第86話 |聖女《ミラ》の慈愛という名の絶望
嘆きの荒野は、混沌の坩堝と化していた。
戦場の中央を突き破った軍神と獅子の突撃は、帝国軍の陣形を物理的に粉砕し、鉄の規律を誇った軍団を烏合の衆へと変えていた。 だが、腐っても大陸最強の鋼牙帝国である。 指揮系統が寸断されようとも、個々の兵士や小隊長たちは必死に踏みとどまり、絶望的な防衛戦を続けていた。
「怯むな! 敵は少数だ! 囲んで圧し潰せ!」 「負傷者は後方へ! 回復班、治療を急げ!」
血と泥に塗れた重装歩兵たちが盾を並べ、再び壁を作ろうとする。 後方では、傷ついた兵士たちが簡易テントに運び込まれ、うめき声を上げていた。 ヴィンセントの拳で鎧ごと砕かれた肋骨、レオの大剣で斬り裂かれた四肢。 戦場の現実は残酷で、痛みと死臭が充満している。
そんな、阿鼻叫喚の地獄において。 突如として、天から「救い」が舞い降りた。
――キィィィィィン……。
澄み渡る鐘の音のような、美しい高音が戦場の喧騒を切り裂いた。 兵士たちがふと空を見上げると、分厚い鉛色の雲が割れ、そこから一筋の黄金の光が差し込んでいた。 それは、戦場の煤煙や血の臭いを浄化するかのような、神々しい輝きだった。
「……あ、あれは……?」 「天使……か?」
光の中から、一人の女性が舞い降りてくる。 純白の修道服を身に纏い、背中には魔力で織り上げられた光の翼を広げている。 黄金の髪は後光のように輝き、その美貌は戦場の穢れを一切寄せ付けない聖性を帯びていた。
レギオン・蜘蛛最高幹部、四天が一角。 【聖】ミラ・ユースティス。
彼女は重力など存在しないかのようにふわりと大地に降り立つと、傷つき、血を流す帝国兵たちを見渡し、悲しげに眉を寄せた。
「ああ……なんてかわいそうな子羊たち」
その声は、春の陽射しのように温かく、兵士たちの強張った心を溶かしていく。
「痛いでしょう? 苦しいでしょう? ……もう大丈夫ですよ。私が、その痛みを取り除いて差し上げます」
ミラが両手を広げた。 彼女を中心として、温かな光の波紋が広がっていく。 それはレギオンの兵士だけでなく、敵である帝国兵たちをも平等に包み込んだ。
「聖域展開――広域慈愛」
シャララララ……。 光の粒子が雪のように降り注ぎ、兵士たちの体に吸い込まれていく。 奇跡が起きた。 深々と斬り裂かれていた傷口が塞がり、折れた骨が音を立てて繋がっていく。 失われた血液が戻り、青ざめていた顔色に赤みが差す。
「お、俺の腕が……治った?」 「すげぇ……痛みが消えたぞ!」 「敵の魔女かと思ったが……聖女様だ! 俺たちを助けてくれたんだ!」
帝国兵たちは歓喜し、涙を流してミラを拝んだ。 敵味方の区別なく傷を癒やす。それはまさに、神に仕える聖職者の鑑のような振る舞いに見えた。
――最初の数秒間だけは。
「あ、ありがとうございま……ぐ、ぅ?」
最前列で回復を受けた兵士の笑顔が、不自然に引きつった。 治ったはずの傷口が、熱い。 いや、熱すぎる。 傷が塞がった後も、光の粒子は降り止まない。 過剰なまでの生命エネルギーが、許容量を超えて細胞に注ぎ込まれ続けている。
「……あ、が……? な、なんだこれ……体が、膨ら……」
メキ、メキメキッ。 嫌な音がした。 兵士の腕の筋肉が、異常な速度で肥大化し、皮膚を突き破って盛り上がり始めたのだ。 血管がミミズのようにのた打ち回り、眼球が眼窩から飛び出しそうになるほど充血する。
「癒やしが足りませんね。……もっと、もっと元気になりなさい♡」
ミラは恍惚とした表情で、さらに魔力を注ぎ込んだ。 彼女の才能【聖域】は、対象を回復させる力だ。 だが、過ぎたるは及ばざるが如し。 限界を超えた「治癒」は、猛毒よりも質の悪い「破壊」となる。
――過剰回復。
制御を失った細胞分裂。癌化した組織の暴走。 それは、生命の設計図を無視した、肉体の崩壊だった。
「ぎ、ぎゃああああああああッ!! 痛い! 痛い痛い痛い痛いッ!!」 「止めてくれ! もう治ってる! 治ってるんだァァッ!」
兵士たちが絶叫し、のたうち回る。 だが、ミラは止めない。 慈母の微笑みを浮かべたまま、残酷な愛を注ぎ続ける。
「何を言っているのです? 貴方たちの魂はまだ傷ついていますわ。……ほら、受け入れなさい。私の愛(魔力)で、中身までいっぱいにしてあげますから」
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!! 心臓が破裂しそうなほど脈打つ。 骨が異常成長し、肉を突き破って体外へと飛び出す。 皮膚が裂け、そこから溢れ出るのは血ではなく、暴走した魔力の光と、ブヨブヨとした肉腫の塊。
バチュンッ!!
一人の兵士の頭部が、内側からの圧力に耐えきれず、熟れた果実のように弾け飛んだ。 脳漿と肉片が花火のように撒き散らされる。
「ひ、ひぃぃぃッ!?」 「助けてくれぇぇぇッ!!」
周囲の兵士たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。 だが、光の雨は彼らを逃さない。 光に触れた箇所から、肉が溶け、融合し、異形へと変貌していく。 ある者は腕が丸太のように太くなり、ある者は背中から余分な手足が生え、ある者は全身が腫瘍の塊となって呼吸すらできずに悶え苦しむ。
「あは、あはははは♡ 素敵、なんて生命力かしら! 元気すぎて弾けちゃうなんて、可愛い子たち!」
ミラは頬を染め、血の雨の中でくるくると踊った。 その白衣は返り血で赤く染まり、聖女の姿は一転して、鮮血の魔女へと変わり果てていた。
「さて。……壊れてしまったおもちゃは、直してあげなくては」
ミラは、弾け飛んだ兵士の死体――肉塊の山に歩み寄った。 その手に握られた錫杖が、禍々しい黒色の光を帯び始める。
四天への進化に伴い、彼女が開花させた第二恩恵。 【魂の救済】。 それは、死の淵にある者を蘇らせる奇跡の御業であり――同時に、死者を生きたまま自身の傀儡として使役する、最悪の死霊術でもあった。
「――起きなさい。まだ、お勤めは終わっていなくてよ?」
ズズズッ……。 肉塊が蠢いた。 飛び散った肉片が生き物のように集まり、骨が組み上がり、失われた頭部が再生していく。 だが、その再生した肉体は、以前の人間のものではなかった。 皮膚は蒼白く、眼球は真っ黒に塗りつぶされ、瞳孔だけが黄金色に輝いている。
生ける屍。 否、自我を奪われ、ミラの命令のみに従う「聖なる死者」たち。
「ア……ゥ……」
蘇った兵士が、ガチガチと歯を鳴らして立ち上がる。 痛みはない。恐怖もない。 あるのは、目の前の「女神」に対する、絶対的な服従と崇拝のみ。
「さあ、行きなさい。……あの迷える可哀想なお友達を、貴方たちと同じ『こちらの世界』へ連れてきてあげるのです」
ミラが優雅に指差した先には、恐怖に震える帝国軍の本隊がいた。
「ア゛ア゛ア゛ア゛……ッ!!」
蘇った死者たちが、獣のような咆哮を上げて駆け出した。 その速度は、生前よりも遥かに速い。 リミッターの外れた筋肉と、死なない肉体。 彼らはかつての同僚に飛びかかり、剣ではなく、その牙と爪で襲いかかった。
「や、やめろ! 俺だ! ハンスだぞ!」 「嘘だろ……死んだはずじゃ……ぎゃああっ!」
仲間の顔をした怪物に喉笛を食い破られ、帝国兵たちが次々と倒れていく。 そして、殺された兵士もまた、ミラの光を浴びてゆらりと立ち上がり、新たな死者となって襲いかかる。 ネズミ算式に増殖する死の軍団。
「撃て! 魔法で焼き払え!」
帝国指揮官が絶叫する。 火球が放たれ、死者たちの体を焼く。 だが、彼らは止まらない。 半身を吹き飛ばされても、這いずりながら笑い、足首に噛み付いてくる。
「痛くない……痛くないぞぉ……」 「お前も……楽になれよぉ……」
狂気。 友軍に殺される恐怖と、殺しても死なない絶望が、帝国軍の精神を根底から破壊していく。
「ひ、ひぃぃッ! 悪魔だ! ここは地獄だ!」 「か、帰らせてくれ! あんな風になりたくない!」
武器を捨てて逃げ出す兵士たち。 だが、戦場全体がミラの【聖域】に覆われている以上、逃げ場などない。 光からは逃げられない。 慈愛という名の猛毒が、彼らの骨の髄まで侵食していく。
その地獄絵図の中心で、ミラはうっとりと自身の血に濡れた手を見つめていた。
「ああ……なんて美しいのでしょう」
彼女の脳裏には、地下宮殿の玉座に座る最愛の主、シンの姿が浮かんでいた。
「シン様……ご覧になっていらっしゃいますか? 私が救った魂たちが、貴方様のために踊っておりますわ。 もっと、もっとたくさんの魂を花束にして、貴方様に捧げます……♡」
歪んだ信仰。狂った愛。 聖女の仮面を被った怪物は、さらなる獲物を求めて、戦場の奥深くへと歩を進める。 その足跡には、黄金の花ではなく、腐臭漂う死の花が咲き乱れていた。
◇
一方、その光景を後方の監視塔から眺めている男たちがいた。 レギオンの技術班、シノとヴォルカンである。
彼らは戦車のハッチから身を乗り出し、顔を引きつらせていた。
「……うわぁ。えっぐ」
シノが防風ゴーグルをずらし、素直な感想を漏らす。 彼らが作る兵器も大概だが、ミラのそれは質が違う。 物理的な破壊ではなく、倫理的、生理的な冒涜。
「ありゃあ夢に出るぞ。……敵に回したくねぇ女ナンバーワンじゃな」
ヴォルカンが身震いする。 鋼鉄の肉体を持つ彼でも、あのように中身からブヨブヨにされて操られるのは御免だ。
「ま、味方でよかったってことで」
シノは双眼鏡を覗き込み、戦場のさらに奥、帝国軍の本陣を確認した。
「前線は壊滅。中盤はアレスの旦那とヴィンセントのおっさんが暴れてる。……で、トドメがあの聖女様か。帝国のやつら、もう心が折れてるんじゃね?」
事実、帝国軍の士気は崩壊していた。 鉄機兵団はスクラップにされ、魔導師団はヴィンセントに殴り散らされ、歩兵隊はゾンビパニックに飲み込まれた。 残るは、本陣を守る近衛師団と、指揮官のみ。
だが、その本陣の奥から、異質な魔力が膨れ上がっているのを、シノの鋭敏な感覚は捉えていた。
「……ん? なんだありゃ」
シノが目を凝らす。 混乱する帝国軍の只中、一台の巨大な馬車――いや、移動要塞のような装甲車が、静かに鎮座している。 その周囲だけ、空気がぴりぴりと張り詰め、ミラの放つ「癒やしの光」さえも弾かれているようだった。
「まだ何か隠してやがるな。……ヴォルカンの爺さん、砲弾の残りは?」
「あと三発じゃ。……だが、あのデカブツを抜くには火力が足りんぞ」
「へへっ、上等。……シメは俺たちの仕事じゃなさそうだ」
シノはニヤリと笑い、視線を空へと向けた。 そこには、戦場の喧騒を見下ろすように、一羽の黒い鳥――シンの使い魔が旋回していた。
「主役の登場待ちってか。……さて、どう料理するんだい、兄ちゃん?」
戦場は、最終局面へと移行しつつあった。 慈愛という名の絶望が満ちる中、帝国の最後の悪あがきが始まろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
ミラ様……慈愛(物理・精神汚染)が爆発していましたね。 「回復魔法」も使いようによっては最強の拷問・洗脳手段になるという、レギオンらしい戦い方でした。 帝国兵の方々には同情を禁じ得ません……。
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