第9話:砕かれた紅蓮と、観測者の介入
「……弱い」
不死王が、アレスの目の前に立つ。
アレスは、失った右腕の傷口を押さえながら、無様に尻餅をついて後ずさりした。
傷口からは鮮血が溢れ出し、冷たい床に赤い水溜りを作っている。
「ひッ……ひぃぃぃ……」
目の前に立つのは、死そのもの。
生物としての格が違う。食物連鎖の頂点と、プランクトンほどの差がある。
アレスの脳内では、逃走本能と恐怖による麻痺がコンフリクトを起こし、思考が焼き切れていた。
「くるな……くるなァァァ!!」
ジョワァ……。
アレスの股間が濡れ、石畳に染みが広がっていく。
恐怖による括約筋の弛緩。失禁。
アンモニアの臭いが、血の臭いと混ざり合う。
「殺さないで……助けて……ママ……!」
ネメシスの英雄。
数分前まで傲慢に振る舞っていた男の姿は、そこにはなかった。
あるのは、排泄物を垂れ流し、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして命乞いをする、ただの無様な敗北者だけ。
不死王が、アレスの首を掴もうと、骨の手を伸ばす。
その指先には、触れたものを腐敗させる呪いの黒い火花が散っている。
「……廃棄する」
その時。
絶望に染まるアレスの視界の隅で、一人の少年が動いた。
荷物持ちのFランク。シンだ。
彼は、Sランクの威圧が嵐のように吹き荒れる中を、まるで公園でも散歩するかのように、ポケットに手を入れたまま軽い足取りで歩み出た。
「……おい、馬鹿! 何をしている!?」
アレスが、掠れた声で叫ぶ。
逃げろ、と言おうとした。これ以上、死体が増えるのを見たくないという一心で。
シンは、アレスの前に立ち、背中を向けた。
その背中は、Fランクの子供のものだ。小さくて、細くて、頼りない。
だが、震えていなかった。
暴風のような殺気の中でも、髪の毛一本すら乱れていないような、異様な静けさを纏っている。
シンは、迫りくる不死王を見上げ、ボロボロのフードをゆっくりと脱いだ。
露わになったその顔は、無表情。
恐怖も、絶望もない。
ただ、深い退屈と、わずかな不機嫌さだけを湛えた瞳。
「……Fランクか?」
不死王が手を止め、怪訝そうにシンを見た。
なぜ、この個体は死のオーラを受けて立っていられる? なぜ、恒常性を維持できている?
この距離なら、心停止を起こしてもおかしくないはずだ。
「何をしに来た、羽虫よ。貴様も処理されたいか?」
シンは答えない。
ただ、周囲を見渡した。
壁に埋まり気絶したボルトス。血を吐いて倒れたミラ。震えてうずくまるチェルシー。そして失禁したアレス。
(……やれやれ。Bランクといえど、Sランクの前では赤子同然か。サンプルの強度テストとしては十分だな。これ以上はデータの無駄だ)
シンは、不死王へ向かって一歩踏み出した。
その瞳の奥に、隠しきれないGランクの神威が、チラリと灯る。
「……騒がしいな」
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