第60話 |白き奇跡、降臨《ホワイト・ミラクル・ディセント》
王都ゼノリスの朝は、死のような静寂と共に訪れた。 普段なら市場の準備や教会の鐘の音で賑わうはずの時間だが、今の王都には、ただ重苦しい呻き声と、腐敗した空気が漂っているだけだった。
奇病『黒蜘蛛熱』。 十王・第四席サフィナが放ったその毒は、貧民街を中心に爆発的な感染を見せ、今や一般市民の居住区にまで魔の手を伸ばしていた。
中央広場の噴水前。 そこは、家を追い出された感染者や、家族を看病する人々で溢れかえり、巨大な野戦病院――あるいは死体置き場の様相を呈していた。
「水……誰か、水を……」 「お母さん、目を開けてよ……」
石畳の上で泥にまみれ、黒い蜘蛛の痣を浮かべて死を待つ人々。 彼らの瞳からは、既に希望の光が消え失せている。 王城への救助要請は無視され、頼みの綱であった教会も「感染防止」を理由に固く扉を閉ざした。 神も王も、自分たちを見捨てたのだという絶望が、病魔以上の速度で彼らの心を殺していた。
広場の隅で、一人の老婆が枯れ木のような手を空へ伸ばした。 「神様……どうか、孫だけでも……」 その腕にも、禍々しい黒い痣が広がっている。
――その時だった。
キィィィィィィン……。
突如として、広場の空気が震えた。 耳鳴りのような澄んだ高音が響き、人々が虚ろな顔を上げる。
「な、なんだ……?」 「空が……光って……?」
薄暗い曇天の空が、一点から割れた。 そこから差し込んだのは、目を焼くほどの純白の光。 光は柱となって広場の中央に降り注ぎ、眩い粒子となって大気を浄化していく。
それは自然現象ではない。高度な魔導技術による演出だ。 昨夜のうちに十王・第九席ヴォルカンが組み上げた骨組みに、第十席シノが精製した高純度の『魔光石』と、音を反響させる『共鳴水晶』を配置した、一夜城ならぬ「一夜舞台」である。
光が収まった時。 広場の中央には、神殿のような白亜のステージが出現しており、その上に二人の乙女が立っていた。
一人は、純白の修道服に身を包み、黄金の髪をなびかせた聖女。 背中には魔力で織り上げられた光の翼を背負い、その笑顔は慈愛そのもの。 レギオン幹部・四天、『慈愛の聖女』ミラである。
そしてもう一人。 ミラに寄り添うように立ち、静かにフードを脱いだ銀髪の少女。
その顔があらわになった瞬間、広場にいた数千の市民が、そして遠巻きに様子を見ていた衛兵たちさえもが息を呑んだ。
「あ……あの方、は……」 「嘘だろ……? まさか……」
透き通るような白磁の肌。宝石のような紫のアメジストの瞳。 かつて「王国の一輪の白百合」と謳われながら、無実の罪で幽閉され、死亡説さえ流れていた悲劇の姫君。
「第三王女……セリス様……!?」
どよめきがさざ波のように広がる。 死んだはずの王女が、神々しい光を纏って帰還した。その事実は、死に瀕した人々の心に、雷に打たれたような衝撃を与えた。
「愛する民よ。……苦しかったでしょう」
セリスが口を開く。 シノが配置した『風の精霊石』の効果により、その声は優しく、しかし力強く王都の隅々まで響き渡った。
「王城の者たちは、貴方たちの苦しみから目を背けました。門を閉ざし、自分たちだけの安全な場所で宴に興じている。……貴方たちを見捨てたのです」
静まり返る広場。 誰もが薄々感じていた事実。だが、それを王族である彼女が断言したことで、それは確固たる「真実」となり、民衆の胸に突き刺さった。
「ですが、私は見捨てません。……私には、神より遣わされた『救済の力』があります」
セリスは両手を広げ、ドラマチックに宣言した。 その瞳に宿るのは、かつての弱々しい少女の面影ではない。 国を盗り、新たな支配者となる覚悟を決めた、女王の輝きだ。
「この身に流れる王家の血に誓って、私は貴方たちを救います。……今こそ、大いなる癒やしを!」
セリスが合図を送る。 隣に控えていたミラが、恭しく一礼し、手にした純白の錫杖を掲げた。
「――聖域展開。広域浄化!!」
カッ……!!!
世界が白に染まった。 ミラの杖から放たれたのは、王都全体をドーム状に覆い尽くす、規格外の光魔法。 だが、それはただの光ではない。 サフィナが開発した特効薬『女神の涙』をナノ単位の霧状に変換し、光魔法に乗せて散布するという、レギオン独自の複合魔術だ。
光の粒子が、雪のように降り注ぐ。 それは屋根を抜け、路地裏を満たし、死に瀕していた人々の肌へと染み込んでいく。
「あ……温かい……」
広場の片隅で、死にかけていた老婆が呟いた。 光に触れた瞬間、体中を走っていた激痛が嘘のように引いていく。 呼吸が楽になる。冷たかった手足に血が通う。 そして何より――。
「き、消えた……!? 痣が、消えたぞ!!」
誰かが叫んだ。 腕を捲り上げた男の皮膚から、あの忌まわしい黒い蜘蛛の痣が、湯気のように蒸発して消え去っていたのだ。 それだけではない。衰弱していた体力さえもが、ミラの回復魔法によって漲ってくる。
「俺もだ! 熱が下がった!」 「マ、ママ……? ママ!!」
動かなくなっていた母親が、咳き込みながらも目を覚ます。その顔色は、死人の土気色から、生気ある薔薇色へと変わっていた。 あちこちで歓喜の声が上がる。 立ち上がり、抱き合い、涙を流して喜ぶ人々。
奇跡。 それ以外の言葉が見つからなかった。 王国の最高医療機関が匙を投げた不治の病が、たった一瞬の魔法で根絶されたのだ。
「おお、神よ……!」 「いや、神じゃない……セリス様だ! セリス様が救ってくださったんだ!」
一人の男が、壇上のセリスに向かって跪いた。 それが連鎖する。 波打つように、広場を埋め尽くす数千の民衆が次々と膝をつき、祈りを捧げ始めた。 彼らにとって、教会に祀られた石像の神など、もはやどうでもよかった。目の前で自分たちを救ってくれた生きた女神こそが、真の信仰対象となったのだ。
「セリス様万歳!!」 「我らが救世主万歳!!」
爆発的な熱狂。 それは単なる感謝を超え、狂信に近いエネルギーとなって渦巻いた。
その光景を、壇上のセリスは静かに見下ろしていた。 彼女は民衆に手を振りながら、口元に聖母のような笑みを浮かべる。
(……ええ、崇めなさい。貴方たちの命は、シン様によって『生かされた』に過ぎない。これからは、その命のすべてを使って、あの方のために働きなさい)
彼女は完全に「こちら側」の住人となっていた。 かつて自分を虐げた国への復讐心と、自分を救い出し、居場所と力を与えてくれたシンへの絶対的な愛。それが彼女の原動力だ。
――広場を見下ろす時計塔の上。 その熱狂を、二人の影が見つめていた。 Sランク冒険者アレスと、15歳の姿をしたシンである。
「……計算通りだな。サフィナの薬も、ミラの演技も完璧だ」
アレスが腕を組んで頷く。 その顔には、計画の成功を確信した笑みが浮かんでいる。
「ああ。民衆は単純で扱いやすい。『恐怖』を与えてから『救済』すれば、簡単に依存してくれる」
シンは退屈そうに欠伸を噛み殺した。 彼にとって、眼下の数万人の熱狂など、盤上の駒が整列した程度のことだった。 この奇跡も、感動も、すべては彼の手のひらの上で踊らされているに過ぎない。
「これで『民心』は掌握した。……だが、まだ足りんな」
シンは冷徹な瞳で広場を見下ろす。
「アレス。……今こそ、お前の出番だ。セリスだけじゃない。この国を救った『武力』として、我々の名を刻み込め」
「御意、我が主」
アレスが恭しく一礼し、時計塔から飛び降りる。 風を切り、彼は民衆の視線が集まるステージへと、英雄らしく着地した。
ドォォォンッ!
派手な着地音と共に、土煙が上がる。 民衆が驚いて静まり返る中、煙の中から現れたのは、深紅の髪とマントをなびかせた、武闘大会の覇者――『紅蓮の獅子』アレスだった。
「み、見ろ! あの方は……!」 「Sランク冒険者、アレス様だ!」
セリスが優雅に一歩下がり、アレスを立てる。 アレスは堂々と胸を張り、数万の民衆に向かって宣言した。
「民よ、聞け! この奇跡を行ったのは、セリス王女殿下と……我らレギオン『蜘蛛』である!」
その声は、新たな時代の支配者を告げる咆哮だった。
お読みいただきありがとうございます!
ついに奇跡が起きました。 サフィナの薬と、ミラのド派手な演出、そしてセリスのカリスマ性。 絶望の底にいた民衆が、一気に「セリス教」「アラクネ信者」へと変わっていく瞬間です。
裏で糸を引いているシンは、高みの見物。 「恐怖からの救済」という洗脳の手法を鮮やかに決めてくれました。
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続きます。




