都市の騒音、排ガスと人いきれで灰色に霞んだ大気。
人と機械が吐き出す薄汚れたものを凝縮した街の中心。そこからそれほど遠くない探偵事務所に、今日も俺と詠子君は詰めていた。
前回の事件から少しだけ時間が立ち、暗褐色の記憶を、彩度の低い日常で塗り込めんと苦闘していた我々に、新しい依頼が舞い込んだ。
美人作家の休暇の付き添い。一言で言ってしまえばそれだけで、正直、探偵事務所に頼むような仕事ではないように思われた。しかしその美人作家の担当編集者と所長が懇意らしく、その怪しげ、かつ不透明なコネクションから持ち込まれた依頼らしかった。作家の気まぐれに付き合う、奇特な人材を探しあぐねた担当編集者と、奇妙な事件に遭遇して、気を落としている探偵を抱える所長。その二人の利害が一致した、ということらしい。
要は、手軽な依頼があるから休暇を兼ねて行って来い、ということのようだ。
依頼の内容はともかく、仕事とあれば俺に断る理由はない。ただの休暇の付き添いとはいえ、現地でのトラブルが無いよう、俺と詠子君は情報収集も含め、担当編集者と打ち合わせることにした。
俺、こと犬塚猟一と助手の有羽詠子は、新宿に居を構える探偵事務所の所員だ。事務所は所員数十名を抱える大所帯で、所長の顔の広さもあってか、実に様々な依頼が舞い込む。今回のような依頼も、その依頼の一つ、だった。
「さて、何からお話ししましょうか」
応接室のソファーに腰かけた依頼人の担当編集者が口を開く。テーブルには詠子君の入れたダージリンティーがほのかな香気を放っている。あくまでも彼女は探偵助手で、事務員ではないのだが、元々がカフェの店員だったという事もあり、茶を淹れるのはお手の物だ。
「作家の先生の人となり、好み、具体的な依頼の仕様、行き先、日程……そのあたりでしょうか」
俺は依頼人の担当編集者と相対しながら、彼をそれとなく観察する。年齢は三十代前半。短く切り揃えた髪に銀縁のメガネ。編集者という職業の一般的な人物像についてはよくわからないが、どちらかと言えば銀行員か、やり手の公務員のように見える。笑顔ではあるが、件の作家の気まぐれに手を焼いているような様子もうかがえる。
「ええ、そうですね。まず先生の名前ですが、藤 恵と申します。これはペンネームですが」
若くして中々の売れっ子作家だと聞いている。本を読まない、というわけではなかったが、俺にはまったく聞き覚えがなかった。
「あ、読んだことがあるかもしれません。幻想的な作品を書かれる方……だったかな?」
俺の隣で話を聞いていた詠子君が口を挟む。少し前、依頼人から話を聞くときに、取り調べのようで怖い、と言われたことがあった。それ以降、依頼人と話をするときは、常に彼女を同席させるようにしている。
「その通りです。ファンタジー、といっても、剣と魔法の世界とは少し違いますが、そういった作風ですね」
「それで、どんな方なんですか?」
俺が横道に逸れそうになる話題を戻すと、依頼人はぽつぽつと語り始めた。
「……私は彼女が新人のころから担当編集者を務めているのですが、なんというか、不思議な人でして。年齢の割に、いやに落ち着いているというか、とらえどころのない、そんな人です。私がこんなことを言うのも妙ですが」
作家など、皆そんなもの、というのは偏見だろうか。
「それで、その彼女が少し羽を伸ばしたい。一人は嫌なので道連れがほしい、と。でも友達はいないし、社の関係者や作品のファンは仕事を思い出すからダメだ、とも」
それだけの我儘を言えるのは、彼女の人柄ゆえか、作家としての実力ゆえか。しかし休暇に見知らぬ人を招くとは、中々に変わった人物のようだ。
「お話は分かりました。御苦労も、お察しします」
「ありがとうございます。行き先はここから南。神奈川県の三浦半島です。彼女はそこに小さな別荘を持っておりまして、みなさんをお招きしたい、と。日程は一泊二日」
俺と詠子君の出身も、実はその辺りである。かつては東京に近い海として、観光地となっていた。現在は高速道路や新幹線の発達もあって、観光客は別の場所に移っている。横須賀や鎌倉など一部を除けば、比較的静かな海辺の街である。
「海辺の別荘とは優雅ですね。失礼ですが、先生のお年は?」
「確か、二十九になるはずです」
作家と言っても収入は様々。三十手前で別荘を持てるというのは、実家が裕福なのか、相当の売れっ子なのか。雇われ探偵には想像のできない世界だ。
「車はこちらでお出ししますが、現地までの運転も、お願いしたいと思います。それとこれは……半分口実のようなものなのですが」
依頼人は紅茶を一口飲んで姿勢を正す。
「彼女には熱烈なファンが多くて……中にはストーカーまがいの輩もおります。それほど危険はないと思いますが、念のため身辺にも気を配っていただきたいと思います」
「承知しました」
そこまで話し終えると、依頼人はその表情を緩め、深く息をついた。一つ肩の荷が下りた、といった様子だ。我々よりもずっと堅苦しい世界に生きているのだろう。御苦労なことだ。
「では、お支払いや当日の集合時間などの話をいたしましょう」
詠子君が場を引き継ぐ。海辺の別荘で変わり者の作家と二日を過ごす。こんな牧歌的な依頼は初めてかもしれない、と、ソファーに身を沈めながら、俺は思っていた。
◇
眠りと覚醒のはざま。夢とうつつのわずかな隙間。
穏やかな暗闇から意識が浮き上がり、私は目を覚ましました。
甘やかにまとわりつく夢の残滓に浸りながら、私が目にしたのは、馴染みのない天井でありました。木でできた粗末な天井。湿った植物の匂い。遠く聞こえる潮騒は、ここが海辺であることを告げています。
五感が捉える情報は徐々に明瞭さを増し、すでにここが、眠りの中ではないことを伝えています。ただ、それは目下重要な事柄ではなく。
私は、なぜここにいるのでしょうか。
私は混乱しながら、柔らかな腹筋を運動させて起き上ります。
頭を抱えながら私は考えます。記憶をなくすほど痛飲するような習慣はありませんし、だとしても目を覚ます場所としては、多摩あたりの駅前などが適当でしょう。とりあえず、自分が有羽詠子だということは分かります。しかし何故私はここにいるのでありましょうか。
記憶を手繰り寄せるも、三日ぐらい前から、記憶が紅茶に入れたミルクのようにぼんやりと散逸していきます。何やら頭痛もしてきました。
事故に遭ったか、何やら深刻なトラウマでも負って病院に担ぎ込まれたか。
とりあえずベッドから降りてみます。板敷の床。素足にしんなりと木の感触が伝わります。ベッドや壁も、飾り気のない木製です。ほかに目立つ調度と言えば、ベッドわきの机と、クローゼットぐらいでしょうか、シンプルな作りの、六畳ぐらいの洋室です。
自分の身体を見下ろしてみますと、寝間着です。病院着のようには見えません。とりあえず、朝の、今が朝なのかはわかりませんが、朝の空気を吸おうと、部屋に一つだけある窓を開放します。
起きたときに嗅いだ、湿った植物の匂いを含む、生暖かい空気が肌を撫ぜます。わずかな潮の匂い。やはり海が近いようです。窓の外に広がるのは、名前も知らない木々です。ここは林の中のコテージでしょうか。植物の分類に疎い私は、それが針葉樹でない、という事ぐらいしかわかりません。南国の植物だろうか、という予測を立ててみても、それは気温から推測したことなので、何の役にも立ちません。
それにしても、ここはどこでしょう?
そういえば、犬塚さんはどうしているでしょうか。いえ、記憶がないので、犬塚さんと一緒にいたという根拠は何もないのですが、なんだか近くにいるような気がするのです。想いゆえでしょうか。
私は窓とは反対方向に取り付けられているドアまでぽくぽくと歩いてゆき、ノブを回して慎重に開け、中を覗き込みました。
ドアの向こうは、やや広い空間になっておりました。間取りで言うならば、リビングダイニングキッチン、といったところでしょうか。大きめのダイニングテーブル。現代的とは言えないまでも小奇麗な台所。大きな窓から差し込む光はやはり朝日のようで、清浄な空気と、ほのかなコーヒーの香りが漂います。危険はないようです。
「おはよう。目を覚ましたのね」
犬塚さんではない声に多少驚きはしましたが、私はつとめて冷静に声の主を見返します。
ぼんやりと散逸していた記憶の一部が焦点を結びます。たしか私達はこの人の付き添いで、三浦半島へ来ていたのでした。名前は、藤さんといったはずです。
「ああ、藤さん。おはようございます。すみません。ちょっと寝ぼけてるみたいで……」
「いえ、たぶん寝ぼけてなんかいないわよ」
彼女はカップのコーヒーを飲みながら、深い知性を湛えた瞳でこちらを見遣ります。
「はい?」
「ここがどこだかわからない、というのは、私も同じ」
いまだ混乱冷めやらぬ私は、彼女の対面に腰を下ろします。ここがどこだか、私にも、藤さんにもわからない。犬塚さんが、知らぬ間に二人を海辺の小屋に拉致した? あり得ません。
「それは、困りました」
彼女は私の分のコーヒーを淹れてテーブルに置いてくれました。紅茶派の私ですが、気持ちを落ち着けるために一口、濃い琥珀の液体を胃の腑に流し込みます。淹れたてのコーヒーが放つ強い香気は、起き抜けの頭を冴えさせはしましたが、私の記憶を覆う靄は依然として、その濃度を保ったままです。
思考を放棄してしばしぼんやりしていると、部屋にあるドアの一つが開き、犬塚さんが入ってきました。彼もまたラフな寝間着姿です。貴重です。
「おはよう。犬塚さん」
藤さんが私の時と同様に声をかけます。
「……ここはどこだ?」
彼もまたこの妙な状況に気づいているようです。注意深く室内を観察し、窓の外の景色に目を凝らしています。
「それを今から話し合おうと思っているところ。大丈夫、一日はまだ始まったばかりよ。たぶんね」
◇
午前十時。我々は品川区にあるマンションに、件の作家を迎えに行った。編集者から貸し出された車は高級車というわけではないが、我々の事務所で使っている古い軽自動車よりも、ずいぶん良い乗り心地だ。俺と詠子君は車から降り、マンションの入り口から出てくる件の作家を出迎える。
「あなた達が、付き添いで来てくれる方? 初めまして、藤です」
ゆるくウェーブした黒髪をなびかせた、長身の女性が、入り口から出てきた。前評判通りの、整った顔立ち。眼鏡の奥の黒い瞳は、深遠なる知性を感じさせる。その容姿、仕草、服装すべてに、行き届いた清潔さと透明感が満ちている。しかし同時に俺はほんのわずか、彼女の持つどこか孤独で、不安定な雰囲気を感じ取った。
「今回ご同行させていただく、犬塚と有羽です」
我々が頭を下げると、女史は上品にほほ笑んだ。
「ああ、そんなにかしこまらないで。今回は休暇なんですから。お友達みたいに接してもらうわけには、いきませんか?」
そういったリクエストは珍しいことではない。俺個人としては、ある程度かしこまっていた方がむしろ楽なのだが、要望とあれば仕方がない。
「わかりましたー。よろしくおねがいします」
くだけた対応は、詠子君の方が得意だ。今回は彼女にも頑張ってもらうことにしよう。
我々は車に乗り込み、一路南下。神奈川県の三浦半島へ向かう。
京浜工業地帯を左に見ながら、車は九月の首都高を走る。夏の終わり。地表を覆う熱気は徐々にその勢力を弱め、空を覆う蒼は日々その高さを増す季節。本日は天候にも恵まれ、ドライブには実にいい日和である。平日のためか交通量も少なく、車は快適な速度で目的地に向かう。昼前には到着するだろう。
ハンドルを握る俺の横には藤女史が座り、後部座席では詠子君がおやつの袋を広げている。
「こうやって人を招くのは、結構頻繁に?」
「うん、月に一度、あるかないか、かな。一人だと寂しいんだけど、私、友達がいないから」
後部座席の詠子君が差し出した菓子をぽりぽりかじりながら、会話するともなく会話する。
「確かに作家っていう職業は、人とのかかわりが少なくなりそうですから」
「そうねえ。それもあるけど。……ねぇ、もうちょっと口調、砕けてもいいのよ?」
「……オイッス」
後部座席で詠子君が噴き出した。
人と関わることが少ない職業。それはいい。だが、作家同士の繋がりも、無いものなのだろうか。あるいは、学生時代の交友関係は? 他人の交友関係を詮索するほど無粋な人間ではないが、彼女の交友関係の狭さは、彼女が持つ独特の雰囲気と、少し関係があるのかもしれない。そう思った。
「作品について聞いてもいいですか? 読んだことがある気がするんですけど、思い出せなくて」
詠子君が後部座席から身を乗り出す。すっかりピクニック気分である。
「よく書いてるのはファンタジーかな。いろんな人が、夢の中とか、不思議な世界で旅をしたり、日常に不思議なことが起こったり。犬塚さんには、縁が薄そうだけど」
事実その通りなので、苦笑するほかない。少し切り口を変えて質問してみる。
「テーマは?」
「テーマは、ね」
少し、彼女の雰囲気が変わったような気がした。何か琴線に触れたのだろうか。
「魂…。魂の、翻訳」
「魂の翻訳?」
思わず聞き返す。やや表現が文学的に過ぎて、意味を掴めない。彼女自身も、言葉で伝えるのに苦労しているようだ。
「人の魂は、物語を持っているの。私はそれをそのまま写し取りたい。そして人に読んでほしい。そう思って、物語を書いてるの。自分の心を表現する、って言うと、なんだか陳腐に聞こえるけど」
言い終わると、彼女は視線を俺から逸らす。横目で見た彼女の表情は、かすかな憂いに沈んでいるように見えた。前方に視線を戻し、高速をから一般道へ降りる料金所を通過する。
何かを伝えるために本を書く。動機としては一般的なものだろう。彼女の場合は、それが自分の心。いや、おそらくはもっと深いものなのだ。それを彼女は魂と表現した。
自分の魂を翻訳したもの。それを読んで、理解してもらいたい。自然で、しかし途方もない欲求。人々が別個の人格を持っている以上、実現することの困難な願い。彼女の魂に触れられる人間は、今までほとんどいなかったのだろうか。
知らない人間を休暇に招くぐらいだ。きっと彼女は人間が好きなのだろう。それでも理解してもらえない。その苦しさを原動力に、また本を書く。彼女の執筆生活についてのこの想像は、やや飛躍しすぎだろうか。
理解されない、という苦しさについては、俺にも経験がないではない。刑事時代に罷り通らなかった正義。あの廃墟で経験した狂気と恐怖。
だから俺には、彼女の抱える苦悩、彼女の纏う孤独。その原因の一片に、少しだけ共感できるような気がするのだ。
「魂、ですか……」
詠子君にも、思うところがあるのだろう。人は皆孤独を抱え、しかし互いに理解しあえないでいる。なんだかすっかり暗い考えになってしまった。やはり俺にも、休暇が必要なのだろうか。
その後も互いの身の上話などするうちに、品川を出立してから一時間以上経過していた。車窓の景色も、濃い緑がその面積を増し、海の気配が濃くなる。
「そういえば、お昼は何処で食べましょうか?」
詠子君がまたぴょこんと後部座席から顔を出す。
「そうね。せっかくだから、海の近くのカフェで摂りましょう。ついでに買い出しもして。夜はカレー。これは決定事項です」
車が海岸線に出る。夏の終わりを惜しむように、トンビが九月の空を舞っていた。
◇
「さて、どうしましょうか」
なぜかキッチンに積んであった南国フルーツの皮を剥きながら、私は誰に尋ねるともなく尋ねます。目下の行動指針としては、ここがどこなのか知ることと、帰り道を探すことでありましょうか。記憶はきっとそのうち戻るでしょう。どうもその辺り、気候と同じく楽観的になっているようです。
「我々は三浦半島に来ていたはずだが、その後の記憶がどうもハッキリしない」
犬塚さんはオレンジらしきものを、手を汚さず器用に食べています。
「食事が済んだら着替えてその辺りを散歩してみましょうか。ここがどこなのかわかるかも」
藤さんはおそらく二杯目であろうコーヒーを飲んでいます。普段冷静な犬塚さんはともかく、彼女もやけに落ち着いています。起きたら知らない場所にいる、というのは、作家の日常としてはよくあることなのでしょうか。
トロピカルな朝食を終えた我々は、一通りの身づくろいを済ませて再びリビングに集合します。いざ探検、と意気込む私は、ふと、壁に一枚のメモが、ピンで留まっているのを見つけました。
ピンを外し、メモを手に取ります。掌ほどの大きさのそれは、どうやら地図のようでした。
卵を横にしたような楕円が、メモ一杯に描かれています。この周辺地域を表しているのでしょうか。横倒しの卵中央上あたりに家のマークが描かれており、上には浜辺、右には洞窟、下には花畑、左には森の中の泉、と丸っこい字で書かれています。
ふと、違和感が頭をかすめます。既視感のような、思い出すべきものを思い出せないような、もやもやとした不快感です。
「どうした、行かないのか?」
犬塚さんに急かされたので、私はメモをポケットにしまってドアの外に出ました。
外に出ると、そこは陽光が燦々と降り注ぐ小さな砂地の広場でした。生暖かい風が肌を撫ぜ、夏の雨上がりのような匂いが地表から立ち上ってきます。
私は後方を振り返ります。私達がいた建物は、簡素な木造の小屋でした。周囲に同様の建物はなく、広場を取り囲むように、南国風の植物がこれでもかと茂っております。足元の砂の粒子は細かく、太陽の光がそのまま結晶化したような薄い黄金色です。
再び小屋の前方向に目をやると、木々の間に小道が続いており、その五十メートルほど先に、陽光を反射した海が煌めいています。海だ。海を見ると興奮するのは若さゆえでしょうか。
キョロキョロしている私をしり目に、犬塚さんと藤さんは先に行ってしまいました。私もさくさくと砂を踏みつつ、後を追います。
木々の作るトンネルを歩くことしばし、私達は海岸にたどり着きました。潮の香りはいよいよ濃く、黄金色の砂浜は緩やかに海中へと没しています。見上げる空には一片の雲もなく、遠く水平線だけが、空の蒼と海の碧を分けています。
「はぁー……」
その美しい景色に、しばし私は息を呑みました。ここには海だけがあります。私たち以外に人はおらず、ただ茫漠とした青が世界を支配していました。
もう一度、水平線に目を凝らします。島も半島も見えません。もしここが、我々のおぼろげな記憶通りの所在地であったならば、それはおかしいのです。絶海の孤島、という言葉が頭をよぎります。
「どうも、島のようだな。半島なんかではなく」
私と同じく水平線を観察していた犬塚さんが意見を述べます。
「たぶん、途中で津波か何かにさらわれちゃってさ」
藤さんが砂浜に座り込んで、手でざぶーんと津波のジェスチャーをしています。
「太平洋沖の島まで、奇跡的に流れ着いたんだ、きっと」
荒唐無稽な想像ですが、なんだかロマンチックです。もし助けが来なければ、私達はここで、新世界のアダムとイブとイブになったりするのでしょうか。
「ここから右に行くと、洞窟がある、とこのメモには書いてあります」
私はポケットから地図を取り出して再び眺めます。違和感が再び頭をもたげます。じっと地図を見るうち、その違和感の正体が、記憶を覆う靄からゆっくりと姿を現します。
なぜ気づかなかったのでしょう。これは私が描いた地図です。
「詠子君、どうかしたか?」
筆跡、筆圧、何度見ても私のものです。当然、この場所の地図を描いた記憶はありません。ここに来たのも初めてのはずなのに、どうして地図を描くことができるでしょうか。
「いえ、なんでも」
不気味な感覚に、胸がきゅう、となります。記憶はいまだ戻らず、地図を描いたことを思い出そうとしても、濡れた海藻が頭に張り付いたような不快感を覚えるだけです。
あるいは、この地図に描かれた場所に、何か手がかりがあるのやもしれません。そんな予感がして、私は犬塚さん達と一緒に、地図にある洞窟へと向かうことにしました。
◇
我々は予定通り、目的地にほど近い海辺のカフェで昼食を摂ることにした。眼前には海が広がり、九月の陽光を攻撃的なまでに反射している。遠くトンビの鳴き声を聞きながら、我々はカフェのテラス、パラソルの下で、運ばれてきた食事を口に運ぶ。
「ところでお二人は恋人同士?」
不意打ち気味の質問。無論からかっているだけなのだろうが、詠子君は妙に動揺している。俺としては、苦笑いするほかない。
「い、犬塚さんは私の尊敬する先輩です」
詠子君は、運ばれてきたロコモコをもりもりと口に運ぶ。
藤女史はにこにことその様子を見つめた後、今度は俺に矛先を向けてきた。
「犬塚さんは、昔刑事をやっていたと言っていたけれど」
「ああ」
「どうして辞めてしまったの?」
そういえば、詠子君にもあまり話したことは無かったか。質問する藤女史の口調はあくまでも穏やかで、下品な好奇心や、詰問のトーンはうかがえない。
「あまり愉快な話ではないけどな」
と前おいて、退職の経緯を簡潔に話す。
「上司の不正があって、組織ぐるみの隠ぺいがあった。俺の告発も、闇から闇へと葬られてね」
記憶は過去へ飛ぶ。当時感じた諦めも絶望も今は遠いもの。忘れたわけではないが、思い出したからと言って、いまさら感情が波立つものではない。
「不正自体はさして大きいものじゃないし、珍しいことでもない。でも十年、二十年と努めていくうちに、俺もそういう連中と同じになるのかと思うと、どうしてもその場所にはいられなかった」
紅茶を一口飲んで、ちらり詠子君を見遣る。興味深げにこちらを見つめる彼女の口元には、ロコモコのソースが付着していた。指摘すると、彼女は恥ずかしそうにそれをナプキンで拭う。
「おかげで今は貧乏な雇われ探偵だ。その分、気は楽だが」
女史は終始穏やかな笑みでこちらの話を聞いていた。ひとしきり聞いて満足したのか、今度は詠子君に水を向ける。
「詠子ちゃんは? どうして探偵になったの?」
「私は……」
詠子君はすこし恥じるように口ごもる。藤女史の率直な聞き方に、少し気圧されているようにも見える。
「私は、何か特別な理由があって探偵になったわけじゃないんです」
女史はにこにこしながら続きを促す。
「でも、前職のカフェ店員とは違って、探偵は一つ一つの依頼に、すごく責任が伴うんです。中には、依頼人の人生が掛かっているようなものも」
行方不明になった人を探してほしい、恋人の素行を調査してほしい。我々の前に訪れる依頼人は、いつも切実な事情を抱えている。詠子君が探偵になりたての頃は、そんな依頼人の前に立つだけで、緊張した様子になっていたのを思い出す。
「だから私は、そんな人達の依頼を、想いを背負えるような、一人前の探偵になりたいんです」
質問の答えにはなっていないが、それが詠子君の偽らざる本音なのだろう。突然喫茶店を辞めて探偵になった理由を、もうすこし突っ込んで訊いてみたい気持ちもあったが、それはまた今度にするとしよう。
「立派だと思う。作家の仕事とはまた違った大変さがあるわね」
依頼人の前で半人前宣言をしてしまった失態はともかく、女史は詠子君の回答に満足したようだ。椅子の背にもたれて、両手でコーヒーの入ったカップを包んでいる。潮騒を聞きながら、ゆっくりと時間が流れる。なるほど、休暇とはこういうものか。
昼過ぎまでカフェでのんびりした後は、近場のスーパーへ買い出しに出かける。自動ドアをくぐると、過剰に冷やされた店内に色とりどりの食材。近郊で採れた野菜や地元の漁港で採れた魚介も扱っているようだ。スポンサーの意向で、夕飯はカレーを作るそうだから、そのための材料を買い込む。それと菓子類、少量の酒。詠子君は花火を物欲しそうに眺めていたが、いまさらそういう年でも無いだろう。
俺は一人暮らしが長いので、カレーくらいは難なく作れるが、ほかの二人の料理の腕前は、果たして。
そんなことを考えながらスーパーを後にする。時計は午後二時を回っていた。
◇
さくさくと海岸線を歩いていくと、ほんの十分程度で洞窟らしき場所が見えました。メモの地図が正確なのかどうかは分かりませんが、縮尺に照らし合わせると、一時間ぐらいで一周できてしまう、小さな島のようです。砂浜は途中で途切れ、そこから先はごつごつとした岩場になっています。しかし本来磯によくいる蟹やフナムシといった生物の気配はなく、それどころか岩にこびりつく海藻さえ見当たりません。つまり、生物の痕跡がないのです。ただ清浄な潮気だけが、温かい風と共に吹いています。
そんな砂浜と岩場との境目付近、人一人が通れるくらいの洞穴が、ひっそりと口を開けているのが見て取れました。
私は再び、描いた覚えのない不気味な地図を取り出して眺めます。犬塚さんと藤さんも、横からそれを覗きこみます。おそらく地図に描いてある洞窟は、この目の前にある洞窟の事なのでしょう。そしてわざわざ地図に描いたからには、何か意味があるに違いありません。
「入ってみるか?」
と犬塚さんが切り出します。藤さんはあまり乗り気でないようです。地図の件もありましたので、私は探索に名乗りを上げました。転ばぬように岩場を渡りつつ、所持品のペンライトを口にくわえて洞窟の前に立ちます。
洞窟の幅はそれほど大きいものではありませんが、かなり深いようで、奥は見えません。外の光は洞窟の入り口あたりで急速にその勢力を失い、それより奥には静寂なる闇が満ちています。
ほんの少し前に、あの廃墟で味わった闇への恐怖が再び頭をもたげます。頼りないペンライトの光は、洞窟内の闇を照らすにはあまりに儚く、あるかなしかの好奇心は、己が内の不安を払うにはあまりにか細いものでした。それでも、何らかの強い予感を支えに、私は洞窟内へと足を踏み入れました。ひんやりとした空気が肌に触れます。
「……深い」
試みに出してみた声も、深遠なる闇に吸い込まれていきます。一体どこまで続いているのでしょうか。足元は意外にも平坦で、注意深く進めば転倒するようなこともないでしょう、頭上もある程度高さに余裕があり、しゃがんだり四つん這いになったりしなくとも、普通に歩いていくことが出来そうです。
私は口に咥えていたペンライトを左手に持ち替えて、洞窟を注意深く進みます。生き物の気配も風の音もしません。自分の心音さえ聞こえてきそうな静寂の中、洞窟はさらに奥へと続いていきます。
二十メートルほども進んだでしょうか。分岐も曲がり角もなく、ただ真っ直ぐと洞窟は続いています。ふと振り返ると、入り口の光ははるか遠く、小さく見えます。私はふと不安に襲われます。そろそろ引き返した方が良いのではないでしょうか。もしこのまま奥に進めば、何か取り返しのつかない領域に足を踏み入れてしまいそうな気がします。
肌に感じる冷気、鼓膜を突く静寂。心中に芽生えた不安が、引き返せと本能に訴えかけます。しかし同時に、行かなければならない、この先にあるものを、確かめなければならないという意志が、何処からともなく湧き出してきます。
引き返すべきか、進むべきか。感覚を信じるのか、意志を恃むのか。
あの時、私はどうしたでしょうか。同じような闇の中、忌まわしい記憶が蘇ります。狂気渦巻く廃墟の中、恐怖し、追いつめられ、それでもなお犬塚さんを救うために、私は勇気を振り絞って相手に立ち向かいました。
臆すな。と自分に言い聞かせ、萎えそうになる気力を必死に奮い立たせます。本能は相変わらず警鐘を鳴らしていますが、私はそれを自分の意志でねじ伏せます。一歩、また一歩と地面を踏んで前へと進みます。もしこの洞窟が深淵まで続いているとしても、なにがしかの手がかりをつかむまでは、戻らないと決めました。
左右の壁が圧力を持って私に迫ります。無論錯覚でしょうが、胸が締め付けられるような不安に再び襲われます。ここで声を上げたとしても、犬塚さん達には届かないかもしれません。どれだけ進んだかも、わからなくなってきました。あるいはこの洞窟は、この島の胎内へと続く孔なのかもしれません。
突然、目の前が少しだけ明るくなりました。いえ、突き当りの壁にペンライトの光が反射したようです。長く続いた洞窟は、ふいに終わりを告げました。
足元に目線を落とすと、何かが地面に刺さっています。柄、のようなものでしょうが。しゃがんで握り、一気に引き抜きます。
しゅらん、と音がしてそれは抵抗なく抜けました。ペンライトの光を当てて見ると、どうやらナイフのようです。それも現代的なサバイバルナイフではなく、柄の部分に意匠が凝らされた、やや古風な両刃の短剣です。刃には薄茶色の錆が浮いていますが、まだ辛うじて実用に耐えそうです。
あたりをペンライトで照らしてみますが、それ以上めぼしいものはありません。見つけた短剣の鑑定は洞窟の外で行うことにして、私は踵を返します。長々と歩いてきたように思いましたが、帰り道は案外短いものでした。拾った短剣を握りしめて、私は陽光煌めく洞窟の外へ出ます。
「遅かったな、何か見つけたか?」
私が闇に慣れてしまった目をしばたたかせながら、洞窟外の砂浜まで戻ると、犬塚さんが声をかけてきました。心配してくれたようです。藤さんは近くに腰かけて岩をぺちぺち叩いています。
「こんなものがありました」
犬塚さんに短剣を見せ、私も改めて観察します。刃渡りは十五センチほど、鍔と柄も金属製です。銘もなければ産地も分かりません。見る人が見れば作られた時代がわかったりするのでしょうが、残念ながら私達にそのような知識はありません。少なくとも、おもちゃではなさそうです。犬塚さんは柄を握りながら、刃の部分を掌でぺたぺたと触っています。
「我々の前にここに来た人間が使っていたもの? しかし、なんだって洞窟の奥に」
「さあ」
犬塚さんが返してくれた短剣を受け取ります。
藤さんに見せても、思いあたることはなさそうでした。今はこれ以上考えても、何もわかりません。短剣はうっかり刺さらないように刃の部分をハンカチで巻き、ベルトに挿しておくことにします。そして私達は地図に記されていた次なる場所、あるかなしかの手掛かりを求めて、森の中の泉へと向かいました。
◇
藤女史の持つ別荘は、小さな浜辺にほど近いマンションの一室だった。浜辺は海水浴場と呼ぶほど広くはない二百メートルほどの砂浜で、犬の散歩をする人や、バーベキューをする人々が見受けられる。八階にあるマンションの一室からはそれらが一望でき、窓を開ければ海風が室内を通り抜ける。部屋に到着した我々は荷物を降ろし、遠くに見える江ノ島を背景に飛ぶトンビの鳴き声を聞きながら一息ついていた。
「お疲れ様でした。あとはのんびりするだけね」
間取りは2LDKといったところか。一人で使うにはやや大きい。南国風の家具が配されており、いかにも海辺の別荘、といった趣だ。
「ああそうだ、編集の人から聞いたんだが、なんでもストーカーまがいのファンがいるとか?」
仕事であることを忘れないように、一応確認しておく。
「それはまあ、熱心なファンはいるけれど、気にするほどじゃないわ」
と、いう事らしい。物騒な世の中、用心するに越したことは無いが、やはり依頼の主目的は、女史と一緒に休暇を過ごすことらしい。
詠子君は見回りがてら食後の腹ごなし、といって散歩に出かけた。俺と藤女史は二人室内に残される。時間は午後三時、夕食の準備をするにはまだ早い。
「お仕事について聞いてもいい?」
ダイニングテーブルに座った女史が切り出した。いつの間に淹れたのか、テーブルには二人分のコーヒーが置かれていた。俺はその対面に腰かけて、コーヒーカップを手元に引き寄せる。
「なんでも」
微かな潮騒と、空調の音だけが聞こえる。この部屋にはテレビはないようだ。
「探偵のお仕事は楽しい?」
「答えにくい質問だ」
「もうすこし具体的に聞いた方がいいかしら」
「やりがいのある仕事があるかと言われれば、『はい』愉快な仕事が多いかと言われれば、『いいえ』人探し、浮気調査、素行調査、ストーカー相談。大抵は、地味な仕事が多い」
「今回みたいな依頼は、稀なわけね」
俺はコーヒーを一口飲んで、少しだけ姿勢を変える。
「笑い話になるような出来事も、まあ、無いではないが」
「逆に、身の毛のよだつような体験も?」
一瞬、喉が詰まる。あの夜のことを思い出す。打ち捨てられた廃墟での、恐怖の記憶。いや、記憶というにはあまりに生々しい映像、痛み、臭い。今ここで体験しているかのような不快感に、脂汗が滲み出してくる。耳の奥が冷たくなる。
「……どうかした?」
女史がこちらを覗き込んでくる。深い色の瞳は、彼女が淹れたコーヒーと同じ色だ。
「ある」
「え?」
「誰にも話せない。話しても信じてもらえないような恐ろしい体験を、したことがある」
想定外の反応に驚いたのだろうか、女史は気遣わしげな俺に視線を向けてから、また穏やかな表情に戻る。
「刑事だった時にも思ったが、この世界は存外……闇が深い」
女史の瞳を真正面から見つめる。彼女は気圧されることなく、俺を見つめ返す。その瞳が怪しく煌めいたような気がした。俺の内側を推し量っているのだろうか。そんな時間が、数秒ほど続いた。あるいは、もっと長くだろうか。
「そうね、普通に生きていれば知らなくてもいいこと、常識の埒外にあるもの。貴方みたいな職業についていれば、そういうものを見る機会も、あるのかもしれないわね」
俺は再び彼女を見つめる。含みのある言い方だ。彼女は持っているのだろうか。我々が以前に目にした悍ましい真理の一端。その世界に属する知識を。
「なんだか、悪いことを訊いちゃったみたいね」
ふ、と女史が俺から視線を外す。果たして彼女の真意を掴むことはできなかった。
「いいや」
「それでも、探偵を続ける理由はあるの?」
俺は大学を卒業して警察官になった。そして、刑事を辞めたのが二十八の時。探偵としてのキャリアは、まだ四年に満たない。この質問に対して明確な答えが返せればさぞ格好よかろうが、四年程度の経験ではなんとも答え辛い。
「可愛い後輩がいるからだ」
とりあえず、お茶を濁すことにする。
「フフ……、そうね。しっかり教育してあげないとね」
しばらくすると、詠子君が見回りから戻ってきた。早めの夕食にしようと、準備に取り掛かる。有線ラジオから流れる音楽を聴きながら、作業を進めていく。海辺の時間は、あくまでもゆったりと流れていた。
◇
この島には整備された歩道などという気の利いたものはないらしく、私達は再び砂浜を歩いて元の方向へ戻りました。小屋には戻らず、今度は洞窟とは反対方向、地図の左に描いてあったという森に向かいます。結構長いこと砂浜を歩いていますが、不思議なことに疲労感はありません。私はふんふん鼻歌を歌いながら皆を先導します。
小屋付近から再び砂浜を進んで。南国植物の林を左手に見ながら十分ほど歩くと、徐々に植生が変わってきました。幹が太く、高い樹が多くなってきています。
その木々の間、ふと、入口らしい獣道を見つけました。下草が踏み固められ、誘うように奥へと続いております。
ううむう。と唸りながら、地図と現在地とを見比べます。私は方向音痴なので、念のために犬塚さんにも確認してもらいました。どうやらここが地図に描いてある森の中の泉、その場所への道でよさそうです。この奥に泉があるのでしょうか。
森の中に踏み入ります。僅かな木洩れ日に照らされた獣道は、何やら静謐な雰囲気に満ちています。獣道の左右には、列柱のように高い樹が生えています。虫やヘビが気になりましたが、ここにも動物の気配は少なく、何処からか姿の見えない鳥の声だけが聞こえてきます。
「ここは、他とはかなり雰囲気が違いますね」
足元も砂地ではなく、落ち葉が積もった柔らかい土の地面です。
「植生も異なるようだ。不思議な場所だな」
犬塚さんが地面の土を確かめながら答えます。
道は真っ直ぐ奥へと続いています。木々は徐々にその密度を増し、やがて鳥の声さえ聞こえなくなりました。清浄な空気が少し冷気を帯びたように感じ始めたころ、目の前に小さな泉が現れました。
木々に囲まれた空間。その泉は直径七、八メートルほどでした。深さはせいぜい太ももまででしょうか、透き通った水が、数か所から湧き出しているのが見えます。魚やそのほかの生き物は棲んでいないようです。近づいて手で掬ってみますと、心地よい冷たさが手に沁みます。一口飲んでみます。おそらく真水でしょう。塩辛かったりはしませんでした。
気が付くと、藤さんは靴を脱いで足を水に浸していました。私もそれに倣って水辺に腰かけます。犬塚さんは岸に仁王立ちをしたまま、泉を覗き込んでいます。
「……中に何か沈んでるな」
何かを発見したらしい犬塚さんはバシャバシャと泉に入り、中央付近から箱のようなものを拾い上げてきました。
「それ、なんですか?」
私もそれを覗き込みます。縦横四十センチぐらいの木製の箱。よくある宝箱のような形状です。古そうではありましたが腐ってはおらず、革のバンドで幾重にも巻かれて封印されています。
「宝箱のようだが、残念ながら金貨が詰まっていそうな重さではなかったな」
私は腰に挿した短剣のことを思い出します。これならば、箱に巻かれた革のバンドを断ち切ることができるでしょうか。五分ほど悪戦苦闘すると、何とかバンドを切ることができました。泉の底に沈んでいた箱。何が入っているのでしょうか。さて、中身とご対面です。
箱を開けると、この世のあらゆる災厄が、というようなことは無く、中には一冊の本が入っていました。幸いにも水に濡れてはいないようです。紙の本のようですが、これまた革のバンドで開かないようになっています。
静謐な森の中の泉、そこに隠された一冊の本。先ほどの短剣もそうですが、いったい何の意味があるのでしょうか。私達は考察と休憩を兼ねて、いったん小屋に戻ることにしました。犬塚さんもびしょびしょに濡れて可哀そうです。
森を出ると、太陽は中天に差し掛かり、勢いを増した陽光を私達に投射します。私は手に入れた本と短剣を交互に見ながら、今後に思いをはせます。この不思議な島。不思議な場所。なぜ私達はここに来たのでしょうか、元の場所に帰ることはできるのでしょうか。
そもそもこの場所は現実なのでしょうか?
ずきり、と頭が痛みます。とりあえず少し休むことにしましょう。おなかも減ってきました。昼食でも食べつつ皆で知恵を合わせれば、良い考えも浮かぶでしょう。
◇
三人で作ったカレーは、中々に美味かった。隠し味に何を入れるかひとしきり揉めたあげく、結局基本に忠実に作るのが一番良いという結論に達し、その結果としてごくスタンダードな中辛のカレーになった。少し作りすぎたという点を除けば、おおむね満足のいく夕食だった。夕食の後に軽い酒宴、気づけば時刻は午後十時を回っていた。
カチャカチャと、俺は皿を洗いながら考える。藤女史の事についてだ。
依頼人の人格について詮索することはあまりない。あるとすれば、依頼人のニーズを細かく満たす為にそのおおまかな性格を把握しておく、といったレベルでのことだ。
だが今回は依頼が依頼であることに加え、今までのやり取り。個人的に、何か引っかかるものを感じるのだ。
彼女は不思議な雰囲気を持つ女性だ。美しい顔立ちに、そこそこ売れっ子の作家とくれば、周りに人が群がりそうなものだ。しかし彼女は自分で、交友関係の狭さを告白していた。
ちらりとリビングの方に目をやる。女史はシャワーを浴びた後、和やかに詠子君と談笑している。基本的な対人関係能力に問題があるわけではなさそうだし、休暇に人を招くぐらいだから、人間が嫌いというわけではないだろう。
では、なぜ。
そもそも今回の仕事は、彼女と共に休暇を過ごすこと。彼女の纏う孤独を癒すことではない。しかし、先ほど彼女と話したとき、彼女と眼を見交わしたとき。彼女の瞳の奥の深淵に、自分と同じようなものを感じたのだ。人に言えない体験を持ち、それを人に理解してもらうことを半ばあきらめた、その孤独を。
あるいは彼女も、自分と同じような体験をしたことがあるのだろうか? いつかどこかで、この世のものならざる狂気の一端に触れたことが? それこそが、彼女が纏う孤独の原因なのだろうか。
洗い終えた皿を軽く拭いて重ね、リビングに向かうと、女史が席を立つところだった。
「私は少し小説を書いて、そのまま寝てしまうから。あとはゆっくりくつろいで」
「休暇なのに、小説を書くのか?」
「うふふ。これはね、趣味の物語よ。他人には見せない私だけのお話」
「ツアーガイドが個人的な旅行に行くようなものか」
「言い得て妙ね」
とにかく、彼女はそのまま部屋に引きこもってしまった。間取りは2LDKだから、もう一つの個室は詠子君に譲るとして、俺はソファーで眠ればいいのだろうか。
「あ、もう一つの部屋に簡易ベッドがあるから、使ってね」
女史が扉から顔を出して付け加える。どうやらそういう事らしい。といっても詠子君と一緒の部屋で寝るわけにはいかないから、リビングで寝ることには変わりないが。
詠子君と二人、リビングに残された。詠子君が持参した茶葉で紅茶を淹れてくれる。なんだか今日は茶ばかり飲んでいる気がするが、これほどゆったりした一日はそうないので、まあいいだろう。
「不思議な女性ですね」
扉の向こうの女史に気を遣いながら詠子君がテーブルに座り、カップを両手で挟みながら呟く、俺もその対面に腰かけて、紅茶を一口飲む。僅かにマスカットの香りのする、いつものダージリン。
「不思議な依頼でもある」
「犬塚さんの話もいろいろ聞けました」
昼間の話だろうか。確かに普段の仕事中、プライベートを話す機会はあまりなかったような気もする。
「あまり魅力的な私生活じゃないから、聞いてもしょうがないぞ」
「それでも私は相棒ですから、いろいろ知っておく必要があると思います」
なぜか彼女の鼻息が荒い気がする。
「相棒、か」
少し前まで、彼女は教育すべき部下で、庇護すべき存在だった。相棒、という事を意識したのは、やはりこの間の。
「廃墟でのことだが」
彼女の瞳に動揺が浮かぶ。俺も思い出したくない記憶だ。無理もない。
「『ああいうものがある』という事実を、やはり我々は受け入れる必要がある、と思う」
「せっかく忘れようとしていたのに……。忘れてはいけない、と犬塚さんは言うんですね?」
「そうだ。なぜならそれが、対処可能なことだからだ。アレは自然災害じゃない。回避できない事故でもない。再び同じ目に遭った時に、怯えず、切り抜けられるように」
彼女は昼に買った菓子を一袋開けて、俺にも差し出す。
「強いなあ、犬塚さんは。私は三日寝込みましたよ」
「弱いからこそ、さ。俺もあれから二キロ痩せた」
二人とも、少しだけ笑う。
「アレ、なんだったんですかね」
「現代科学では解明できない何か。魔術に、怪物」
「私達が知る世界は、案外狭かった、とそういう事なんでしょうか」
「そうだな、そして我々が知る世界と知らない世界との境は、案外身近にある」
「犬塚さんが居なければ、どうなっていたことか」
「それはお互い様さ、相棒」
少し時間は早いが、就寝することにする。交互にシャワーを浴び、部屋の一つから簡易ベッドを運び出す。詠子君は部屋のベッドを遠慮したが、さすがに女性をリビングで寝かせるわけにはいかない。
簡易ベッドに横たわり、天井を見つめる。耳を澄ませば、かすかな潮騒が聞こえる。あわただしい一日ではなかったが、慣れない仕事だったせいか、少し疲れたようだ。紅茶を飲んだにもかかわらず、すぐに睡魔が忍び寄ってくる。ゆっくりと体が重くなり、意識と無意識が溶けて混ざっていく。
今日もまた一日が終わる。
◇
見知らぬ島での探索行。見つけた短剣と本を携えて、私達は一旦最初の小屋へと戻ります。火は高く上り、今が昼であると告げています。私達は小屋に向かいましたが、藤さんはもう少し歩いてくる、と言ってどこかに行ってしまいました。
そういえば昼食もフルーツなのかしら、と入口への階段を上ろうとしたとき、ふと階段の手すり、無数の傷がついていることに気が付きました。
縦に四本、それを貫くように横に一本。五つの線からなる同じような傷が、計十個ほど付いています。偶然ではありえない、おそらくは刃物のようなもので付けられた傷でありましょうか。
私は腰に挿している短剣のことを思い出します。おもむろに短剣を手に取り、手すりに同じような傷をつけてみます。この傷は、何のためのものなのでしょうか。何かを数えるため? そして。
一体誰が?
ずきり、とまた頭が痛みます。熱中症でしょうか。南国の気候と言っても気温はそれほど高くないので、さほど重症でもないでしょう。しばらく屋内で休めば、すぐに回復するはずです。
私は先に小屋の中に入った犬塚さんの後に続いて、扉をくぐりました。
室内のテーブルにはいつの間に補充されたのか、また山盛りのフルーツ、と卵。
ニワトリなど見かけなかったのに、何処から? というか、誰が?
疑問はとりあえず置いておいて、昼食を作ります。調理器具も一揃いありますし、きっと小屋の裏にガスボンベでもあるのでしょう。コンロが使えるようです。
私が目玉焼きを焼いている間。犬塚さんは先ほど泉から持ち帰った本を検分しています。皮のバンドで厳重に巻かれていたので、読むためには短剣でそれを断ち切る必要があるでしょう。
いくら慣れぬ環境と言っても、目玉焼きぐらいは作れます。二人分のそれを、皿に盛ってテーブルまで運びます。家族みたいでなんだかほっこり、などと思っていると、犬塚さんがちょうど本を開くことに成功したところでした。
「さて、何が書いてあるのか」
横で私がドキドキしつつ見守る中、犬塚さんは本のページを慎重に開きました。
◇
完全に眠りに落ちる前。無意識の表層。たゆたう意識はその意思とは無関係に、広い、広い不確かな世界を漂う。
それでもわずかに五感はその門戸を広げ、外界の刺激を拾う。
匂いがした。甘い香りだ。次いで湿った土の匂い。雨上がりの夏の匂い。
声が聞こえる。優しい声だ。歌うような、祈るような。それは眠りを妨げない。むしろ、より深い、安らかな世界へと、俺を誘っているように感じられる。
「楽園へ、ご招待」
藤女史の声だ。これだけはいやにはっきりと聞こえた。意識が急速に浮き上がり、視界が明るくなっていく。
俺が目を覚ますと、そこは周りを木の調度で囲まれた、簡素な洋室だった。
◇
「あ……」
気が付くと私はテーブルに手をついて、荒く呼吸をしていました。
記憶の奔流。ここに来る直前、私達は何をしていたのか。
そうだ、私達は、藤さんと一緒に、海辺のカフェで昼食を食べて、夜にはカレーを作り、寝て、起きたら。
ここに、いたんだ。
「大丈夫か、詠子君」
犬塚さんは、眉間を揉みながら、努めて冷静に私を気遣います。彼もまた、私と同じく混乱しているのでしょう。
「また、奇妙な状況からの脱出行。嫌になるな。そもそも、脱出できるのか?」
私に聞かれても、答えようがありませんが。
「だ、大丈夫です。怯えず、切り抜けましょう」
とりあえず昼食を作ってしまったので、気持ちを落ち着けるために食事を摂ります。フルーツと目玉焼きというシンプルな献立ですが、食べられる時に食べておく、というのは、探偵をしていれば常時でも非常時でも変わりありません。
「藤さん、帰ってきませんね」
犬塚さんは、目玉焼きを咀嚼しながらひとしきり考えた後、おもむろに口を開きました。
「本によって、我々は記憶を取り戻した。短剣にも、何らかの役割があるのかもしれない」
「確かに果物を剥くには、少し使いづらいですね」
もちろん冗談です。前回ほど陰惨な雰囲気ではないためか、ユーモアを言うぐらいの余裕はあるのです。
「藤さんなら何か分かるかもしれませんよ」
「いや。おそらく、彼女が我々をここに連れてきたんだろう」
両手で短剣を弄びながら、犬塚さんは呟きます。
「多分、終わらない休暇に招待されたのさ」
終わらない、休暇。今日あった出来事が、紡ぎ切れなかった思考の先が、今になって意味を成し始めます。
描いた覚えのない地図、階段の手すりに付けられた無数の傷。それが意味するものは。
私達がここで過ごした時間は、朝から今までの、ほんの少しの間だけだと思っていましたが。いや、そう信じたかっただけなのかもしれませんが。
繰り返している? 何日も何日も。同じ日を、記憶のないまま?
核心的な疑問を抱くたびに起きる頭痛は。洞窟で感じた、あの言いようのない不安感は。なんらかの、いや、ほぼ間違いなく藤さんによる、作為。
彼女もまた、あの廃墟でであった女と同じ。狂気の世界の住人、なのでありましょうか。
「お願いしてみますか。元の世界に反してください、と」
「少なくとも、話をしてみる必要は、ありそうだ」
私は地図の事や、階段の手すりの傷のことについても、犬塚さんに話しました。
たとえ前回と同じような状況に置かれているのだとしても、私の隣には犬塚さんが居ます。それだけで、私は大分安心できます。仮に前回と同じような状況だったとしても、また同じようにやればいいだけです。
それに、この世界を見る限り、藤さんの趣味は、そんなに悪くなさそうです。
腹を満たしたところで、私達は次の行動について考えます。
「地図には、洞窟、森の泉、そして花畑があります。気が付きませんでしたが、花畑のところに、小さなバツ印もついてますね」
改めて地図を広げ、犬塚さんと一緒に覗き込みます。
「ここに今彼女がいるのか、いなくても何らかの手がかりがある可能性が高いか……」
犬塚さんは椅子の背も足りに倒れ掛かり大きく息をつきます。
「行ってみましょう。それにしても、こんな小さな島に、花畑とは」
思えば、この島はおかしいところだらけです。でたらめな植生にしても、小屋の中にあるやけに近代的な設備にしても。今まで気づかなかったのは、やはり何らかの力が働いているからでありましょうか。
「短剣は俺が持とう。本と地図も、忘れないように」
行く場所は決まりました。心の整理も、何となくですが付きました。私達は小屋の裏手に位置しているらしい、花畑へと向かうことにしました。
◇
始めは、自分がおかしくなったのかと思った。ストレスの直後に、全く別の場所、別の記憶を持って、別の生活を始めてしまう人間の話を聞いたことがある。自分も、そうなったのかと思ったのだ。 しかし、違った。俺はおかしくなってなどいなかった。おかしいのは、この世界。
「はぁ、なんだって立て続けにこう……」
愚痴も吐きたくなる。しかしあくまで、詠子君には聞こえないよう、小声で。
「何か言いました?」
「いいや、行こう」
小屋の裏手に回ると、木々の間に小道があった、その先、木々の途切れた向こうに、桃色の花が咲き乱れる広場がある。
一歩一歩、小道を踏みしめて歩く。この道を通ったのも、きっと何度目かになるのだろう。
ギリシャ神話にこんな話があったか。海の精霊カリプソは、偶然島に流れ着いた英雄オイディプスに恋をし、その島で過ごすよう、彼に懇願した。オイディプスはカリプソと子をなすも、故郷に帰ることを諦めることはなかった。
このまま過ごすならば、我々もまた、カリプソの島の住人となっていたわけだ。結局英雄オイディプスは神の助けを借り、島からの脱出に成功した。しかし我々はおそらく、神の助力を望むことはできないだろう。
木々の間を過ぎると、目の前には一面の花。広場は緩やかな丘になっており、その頂点に、彼女がいた。儚げに、どこか遠くを眺めている。
「……藤さん」
言いながら、詠子君が花の咲いた丘に踏み入る。俺は無言でその後を追う。
「あら」
彼女も丘を登ってくる我々に気づいたようだ。風に吹かれる髪をかき上げて、こちらに向き直る。先ほどとは少し雰囲気が違う。多分、我々が記憶を取り戻したことに気が付いているのだろう。
「今日はいい天気ね」
それでも、彼女はそう嘯く。
「いい天気だ。今日も、きっと昨日も、その前も、ずっと、ずっといい天気だったんだろう?」
「腹の探り合いはやめましょう。藤さん。私達、どうやったら帰れますか?」
対峙する一人と二人。丘の上を、暖かい風が吹き抜ける。
「ここから帰る方法? それは、教えてあげようと思えばすぐ教えてあげられるけれど」
あくまで彼女の表情と口調は穏やかだ。風変わりな雰囲気を纏ってはいる。孤独で、判定な印象もそのままだ。悪意や狂気は、今のところ感じられない。
「その前に、少しお話をしましょうか」
そう言って彼女は自らを抱くように腕を組む。ちょうどいい、我々にも訊きたいことがある。
「まず、あなた達は驚くほど優秀でした」
「地頭の良さか、意志の強さか……。平均はだいたい、半年ぐらい、というところだけれど」
「多分あなた達は、ここまで来るのに、二か月掛からなかったんじゃないかしら?」
記憶を取り戻してから、薄々感づいてはいた。非常にぼんやりとした、あいまいな記憶しかないが、我々はここで、何日も、何週間も過ごしている。ただ、覚えていないというだけだ。
日中を過ごし、夜眠る。そして朝起きると、昨日の記憶がなくなっている。その繰り返し。
それでも我々は、記憶を消されることに抗うように、この世界に痕跡を残していった。この島の地図然り、小屋の手すりに付けられた傷然り。もしかすると洞窟の短剣や、記憶を取り戻すきっかけになった本も、かつての我々が打った布石の一部なのかもしれない。
「消すこともできたはずだ」
「記憶の事?」
「違う。我々がこの世界に残した手がかりを、だ。地図を破り捨てることも、印を削り取ってしまうことも、簡単だったはずだ。あるいは、そんな必要すらないんだろう? 藤さん。アンタが願いさえすれば」
彼女は無言で微笑む。
「それをしなかったのは、我々に、真相にたどり着いてほしかったからだろう」
これは無論、憶測に過ぎない。それでも、確信はあった。彼女が持つ、『誰にも理解されない』という孤独は、なんだか俺自身が持つものと、似ていたような気がしたから。
「そして、すべてを知ってもなお、『此処に留まる』と、我々に言って欲しかった」
彼女の表情が、少しだけ寂しそうに変化した。
◇
「私からも、訊いていいですか」
犬塚さんと藤さんの大人の会話に割り込むのは気が引けましたが、私も被害者の一人です。少し口を挟む権利ぐらいはあるでしょう。
「なぜ、私達の記憶を消したのですか」
藤さんはほんの少し首を巡らせてこちらを見ます。その知性と冷静さを湛えた瞳を見つめていると、なんだかその中に吸い込まれそうな気分になってきます。
「それは、人が変化を望まないから。そして、人が変化を望むから」
こういう言葉遊びは苦手です。
「どういう、ことですか」
「突然知らない場所に連れてこられたら、誰でも帰ろうとするでしょう? たとえ、そこが楽園であったとしても。だから最初は元の場所の記憶も消していたの。それでもその人の過去は、その人を形づくっているものだから、日を経るごとに、少しずつ、少しずつ蘇ってくるのよね。あなた達も今日起きたとき、元いた場所の記憶はぼんやり有ったでしょう?」
確かにそうです。今日起きたとき、私は自分が何者か混乱することはありましたし、前日の記憶も、ぼんやりとですが思い出すことができました。
「でも、いくら記憶を消して楽園に招待しても、並の人間はいつか『飽き』るの。素晴らしい場所でも、新しい刺激が欲しくなるのね。自分で何かを創造できない凡庸な人間であるほど、新しい刺激を求める。だから、日々新鮮な一日を送れるように、毎日の記憶を綺麗に消してあげていたの」
理由については、なんとなく合点がいきました。動機については、何となく察することができました。合ってからの彼女の言動、先ほど犬塚さんとのやり取りの最後に見せた表情。
この人は、寂しいんだ。
人が好きで、でも誰も理解してくれる人がいなくて。だからこの島で、共に永遠を過ごしながら、その人の魂に迫ろうとしたのでしょう。私達が過ごした、記憶のない日々の内に、もしかしたらそんな、深い心のやりとりがあったのかもしれません。そんな試みを、藤さんは何度も行ってきたのでしょう。
「それで、私達がこの島を出る方法ですが……」
言いかけた私を、犬塚さんが制します。右手にはいつの間にか例の短剣が握られていました。
「夢から醒める方法ってのは、大体決まっている」
そう言うと、犬塚さんは自分の左手を、錆びた短剣で突き刺しました。しかし噴き出したのは鮮血ではなく。
虚無、といいましょうか、犬塚さんの身体が空間に溶けるように消滅していきます。左腕がすっかり消滅してしまうと、犬塚さんはちらりとこちらを見遣り、短剣を私の足元に投げます。
数秒もしないうちに、犬塚さんは完全に消滅してしまいました。まさか死んでしまってはいないと思いますが。
「さて」
藤さんが組んでいた腕を解いて私の方に歩み寄ります。私は足元の短剣を拾って、それを見つめています。血はついていません。
「あなたは、どうするの?」
「この世界は、本当にいい場所だと思います」
「そうでしょう。想像力といっても限界があるから、色々と粗は目立つけどね」
「ここにずっと住むのも、悪くはないと思います」
「好きなだけ、いていいのよ?」
「そうですね。でも、私は。私には……」
◇
夢の名残は、意識が覚醒すると急速にその色を失っていく。左手を貫いた際に感じた、有るか無しかの痛みは、もはやその痕跡も残さずに消え失せた。白い天井を見ながら左手を一度強く握り、また開いてじっと見つめる。当然、傷跡はない。
簡易ベッドから起き出すと、そこは南国風ながら現代的なマンションの一室だった。無事、帰って来られたようだ。
しばらくぼんやりしていると、詠子君が起きだしてきた。酷い寝癖だ。
「おはよう。詠子君」
「んにゃ。おはようございます」
「覚えてるか?」
「覚えてます」
「どこを刺したんだ?」
「自分のおなかです。ぶっすり」
「豪快だな」
普段彼女は薄化粧なので、すっぴんでもそれほど印象が変わらない。軽く身づくろいを済ませてコーヒーを淹れていると、藤女史が起きだしてきた。
「二人とも、おはよう」
まったく悪びれた様子はない。奇妙な目に遭わされた俺自身にも、不思議と彼女に対する敵意は湧かなかった。所詮は夢の中の出来事だったからだろうか。
「おはよう。今日で休暇は終わりか?」
「そのようね」
そんな俺の感情を察したのか、彼女はにっこりと笑う。自分の分のコーヒーをカップに入れた後、いそいそと朝食の準備を始める。
「今、フレンチトースト作るからね」
夢の中での出来事などなかったかのような自然な態度。世はすべて事もなし、といったところか。平穏な朝食を終えた我々は、十時ごろまでゆっくりした後、東京への帰途へ着くことにした。
「犬塚さん」
マンションから出て駐車場に向かう途中、藤女史に呼び止められた。
「なんだ」
詠子君は気付かず先に行ってしまった。
「詠子ちゃん、いい娘ね。度胸もある」
「お腹をぶっすり、か」
現実世界でないとはいえ、さすがに俺もそこまでやる度胸はない。
「ふふ、それにね。彼女が帰る前、なんて言ったと思う?」
「お礼でも言われたか?」
「いいえ、『私には、あなたと違うところが二つあります』って」
「へえ」
「『まず、私はコーヒー派ではなく、紅茶派です』って」
「彼女の入れるダージリンは一級品だ。飲む機会がなかったのは残念だったな」
「で、もう一つは? って私が訊いたら、『秘密です』だって。ねえ、彼女に訊いておいてよ」
「若さじゃないのか」
「あ、今のは許せない。私はまだ二十九よ」
「藤さーん? 犬塚さーん? どうかしましたか―?」
詠子君が駐車場からこちらを呼んでいる。
「ああそうそう、迷惑をかけたお礼に、これを上げる。後で詠子ちゃんにも渡しておいて」
駐車場に向かって歩きながら渡されたのは、二つの変わったお守りだった。表面には変わった星形の文様が縫い込まれている。
「お守りか?」
「そうそう、あなた多分、 『引き寄せるタイプ』だから」
「そりゃどうも」
「それと、名刺も渡しておくわね。寂しくなったら電話して」
車に乗り込み、エンジンをかける。
「何話してたんですか?」
詠子君が後部座席から顔を出す。
「ふふ、秘密よ」
車は海辺の道路をしばらく走り、東京へと向かう。九月の空は今日も快晴で、日に日に高くなっていく空には雲一つ浮かんでいなかった。
藤女史をマンションに送り届けて車を返却し、我々は事務所に戻った。
驚くことに、事務所を受けてから二か月が経過していた、というようなこともなく、我々は見慣れた事務所の扉をくぐる。所長室に入り、上司である所長に簡単な報告をする。
「いい骨休めになったかしら? 猟ちゃん」
「ああ、ゆっくり休めたよ。それと何度も言っているが、仕事中に猟ちゃんはやめてくれ」
所長は俺の幼馴染で、刑事を辞めた俺を拾ってくれた恩人でもある。少々公私混同するきらいはあるが、いい上司であり、友人である。
二、三事務的な会話と私的な会話をして、所長室を出る。今回は報告書の作成を詠子君に任せたので、俺は紅茶でも飲みながら書類の完成を待つことにした。藤女史からもらった名刺と、お守りを取り出してぼんやり眺める。
「(あなた多分、 『引き寄せるタイプ』だから、か)」
今回はうまく切り抜けることができた。もし次回があったとしても、きっとうまく切り抜けることができるだろう。それに、同じ経験を語ることのできる相棒がいるのは何より心強い。
俺は隣で詠子君がキーボードを叩く音を隣で効きながら、デスクの机に深々と身を沈めた。
お読みいただきありがとうございました。
何か感想や改善点がありましたらお教えください。