第89話 潜入、|Fランクの荷物持ち《シン》
空気が、死んでいる。
それが、鋼牙帝国アイゼンガルドの首都、鉄帝都に足を踏み入れたシンが抱いた、最初の感想だった。
空を見上げても、太陽はない。 無数に林立する巨大な排煙塔から吐き出されるどす黒い煤煙が、厚い層となって天を覆い隠し、昼間だというのに街全体が黄昏のような薄暗さに沈んでいる。 降り注ぐのは陽光ではなく、黒い煤と、酸味を帯びた雨。
カンッ、カンッ、ガシャアアン……。 ドォォォォォン……。
耳を塞ぎたくなるような金属音と、地底から響く重低音。 巨大な歯車が噛み合う音、蒸気が噴き出す音、そして何かが爆発する音。 それらが不協和音となって街中に反響し、人々の会話さえも掻き消している。
「……趣味が悪いな」
路地裏の汚泥を踏みしめながら、シンは顔をしかめた。 現在の彼は、ボロボロの麻服を着て、背中に汚れた大きな麻袋を背負った、どこにでもいる貧相な少年だ。 髪にはわざと灰をまぶし、顔にも煤を塗って薄汚さを演出している。 誰がどう見ても、田舎から職を求めて出てきたばかりの、Fランクの「荷物持ち」にしか見えないだろう。
(魔素が汚染されている。……自然界の美しい循環を無理やり断ち切り、鉄と火薬で煮詰めたような味だ)
始祖としての鋭敏な感覚が、この街の大気に含まれる異常な「歪み」を捉えていた。 ネメシスが「魔法と技術の調和」を目指した都市だとすれば、ここは「魔法を燃料として消費し尽くす」ための巨大な焼却炉だ。
「おい、そこのガキ! 邪魔だ、どけ!」
怒号と共に、荷車を引いた男がシンを押しのけていく。 荷車には、採掘されたばかりの黒光りする鉱石――魔鉄鉱が山積みされている。 男の目は死んだ魚のように濁り、頬はこけ、生きる喜びなど欠片も感じられない。ただ、ノルマをこなすためだけに動く肉の部品。
(……活気がない。あるのは『疲労』と『焦燥』だけか)
シンは男の背中を見送り、人混みの中へと紛れ込んだ。 彼が目指すのは、この街の心臓部。 帝国の強大な軍事力を支える生産拠点であり、同時に多くの才能が使い潰されている処刑場。
――魔導鍛冶工房。
「職を探してるんだ。……一番キツいけど、一番稼げる場所はないかな?」
シンは市場の片隅で、手配師の男にそう声をかけた。 怯えたような上目遣い。金に困った少年の演技。
「あぁ? 一番キツい場所だと?」
手配師はシンの細い腕を値踏みするように見て、ニヤリと卑しい笑みを浮かべた。
「あるぜ、坊主。……『第三区画』だ。あそこなら、人手はいくらあっても足りねぇからな。……生きて帰れるかは保証しねぇが」
「ありがとう! 僕、頑張るよ!」
シンは無邪気に礼を言い、教えられた方角へと歩き出した。 その背中で、手配師が「また一匹、使い捨てが増えたか」と嘲笑う声が聞こえたが、シンは気にも留めない。
使い捨てられるのが誰なのか。 それを決めるのは、帝国ではない。この俺だ。
◇
魔導鍛冶工房・第三区画。
そこは、現世に再現された焦熱地獄だった。
巨大なドーム状の建屋の中は、高熱と轟音で満たされている。 中央には溶岩のように赤熱した魔導炉が鎮座し、そこから血管のように伸びたパイプが、無数の作業台へと熱と魔力を供給している。
作業台に向かっているのは、数百、数千の職人たちだ。 彼らは一様に、足首を太い鎖で作業台に繋がれていた。 逃亡防止ではない。死ぬまでその場から離れさせないための、絶対的な拘束。
カンッ! カンッ! カンッ!
職人たちがハンマーを振るうたびに、火花が散る。 だが、彼らが行っているのは、ただの鍛冶ではない。
「――硬化、硬化、鋭利化……ッ!」
一打ごとに、魔法の詠唱を叩き込んでいるのだ。 付与術師。 自身の魔力をハンマーを通して鉄に流し込み、物質の強度や性質を書き換える特殊技能者たち。 通常ならば、高度な集中力と魔力消費を要するため、一日に数時間の作業が限界とされる専門職だ。
だが、ここでは違う。
「手が止まっているぞ! さっさと叩け!」
ビシッ!! 監督官の鞭が、老職人の背中を打つ。 皮膚が裂け、血が滲むが、老人は悲鳴も上げずにハンマーを振り続ける。 その目は虚ろで、口の端からは涎が垂れている。 魔力欠乏症。過度の魔力消費により脳が酸欠状態になり、思考能力が低下しているのだ。
「魔力回復薬だ! 飲ませろ!」
別の監督官が、緑色の液体が入ったバケツを持って回ってくる。 職人たちは動物のようにバケツに顔を突っ込み、その液体を啜る。 それは高価な回復薬ではない。 魔物の血液と興奮剤を混ぜ合わせた、一時的に魔力を強制回復させるだけの粗悪なドラッグだ。 飲めば飲むほど体は蝕まれ、精神は崩壊していく。
(……なるほど。これが帝国の『強さ』の正体か)
シンは、鉄屑を運ぶ荷車を引きながら、その光景を冷ややかに観察していた。 彼が運んでいるのは、失敗作の剣や、砕けた鎧の残骸だ。 Fランクの荷物持ちとして潜入した彼は、この地獄の底辺で「掃除夫」の役割を与えられていた。
(人を人と思わず、ただの『魔力電池』として使い潰す。……効率的ではあるな。感情を排し、個を殺し、システムの一部として摩耗させる)
シンの思考は冷徹だ。 彼は義憤に駆られているわけではない。 ただ、そのあまりにも雑な「資源の運用」に、呆れているだけだ。
(だが、美しくない。……才能というものは、もっと丁寧に磨き上げ、輝かせてから食うものだ。これでは、素材の味が台無しだ)
シンがため息をついた、その時だった。
ガシャーン!!
近くの作業台で、何かが崩れる音がした。 一人の老職人が、ハンマーを取り落とし、床に倒れ込んだのだ。 白髪交じりの頭髪は抜け落ち、体は枯れ木のように痩せ細っている。
「じ、爺ちゃん!?」
隣の作業台に繋がれていた少年が叫ぶ。 まだ十代前半だろうか。煤まみれの顔に、涙の跡がある。彼もまた、鎖に繋がれた付与術師の見習いなのだろう。
「おい、どうした! サボるな!」
監督官が大股で歩み寄り、倒れた老人を靴先で蹴り飛ばした。 老人は動かない。ピクリともしない。 その胸は動いていなかった。
「……チッ。壊れやがったか」
監督官は舌打ちをし、老人の首筋に手を当てた。 そして、無情に宣告する。
「死んでるな。魔力の搾りかすだ。……おい、掃除夫! こいつを片付けろ!」
指名されたのは、たまたま近くにいたシンだった。
「……へい」
シンは荷車を止め、老人の遺体に歩み寄る。 その体は、まるで中身を吸い取られた抜け殻のように軽かった。 長年の過酷な労働と薬物投与により、生命力の一滴まで搾り取られた末路。
「やめて! 爺ちゃんを……爺ちゃんをゴミみたいに捨てないで!」
少年が鎖を引きちぎらんばかりに暴れ、泣き叫ぶ。
「爺ちゃんは……この国一番の刀匠だったんだ! 皇帝陛下の剣だって打ったことがあるんだぞ! なのに……こんな、こんな扱いは……!」
「うるさい! 過去の栄光で飯が食えるか!」
監督官が少年の顔面を拳で殴りつける。 少年が吹き飛び、口から血を吐く。
「帝国に必要なのは『今』使える戦力だけだ! 使えないゴミは焼却炉行きだ! ……お前も、あと一月もすれば同じ場所に行くんだよ。精々、今のうちに働いておけ」
監督官は唾を吐き捨て、シンに向かって顎をしゃくった。
「何をしている! 早く運べ! そこの鉄屑と一緒に溶鉱炉へ放り込んでこい!」
シンは無言で老人を抱え上げた。 そして、血を流して睨みつけてくる少年と、一瞬だけ視線を交わした。 少年の瞳にあるのは、絶望ではない。 煮えたぎるような、殺意と憎悪。
(……いい目だ)
シンは内心で口元を歪めた。 死んだ老人はもう用済みだが、この少年は違う。 この環境で、これだけの憎悪を燃やし続けられる精神力。そして、師匠譲りの技術の萌芽。 これは「ゴミ」ではない。「原石」だ。
「……わかったよ。運べばいいんだろ」
シンは老人を荷車に乗せ、鉄屑で隠すように被せた。 そして、監督官には聞こえない声で、少年にだけ届くように囁いた。
「(……待っていろ。すぐに『迎え』に来てやる)」
少年がハッとして顔を上げるが、シンはもう背を向けて歩き出していた。
◇
工房の裏手。 廃棄物を処理するための巨大な溶鉱炉があるエリア。 そこは人気がなく、ただ熱気と轟音だけが支配する場所だった。
シンは荷車を止め、周囲を確認した。 監視の目は緩い。どうせ捨てるだけのゴミに、誰も関心を持っていないからだ。
「……さて」
シンは荷車の上の鉄屑を退け、老人の遺体を露わにした。 死体。ただの肉の器。 だが、始祖の眼には、そこにしがみつく微かな「残留思念」が見えていた。 技術への執着。弟子への想い。そして、帝国への怨嗟。
「死体からは何も生まれない……と言いたいところだが」
シンは老人の額に手をかざした。
「その技術、私が貰い受ける」
――才能捕食。
ズズズッ……。 シンの影が触手のように伸び、老人の遺体を包み込んだ。 肉体ごと、魂の残滓を飲み込み、分解し、解析する。
『解析完了。……才能【魔導鍛造】の断片を確認』 『熟練度:極。……肉体の限界により劣化しているが、知識データは保存されています』
「やはりな。腐っても名工か」
シンは満足げに頷いた。 この老人の技術は、レギオンのヴォルカンとはまた違う体系のものだ。 ヴォルカンが「素材そのものを強化する」剛の鍛冶だとすれば、この老人は「魔力を編み込む」柔の鍛冶。 この知識をヴォルカンに与えれば、レギオンの兵器開発はさらに加速するだろう。
「おい! そこで何をしている!」
背後から怒声が響いた。 見回りの兵士が二人、剣を抜いて近づいてくる。 サボっている荷物持ちを見つけたと思ったのだろう。彼らの顔には、弱者をいたぶる嗜虐的な色が浮かんでいる。
「あーあ。……見つかっちゃったか」
シンは、怯えた少年の演技をするのをやめた。 ゆっくりと振り返る。 その表情には、恐怖も媚びへつらいもない。 あるのは、羽虫を見るような無関心と、絶対的な強者の余裕だけ。
「な、なんだその目は……!?」
兵士たちが足を止める。 本能が告げている。目の前の少年は、獲物ではない。 自分たちが、檻の中に入ってしまったのだと。
「ちょうどいい。……案内役が必要だったんだ」
シンの姿が揺らいだ。 次の瞬間、彼は兵士の一人の目の前に立っていた。 兵士が瞬きをするよりも速く、シンの手が兵士の顔面を鷲掴みにする。
「ぐ、が……!?」
「静かにしろ。……少し『頭の中』を覗かせてもらうぞ」
――記憶略奪。
シンの指先が、兵士の脳髄に直接魔力を流し込む。 激痛と共に、兵士の記憶がシンの脳内へとコピーされていく。 帝都の地図、警備体制、工房の構造。 そして――「特務部隊」が収容されている場所。
「あ、アガガガガガ……ッ!!」
情報を吸い尽くされた兵士は、白目を剥いて崩れ落ちた。廃人だ。 もう一人の兵士が、腰を抜かして後ずさる。
「ひ、ひぃッ! き、貴様、何者だ……!?」
「俺か?」
シンはニヤリと笑った。 その背後に、巨大な蜘蛛の幻影が揺らめく。
「ただの……通りすがりの『採用担当者』さ」
シュッ。 シンの影から伸びた黒い刃が、兵士の首を刎ねた。 死体は影の中へと沈み込み、跡形もなく消滅する。
シンは懐から羊皮紙を取り出し、奪った記憶を元に地図を書き込んだ。 赤いインクで印をつけた場所。 帝都の北側、断崖の上に建つ孤立した施設。
『|帝国魔導院・第零研究棟』。
通称――「鳥籠」。 そここそが、帝国が集めた「天才児」たちを洗脳し、兵器へと改造している養成所だ。
「待っていろよ、天才たち。……退屈な授業は終わりだ」
シンは兵士の服を剥ぎ取り、自らの姿を帝国兵へと変装させた。 認識改竄により、誰が見ても彼は「忠実な帝国兵」にしか見えない。
「さあ、課外授業の時間だ」
魔王は歩き出す。 黒い煙に覆われた空の下、鉄の都の最深部へ。 そこにあるのは、救済ではない。 より強大な支配者による、魂の収穫である。
お読みいただきありがとうございます!
Fランクの荷物持ち(擬態)、久しぶりの登場です。 帝国の労働環境、ブラックすぎますね……。 そんな中で見つけた「才能」の原石たち。シンにとっては宝の山に見えているようです。
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明日も更新します。




