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第7話 開かれた冥府の門、踊る生贄たち

地下迷宮(ダンジョン)奈落の寝床(アビス・クレイドル)』。 その構造は、深く潜れば潜るほどに、この世の(ことわり)から乖離(かいり)していく。


地下十階層。 冒険者ギルドが定めた危険度区分において、Cランク上位からBランク相当の魔物が跋扈(ばっこ)するとされる「深層」の入り口。


そこは、もはや生物の生存を許さぬ死の領域であった。


湿度は極端に下がり、肌を刺すような冷気が、防具の隙間から容赦なく侵入してくる。 壁面を覆っていた発光苔の光は頼りなく明滅し、代わりに闇の奥から(にじ)み出すような、青白く病的な燐光(りんこう)が視界を染めていた。


石畳は濡れたように黒光りし、天井からは鍾乳石が鋭利な牙のごとく垂れ下がっている。 風など吹くはずもない地下深くにありながら、耳元で何者かが(ささや)くような風切り音が絶えず響き、侵入者の精神をじわりじわりと削り取っていく。


漂うのは、濃厚な鉄錆(てつさび)の臭い。 いや、それは乾燥した血液と、数百年かけて風化した死体が放つ、独特の芳香(アロマ)であった。


「……ケッ、気味が悪い場所だぜ」


静寂を切り裂くように、先頭を歩く男が毒づいた。 『紅蓮の獅子(クリムゾン・レオン)』のリーダー、アレスである。


彼は苛立ち紛れに、足元に転がっていた頭蓋骨を、金属製のブーツで蹴り飛ばした。 カラン、カラン……。 乾いた音が、静寂の中に不作法に響き渡り、闇の奥へと吸い込まれていく。


「おい、アレス。あまり音を立てないでよ。……この階層の魔物は、音に敏感な『聴覚探知型』が多いんだから」


背後から、盗賊のチェルシーが鋭い声で(とが)めた。 小柄な彼女は、獣人の血を引く鋭敏な耳をピクリと震わせ、神経質に周囲を警戒している。 彼女の肌には、この階層に入ってからずっと、ねっとりと纏わりつくような「視線」が張り付いていた。


「うるせえな。コソコソするのは性に合わねえんだよ」


アレスは聞く耳を持たない。 彼は肩に担いだ巨大な魔剣を揺らし、わざとらしく足音を響かせて歩を進める。


「出てくるなら出てこいってんだ。俺の炎で、まとめて消し炭にしてやる」


その言葉には、根拠のない全能感が満ちていた。 これまでの道中、彼らはほとんど無傷でここまで到達していた。 襲い来る魔物は少なく、(トラップ)も不発に終わる。 その幸運の連続が、彼らに「自分たちは選ばれた強者である」という、甘美で致命的な誤解を植え付けていたのだ。


「そうですわね、アレス。貴方の剣があれば、どんな魔物もイチコロですわ」


後衛を歩く聖女ミラもまた、艶然(えんぜん)とした笑みを浮かべて同意する。 「それに、ボルトスの盾もありますもの。私たち『紅蓮の獅子(クリムゾン・レオン)』に死角はありませんわ」


「おうよ。任せておけ」


巨漢の盾使いボルトスが、自身の胸当てをドンと叩く。 彼らの足取りは軽い。 死地への行軍ではなく、まるで王宮の庭園を散策するかのような、弛緩(しかん)しきった空気。


彼らは知らない。 自分たちが歩いているこの通路が、本来ならば一歩進むごとに命を削り取る「死の回廊」であることを。


そして、彼らの背後――隊列の最後尾を歩く、一人の少年の存在を。


(……愚かだな)


巨大な荷物を背負い、よろよろと歩くフリをしながら、シンは内心で冷ややかに吐き捨てた。


Fランクの荷物持ち。 それが、今のシンの役割(ロール)だ。 怯えたように背を丸め、脂汗を流し、必死に英雄たちの後をついていく「か弱い少年」。


だが、その実態は異なる。 彼の影の中では、無数の「捕食者」たちが、飢えた(あぎと)を開いて(うごめ)いていた。


(……来るか)


シンの感覚センサーが、闇の奥に潜む殺気を捉える。 アレスたちの進行方向、頭上の岩陰。 そこに、肉眼では視認できない透明な魔物――『影潜み(シャドウ・ストーカー)』が三体、天井に張り付き、獲物の首を刈り取る瞬間を待ち構えていた。


Bランク相当の暗殺魔獣。 気配を断ち、音もなく忍び寄り、鋭利な鎌で首を()ねる。 アレスたちの索敵能力では、首が落ちる瞬間まで気づくことはないだろう。


(邪魔だ)


シンは表情一つ変えず、歩くリズムに合わせて、右手の指先を僅かに動かした。


ヒュッ。


風を切る音さえもしない。 シンの指先から放たれたのは、肉眼では捉えられぬほど極細の、しかし鋼鉄よりも強靭(きょうじん)な『支配の糸(ドミネーター・ライン)』。


糸は生き物のように闇を走り、天井に張り付く魔物たちの首に、正確に絡みついた。


ギチチッ……!


魔物たちが悲鳴を上げる間もなかった。 シンが指を軽く弾く。ただそれだけの動作で、糸が収縮し、魔物たちの首を切断した。


ドサッ、ドサッ、ドサッ。


天井から何かが落ちてくる音がした。 だが、それが地面に触れる前に、シンの足元の影が沼のように広がり、落ちてきた物体を音もなく飲み込んだ。


「……ん? 今、何か音がしなかったか?」


アレスが立ち止まり、怪訝(けげん)そうに振り返る。 そこには、巨大な荷物の重さに耐えかねて、膝をついているシンの姿があった。


「あ、すみません……! 足がもつれて、転んでしまいました……!」


シンは涙目で謝罪し、必死に立ち上がろうとする演技を見せる。 その足元の影の中で、今しがた仕留めた三体の魔物が、数千匹の眷属蜘蛛たちによって解体され、咀嚼(そしゃく)されていることなど、微塵も感じさせない。


「チッ、またかよ。グズが」


アレスは舌打ちをし、興味なさげに前を向いた。


「おい、置いていくぞ! モタモタするな!」


「は、はいっ! すぐに……!」


シンはペコペコと頭を下げながら、口元だけで微かに(わら)った。


(礼には及ばんよ。……精々、最期の時までその滑稽(こっけい)な踊りを見せてくれ)


影の中で捕食が完了する。 魔物たちの命が魔力へと変換され、シンの魂へと還流してくる。 心地よい熱。だが、こんな雑魚では空腹は満たされない。


もっと上質な、魂を震わせるような「絶望」と「力」が欲しい。


シンは、通路のさらに奥、深淵の闇を見据えた。 そこから漂ってくるのは、これまでの魔物とは次元が違う、圧倒的な「王」の気配。


(……待っていろ。すぐに喰らい尽くしてやる)



さらに進むこと数刻。 一行の前に、巨大な障害物が立ちはだかった。


通路の突き当たり。 そこには、天井まで届くほどの高さを持つ、威圧的な『黒鉄(くろがね)の扉』が鎮座していた。


高さは十メートルを下らないだろう。 表面には、苦悶(くもん)の表情を浮かべた悪魔や亡者たちの浮き彫り(レリーフ)が、びっしりと隙間なく刻み込まれている。 それらはまるで生きているかのように、見る角度によって表情を変え、侵入者を嘲笑(あざわら)っているように見えた。


「……行き止まりか?」


アレスが不機嫌そうに呟く。


「いえ、扉のようですわ。……でも、異様です」


ミラが杖の先で扉を照らす。 扉には、取っ手もなければ、鍵穴も見当たらなかった。 ただ、扉の中央――悪魔の浮き彫りが大きく口を開けている部分に、人間が腕を一本差し込めるほどの、暗い「穴」が空いているだけだ。


「なんだ、この穴は?」


アレスが顔を近づけ、穴の中を覗き込もうとする。 ヒュウゥゥ……という、風の音とも(うめ)き声ともつかぬ音が、穴の奥から響いてくる。


「待って、アレス! 不用意に近づかないで!」


チェルシーが鋭い声で制止した。 彼女は盗賊としての道具を取り出し、慎重に扉の周囲を調査し始める。


「……魔法的な封印が施されているわ。物理的な鍵じゃない。それに、この穴……」


チェルシーは顔をしかめ、一歩後退した。


「嫌な予感がする。……まるで、生物の『口』みたいだわ。中から、強烈な魔力の吸引を感じる」


「吸引だと?」


「ええ。もしここに腕を入れたら、魔力を吸い尽くされるか、あるいは物理的に食いちぎられるか……。とにかく、ロクな仕掛けじゃないわ」


一行の間に、重苦しい沈黙が流れる。 この先に進むには、この扉を開けなければならない。だが、鍵穴代わりのこの穴は、明らかに侵入者を拒む(トラップ)だ。


「クソッ、どうすりゃいいんだ! ここまで来て引き返せるかよ!」


アレスが苛立ち、魔剣の柄を叩く。 王家の宝物庫の鍵を開けるのとは訳が違う。失敗すれば、体の一部を失うかもしれないのだ。 英雄を自称する彼といえども、自分の黄金の腕を、得体の知れない悪魔の口に突っ込む度胸はなかった。


「……誰か、試してみる奴はいねえのか?」


アレスが周囲を見回す。 ミラは視線を逸らし、ボルトスは盾を構え直すフリをした。チェルシーは首を横に振る。 誰もが、リスクを負うことを拒否した。


その時。 アレスの視線が、ふと後ろに向けられた。


そこには、巨大な荷物を背負い、不安そうに立ち尽くしているFランクの少年――シンの姿があった。


「……おい、荷物持ち」


アレスの口元が、三日月形に歪んだ。 それは、窮地を脱する生贄(いけにえ)を見つけた、卑劣な捕食者の笑みだった。


「へ?」


シンが、間の抜けた声を上げて顔を上げる。


「お前の出番だ。……その穴に、腕を入れてこい」


シンは、わざとらしく目を大きく見開き、体を強張らせてみせた。 Fランクの弱者を演じるための、完璧な演技プラン。


「えっ……で、でも、チェルシー様が危険だと……! 食べられたりしないでしょうか? 音が、怖いです……」


「ハッ! ビビってんじゃねえよ。Fランクのお前が役に立てる、数少ないチャンスだぞ?」


アレスは歩み寄り、シンの背中を強く叩いた。 ドンッ、とシンがよろめき、扉の前へと押し出される。


「いいか? これは名誉なことなんだ。俺たち『紅蓮の獅子(クリムゾン・レオン)』の道を切り開くための、栄えある先駆者(せんくしゃ)になれるんだからな」


「そうよぉ。もし扉が開いたら、報酬を少し上乗せしてあげるわ。……銀貨一枚くらいなら、惜しくないもの」


ミラもクスクスと笑う。 彼女の聖女の仮面の下にある、冷酷な本性が透けて見える。


彼らの思考は明白だ。 『安全確認のための捨て駒』。 もし罠が作動しても、死ぬのは替えの利く荷物持ちだけ。自分が傷つくわけではない。 もし扉が開けば儲けもの。 その残酷な合理性を、彼らは「冒険者の常識」として、一片の疑いもなく正当化していた。


(……なるほど。最後まで腐っているな)


シンは内心で、冷めきった笑いを漏らした。 ここまで清々(すがすが)しいクズだと、逆に愛着すら湧いてくる。 彼らがこれから味わう絶望のスパイスとしては、最高の下ごしらえだ。


「……わかりました。やります」


シンは、震える手(演技)を前に差し出した。 そして、悪魔の口のように開いた穴の前へと、おずおずと進み出る。


解析(アナライズ)


シンは、穴の内部に充満する魔力を、触れる前に瞬時に読み取った。


構造は単純だ。 迷宮が生成した悪意の塊、『捕食型魔力認証門(プレデター・ゲート)』。 内部に入った生物の魔力を強制的に吸収し、一定量(Sランク級の総魔力量)に達すれば開く。 達しなければ、そのまま生命力ごと吸い尽くし、ミイラになるまで搾取し続ける処刑装置。


通常、Bランク程度のアレスの魔力量では、吸われて気絶するのが関の山だ。最悪、廃人になる。 アレスが腕を入れていれば、今頃、無様な悲鳴を上げて失禁していただろう。


(だが、俺相手に『捕食』とはな)


シンは、穴の奥深くに指先を差し込んだ。


ガチンッ!


内部で何かが閉じる音がし、強烈な吸引力がシンの腕に襲いかかった。 魔力を、命を(すす)ろうとする、貪欲な意思。 この扉自体が、一種の魔生物として生きているのだ。


『――足リヌ。寄越セ。命ヲ、魔力ヲ、全テ――』


扉の意思が、直接脳内に響く。 粘着質で、不快な餓鬼の要求。


(……生意気だ)


シンは喰われるよりも速く、逆に「喰らい返した」。


指先から、視認できぬほどの『極小の糸(ミクロ・ワイヤー)』を無数に放つ。 糸は扉の内部構造に侵入し、魔力回路の神経系を瞬時に掌握する。


術式中枢(ハブ)への接続(コネクト)完了。


シンは、自身の内側に眠る神域(Gランク)の魔力を、ほんの一滴だけ――威圧(プレッシャー)として、糸を通じて扉へと流し込んだ。


『――開け。さもなくば、お前を喰うぞ』


それは命令ですらなかった。 食物連鎖の頂点に立つ捕食者が、下位の生物に向ける、絶対的な殺意の宣告。


ブォン……ッ!


扉が、微かに震えた。 魔道具であるはずの鉄塊が、物理的な「恐怖」を感じたかのように萎縮(いしゅく)し、機能を停止する。


吸収などできるはずがない。 コップ一杯の水で、太平洋を受け止めようとするようなものだ。 シンの魔力をまともに吸えば、この扉はおろか、この階層ごと魔力崩壊(マナ・バースト)を起こして消滅する。


扉の意思が、戦慄(せんりつ)に染まる。 『ヒッ……!? バケ、モノ……!? 許シテ、開キマス、開キマス……ッ!!』


ゴゴゴゴゴゴゴ……!!


重厚な地響きと共に、黒鉄の扉が悲鳴のような金属音を立てて、左右に開き始めた。 それは扉が開いたというより、恐怖に耐えかねて道を譲ったかのように見えた。


「――開いた!?」


アレスたちが目を見開く。 シンは何事もなかったように腕を引き抜いた。傷一つない。


「……大丈夫でした。ただの仕掛け(機巧)だったみたいです」


シンは、無垢な笑顔で報告した。


「な、なんだよ。ビビらせやがって」


アレスは安堵の息を吐き、すぐに調子を取り戻した。


「見ろ、やっぱり俺の睨んだ通りだ。大層な仕掛けに見せて、実はただの(おど)し(ハッタリ)だったってわけだ。ここを作った奴は性格が悪いぜ」


「もう、人騒がせな扉ねぇ。でも、荷物持ち君の腕が無事でよかったわ。……荷物が運べなくなると困るもの」


ミラもクスクスと笑う。 彼らはシンが無傷だった理由を、「罠自体が大したことなかったから」と解釈した。 Fランクのシンが無事なのだから、自分たちなら尚更余裕だったはずだ、と。


自分たちが、今まさに「死の(あぎと)」から救われたことなど、微塵も理解していない。


「行くぞ! この扉の先こそ、ボス部屋だ! 宝は俺たちのものだ!」


アレスが先陣を切って、開かれた扉の向こうへ足を踏み入れる。 続く三人。 彼らの背中には、もはや警戒心など欠片もない。あるのは、勝利と富への欲望だけ。


シンはその後ろ姿を見送りながら、ゆっくりと開かれた扉の枠を撫でた。 扉はまだ、シンの残留魔力に触れ、恐怖でカタカタと震えていた。


(……案内ご苦労)


シンは扉を通り抜ける。


その先に広がっていたのは、地下とは思えないほど広大な、ドーム状の空間だった。


天井は見えないほど高く、闇に溶け込んでいる。 地面には枯れた古代樹の根が網目のように張り巡らされ、その隙間を縫うように、青白い燐光(りんこう)を放つ川が流れていた。


幻想的で、美しい光景。 だが、同時に決定的に「何かが欠落している」死の世界。


「……おい、なんだありゃ」


アレスが足を止めた。


空間の中央。小高い丘の上に作られた石造りの祭壇。 その頂上に、朽ち果てた玉座が鎮座している。


そして、玉座の周囲には――無数の「氷像」が立ち並んでいた。


いや、よく見ればそれは像ではない。 かつてここに挑んだ冒険者たち――あるいは魔物たちが、恐怖の表情を浮かべたまま、瞬間凍結させられた成れの果てだ。 全身を鎧で固めた騎士。巨大なミノタウロス。 それらが、まるで玉座の主を崇めるように、永遠の跪拝(きはい)を捧げている。


そして。 玉座の上には、一人の「王」が座っていた。


豪華な法衣(ローブ)を纏い、黄金の冠を戴く骸骨(スケルトン)。 手には宝石が埋め込まれた杖を持ち、虚ろな眼窩(がんか)の奥に、青白い鬼火(ウィル・オ・ウィスプ)を揺らめかせている。


――Sランク『不死王(ノーライフキング)』。


アンデッド系モンスターの頂点に君臨する、死の超越者。 単体で国を滅ぼすことすら可能な、災厄の化身。


ピリリ、と肌が粟立つ感覚。 これまでの階層とは次元が違う、「死」そのものの気配が空間を圧迫する。


「へえ……ここが終点か」


アレスが、呑気に剣を抜く。 彼はまだ気づいていない。 自分たちが足を踏み入れた場所が、英雄の凱旋パレードの会場ではなく、捕食者が口を開けて待つ胃袋の中であることに。


シンだけが、フードの下で恍惚とした笑みを浮かべていた。


(……お出ましだな)


さあ、答え合わせの時間だ。 愚者たちの慢心が、現実という名の暴力に粉砕される、最高の狂宴(パーティー)が幕を開ける。


「……いただきます」


シンの呟きは、誰にも届くことなく、冷たい闇へと溶けていった。

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