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第6話 見えざる守護者と、裸の王様たち

地下迷宮(ダンジョン)奈落の寝床(アビス・クレイドル)』、第十階層。


そこは、これまでの中層エリアとは、明確に空気が異なっていた。


天井は高く、通路の幅も馬車が二台すれ違えるほど広い。


だが、その広さが逆に、底知れぬ圧迫感を生んでいた。


壁面には何千年前のものとも知れぬ壁画が描かれ、所々に飾られたガーゴイルの石像が、侵入者を値踏みするように見下ろしている。


空気はよどみ、湿った苔の匂いと、古い鉄の錆びた臭い、そして微かな死臭が混ざり合った独特の芳香が鼻腔を刺激する。


静かだ。


あまりにも、静かすぎる。


水滴が落ちる音さえしない、真空のような静寂。


「……ケッ、気味が悪い場所だぜ」


先頭を行くアレスが、苛立ち紛れに足元の小石を蹴り飛ばした。


カラン、と乾いた音が、静寂の中に反響し、闇の奥へと吸い込まれていく。


「おい、アレス。あまり音を立てないでよ。この階層の魔物は聴覚が鋭いのが多いんだから」


斥候(スカウト)役の盗賊少女、チェルシーが小声で咎めた。


彼女は周囲の気配に敏感な盗賊職だ。


この階層に入ってから、肌にまとわりつくような、ねっとりとした「視線」を感じて、神経を尖らせている。


「うるせえな。コソコソするのは性に合わねえんだよ」


アレスは聞く耳を持たず、大剣を肩に担ぎ直した。


「出てくるなら出てこいってんだ。俺の炎でまとめて消し炭にしてやる」


「もう、アレスったら。……でも、確かに静かですわね」


女司教(ビショップ)のミラも、周囲を見回して首をかしげる。


「ここまで一匹も魔物に遭遇しないなんて。……不自然だわ」


「決まってるだろ」


アレスは鼻を鳴らし、自信満々に言い放った。


「さっきの扉を開けた時、俺の膨大な魔力が流れ込んだんだ。中の雑魚どもは、Bランク最強の俺が来たことを察知して、蜘蛛の子を散らすように逃げ出したんだよ」


「なるほど! さすがアレスね!」


ミラが手を叩いて同意する。


「賢い魔物なら、アレスの『覇気』を感じ取って当然だわ。無駄な戦いをせずに済んでラッキーね」


「違いねえ。ボス部屋まで直行だ。宝箱は俺たちが総取りだな」


戦士ボルトスも豪快に笑う。


彼らの足取りは軽い。


死地への行軍ではなく、まるでハイキングにでも来たかのような緊張感のなさで、死の庭を闊歩していく。


Bランク冒険者としての成功体験が、彼らの警戒心を麻痺させている。


これまでの階層を無傷で突破できたことが、彼らに「自分たちは無敵だ」という誤った全能感を植え付けていた。


最後尾を歩くシンは、その様子を冷めた目で見つめていた。


(……愚かだな)


シンは内心で吐き捨てた。


これまでの道のりが順調だったのは、彼らが強いからではない。


彼らの背後で、シンが「掃除」をしていたからだ。


シンは、歩きながら指先を僅かに動かした。


シュッ。


風を切る音すらしない。


天井の闇に潜んでいた『大毒蜘蛛ジャイアント・ヴェノム』の群れが、一瞬にして絶命する。


シンの影から伸びた極細の『不可視の糸インビジブル・ワイヤー』が、蜘蛛たちの急所を正確に貫き、音もなく仕留めたのだ。


死体は地面に落ちる前に、シンの影から現れた眷属たちがキャッチし、闇の中へと引きずり込んでいく。


捕食と隠蔽。


流れるような手際。


さらに、通路の曲がり角に潜んでいた『影蛇(シャドウ・スネーク)』の群れも、シンが瞬きする間に首を跳ねられ、影の中へと消えた。


(……やはり、雑魚ばかりか)


シンは指先から伝わる感触で、魔物の命をすすりながら溜息をついた。


味が薄い。


腹の足しにもならない。


だが、アレスたちはそんなことには気づきもしない。


彼らが「今日は魔物が少ないな」「俺たちにビビってるんだ」と笑っている裏で、どれだけの死体が影の中で処理されたか、彼らは知る由もない。


道化師たちの行進は続く。


裸の王様が、見えない服を自慢しながら歩くように。


彼らは、見えない守護者に守られながら、死の回廊を進んでいく。


 ◇


「――ストップ!」


突然、チェルシーが鋭い声を上げて立ち止まった。


彼女は通路の床を指差し、険しい顔をする。


「……ここ、何かおかしいわ」


一行の前に広がるのは、変哲もない石畳の通路だ。


だが、チェルシーの鋭敏な感覚は、微細な違和感を捉えていた。


「床の石畳の継ぎ目が、ここだけ不自然に新しい。それに、空気の流れも微妙に変わっている」


彼女は慎重に近づき、ナイフの柄で床を軽く叩いた。


コン、コン。


空洞のような音が返ってくる。


「やっぱり。……重量感応式(ウェイト・センス)(トラップ)よ。踏めば作動するタイプね」


「罠だと?」


アレスが眉をひそめて床を覗き込む。


「解除できるか?」


「やってみる。……ボルトス、盾を構えてて。ミラは明かりを」


チェルシーが道具袋から『解錠の魔導具(アンロック・ツール)』を取り出し、慎重に床へ近づこうとした。


盗賊としての真っ当な仕事だ。


慎重に、確実に。死のリスクを回避するための定石。


だが――。


「あー、面倒くせえ!!」


アレスが突然、大声を上げて叫んだ。


洞窟内に声が反響する。


「えっ!?」


チェルシーが驚いて振り返る。


「チマチマ解除してたら日が暮れちまうだろうが! 俺たちは時間がないんだよ! こんな古臭い罠、強行突破すりゃいいんだよ!」


「ちょ、待ってアレス!?」


チェルシーの制止も聞かず、アレスは堂々とその「怪しい床」の上へと足を踏み下ろした。


あまりの暴挙。


シンですら、一瞬だけ目を丸くした。


(……自殺志願者か?)


自分の命を何だと思っているのか。


それとも、自分の幸運をそこまで過信しているのか。


ガコンッ。


重々しい音が響き、アレスの踏んだ床が沈み込んだ。


スイッチが入った。


――次の瞬間、殺意が牙を剥いた。


ヒュルルルルルッ!!


左右の壁に隠されていた射出孔が一斉に開き、無数の「黒い影」がアレスめがけて発射されたのだ。


毒矢だ。


その数、およそ五百本。


逃げ場はない。


回避も防御も間に合わない、必殺の飽和攻撃。


先端に塗られた紫色の液体は、掠っただけで象をも殺す神経毒(パラライズ・ポイズン)だ。


「――ッ!?」


アレスの表情が凍りつく。


自慢の炎を出す暇もない。


剣を構える時間もない。


死が、刹那(せつな)の後に迫っていた。


瞳孔が開く。


時間が引き伸ばされる。


死ぬ。


そう確信した瞬間――。


キィィィィィィンッ!


金属音とも風切り音ともつかない鋭い音が、一瞬だけ空間を切り裂いた。


アレスの目の前、鼻先数センチの空間で。


迫り来る毒矢の全てが、まるで透明な壁にぶつかったかのように弾き飛ばされたのだ。


カンッ、キンッ、パパパパンッ!


無数の矢が、見えない何かに阻まれ、へし折られ、軌道を逸らされる。


バラバラバラ……。


折れた矢が、アレスの足元に虚しく散らばる。


矢の雨が止んだ。


アレスは、呆然と立ち尽くしたままだった。


自分の体を見下ろす。


傷一つない。


一本の矢も、彼の鎧に触れてさえいなかった。


「……は?」


アレスの口から、間抜けな声が漏れる。


ボルトスもミラも、口を開けたまま固まっている。


チェルシーに至っては、腰を抜かして座り込んでいた。


何が起きたのか、誰にもわからなかった。


――誰にも、ではない。


最後尾にいたシンだけが、静かに指先を戻していた。


(……世話の焼ける)


シンは音もなく溜息をついた。


矢が発射された瞬間。


シンは『【蜘蛛操作スパイダー・コントロール】』により、自身の指先から数千本の極細の糸を放っていた。


音速を超える速度で飛来する矢の一本一本を、正確無比な糸の鞭で叩き落とし、あるいは絡め取って切断したのだ。


それは、人間の動体視力を遥かに超えた神業。


一瞬の間に五百回の迎撃を行う、超高速の精密動作。


だが、その速度はあまりに速すぎたため、アレスたちの目には「矢が勝手に落ちた」ようにしか見えていない。


沈黙が支配する通路。


アレスの足元には、折れた毒矢の山ができている。


やがて、我に返ったアレスが、足元の矢を見下ろし――そして、ニヤリと笑った。


「……フン、なるほどな」


彼は髪をかき上げ、勝ち誇ったように言った。


「見たか? 今の俺の『闘気(オーラ)』を」


「え?」


チェルシーが目を白黒させる。


「俺が放った剣気が、空気を圧縮して矢の軌道を狂わせたんだよ。……まったく、俺クラスになると、無意識のうちに身体が反応しちまうらしい」


アレスは本気で言っていた。


恐怖で思考が停止した脳が、生存した事実を正当化するために、都合の良い解釈(妄想)を作り出したのだ。


自分が死ぬはずがない。


助かったのは、自分の力だ。


そう思い込まなければ、精神が崩壊してしまうからだ。


「井の中の蛙、大海を知らず」と言うが、彼は井戸の中にいることすら気づいていない。


「す、すごい……!」


ミラが手を合わせて瞳を輝かせた。


「魔法も使わずに、気迫だけで物理攻撃を防ぐなんて……! アレス、あなた本当に人間なの!? やっぱり英雄の器だわ!」


「お、おう……俺も見えなかったぞ。一瞬で空気が揺らいだと思ったら、矢が落ちていた」


ボルトスも感心したように頷く。


彼らの中では、今の現象は「アレスの覚醒」として処理されたようだ。


(……おめでたい連中だ)


シンは表情筋を総動員して、笑い出しそうになるのを堪えた。


もしシンがいなければ、アレスは今頃、ハリネズミになって全身紫色の死体と化していたはずだ。


命を拾ったことに感謝するどころか、それを自分の手柄にするその図太さ。


ある意味、才能かもしれない。


「す、すごいですねアレス様! 僕、何も見えませんでした! これがBランク最強の力なんですね!」


シンは目をキラキラさせて、全力で太鼓持(たいこも)ちを演じた。


アレスの自尊心を膨らませれば膨らませるほど、後で弾けた時の音が大きくなる。


これは、そのための隠し味(エッセンス)だ。


「ハッハッハ! まあな、Fランクのお前には一生理解できない領域だろうよ。安心しろ、俺のそばにいれば、お前みたいな雑魚でも泥船に乗った気でいられるぜ!」


「大船、じゃなくて?」


「細かいことは気にするなチェルシー! 行くぞ、この程度の罠じゃ俺は止まらねえ!」


アレスは上機嫌で歩き出した。


その背中は、先ほどよりもさらに隙だらけになっていた。


自分の幸運を実力と勘違いした人間ほど、脆いものはない。


シンは、皆が歩き出した隙に、足元に散らばる毒矢の一本を、誰にも気づかれないように糸で回収した。


そして袖の中で、矢尻に塗られた紫色の毒を指先で拭い、舐め取った。


ピリリ。


舌先に走る痺れ。


そして、脳髄を焼くような熱。


(……捕食(イート)


毒が体内に取り込まれ、分解されていく。


シンの肉体が、毒の成分を解析し、抗体を生成し、新たな力として吸収する。


毒によるダメージなどない。


彼にとって、毒とはスパイスの効いたスープのようなものだ。


ドクン。


心臓が跳ねる。


解析完了アナライズ・コンプリート。……因子(ファクター):【神経毒耐性(ポイズン・レジスト)】を獲得』


(……毒の質は悪くない。だが、使い手が三流以下だ)


シンは回収した矢を握りつぶし、粉にして捨てた。


一行はさらに奥へと進む。


アレスの慢心は加速し、ミラたちの警戒心も薄れていく。


「アレスがいれば大丈夫」という根拠のない安心感が、パーティ全体を腐らせていた。


だが、シンは感じ取っていた。


この階層の空気中に漂う、微かな違和感を。


ただの魔物ではない。


もっと異質で、強大な「何か」の気配が、奥底で胎動している。


冷たい風に乗って、甘い死臭が漂ってくる。


それは、生者を拒絶する冥府の王の香り。


(……この気配。数万年前に食べた『不死者』の残滓に似ているな)


シンは前を行く四人の背中を見ながら、口元を歪めた。


あいつらはまだ気づいていない。


自分たちが向かっているのが、栄光の玉座ではなく、絶望の断頭台であることに。


(そろそろ、メインディッシュの時間か)


シンは舌なめずりをした。


お前たちのその自信が、本物の絶望を前にした時、どんな音を立てて砕けるのか。


そして、その奥に眠る「王」が、どんな味をするのか。


楽しみで仕方がない。


「……気をつけてくださいね。足元」


シンの低い呟きは、誰にも届くことなく闇に溶けた。


彼らの足音は、静かに、しかし確実に、破滅へと向かっていた。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!

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執筆のモチベーションになりますので、ぜひよろしくお願いします!

明日も18時過ぎに更新します。

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