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第53話 檻の中の観客(ウィットネス)

重厚なオーク材のテーブルに、ドサリと湿った音が響いた。


転がったのは、この闇市場(ブラック・マーケット)を支配していた奴隷商(スレイブ・ディーラー)、ヴァルダーの生首だ。


脂ぎった頬は土気色に染まり、限界まで見開かれた双眸は、死の瞬間に味わったであろう絶望と信じがたい恐怖を、永遠に凍りつかせていた。 切断面からは鮮血が止めどなく溢れ出し、純白のテーブルクロスをどす黒い赤へと染め上げていく。


「ひっ、あ、あ……あ……!?」


ゼノリス王国第二王子バルダスは、喉の奥から空気が抜けるような情けない音を漏らし、背もたれにへばりつくように後ずさった。


思考が真っ白に染まる。 脳髄が現実を拒絶し、視界が明滅する。


状況が理解(プロセス)できない。 なぜ、裏社会(アンダー・ワールド)のドンであり、自分にとって便利な財布でもあったヴァルダーの首が、突然目の前に転がってきたのか。 そして、その首を刎ねた張本人であるはずの執事と、その主人である位階(ランク)Fの冒険者(少年)は、なぜ返り血ひとつ浴びず、平然とワインを注いでいるのか。


鉄錆の臭いが鼻腔を刺激し、胃液がせり上がってくる。


「おやまあ、これは穏やかではありませんね」


不意に、バルコニーの手すりに優雅に寄りかかっていたジェイドが、わざとらしいほど大きな声を上げた。 彼は扇子で口元を隠しているが、その碧眼は微塵も笑っていない。


「暴動の予感がします。……王子、ここは危険だ」


「じ、ジェイド! そうだ、護衛だ! 余を守れ! 貴様の私兵がいるのだろう!?」


バルダスが救いを求めるように手を伸ばす。 金で繋がった関係だ。金さえ払えば、商人は王族を守る盾になるはずだ。


だが、ジェイドは困ったように眉を下げるだけだった。


「生憎と、私の手勢は外に待機させておりまして。……すぐに救援を呼んで参ります。それまで、どうかご無事で」


「なっ!? ま、待て! 余を置いていくな! 貴様、余を見捨てる気か!」


制止も聞かず、ジェイドは身軽な動作でバルコニーを飛び越え、客席の喧騒の中へと姿を消した。 その身のこなしは、ただの商人とは思えぬほど洗練されていた。


逃げた。 バルダスは戦慄した。この男は、王族である自分を見捨てて逃亡したのだ。


「くそっ、薄情な商人め! 後で極刑にしてやる……! ……おい、貴様ら! 余を出口まで――」


バルダスが怒鳴りながら、シンとルシリウスの方を振り向いた、その時だった。


――誰も、いない。


先ほどまでソファーでワインを飲んでいたはずの少年の姿が、忽然と消え失せていたのだ。


飲みかけのグラスだけが、テーブルの上でカランと音を立てて揺れている。 椅子には座っていた窪みが残っているのに、そこに座るべき実体だけが存在しない。


「え……? き、消えた……?」


バルダスは目を擦った。 魔法による転移か? それとも、最初から幻覚だったのか?


その場に残っているのは、無表情で佇む執事――ルシリウスただ一人。 白と黒のマーブル模様の髪を持つその男は、主人が消えたことになど動揺もせず、ただ彫像のように美しく、冷酷に立ち尽くしている。


「お、おい執事! あのガキはどこへ行った! お前だけでもいい、余を守れ!」


バルダスが命令するが、ルシリウスは動かない。 そのオッドアイ――黄金と深紅の瞳が、バルダスを射抜く。 そこには、敬意も忠誠もない。あるのは、実験動物を見るような無機質な観察眼だけだ。


実は、シンは消えたのではない。


以前、ネメシスへ向かう道中の荒野で捕食(イート)した変色カメレオン種の魔物から奪った才能(ゼロ)――【幻影迷彩(ファントム・ヴェール)】を発動し、周囲の光の屈折率を操作して「透明」になっただけなのだ。


今のシンは、バルダスの鼻先、わずか数センチの距離に立っている。 怯える王子の息遣い、流れ落ちる脂汗、そして魂の震えを、特等席で観察している「不可視の指揮者」。


(ルシリウス。……特等席(VIP・シート)で、じっくり見せてやれ)


(御意に)


主の念話(テレパス)を受け、ルシリウスが恭しく一礼する。


「お逃げにならないので? バルダス殿下」


「ひっ……! き、貴様、何者だ……! その目はなんだ!」


「我が(あるじ)は、少しばかり『演出』に回られました。……さあ、殿下はこちらへ。ショーが始まります」


ルシリウスが優雅に指を振るうと、貴賓室の入り口に透明な魔力障壁(マジック・バリア)が展開された。 空間そのものが断絶され、外界との退路が物理的に断たれる。


「な、なんだこれは!? 出られない!?」


バルダスが扉を叩くが、ビクともしない。 ここはもう、安全な高みの見物席ではない。断崖絶壁の孤島であり、逃げ場のない檻だ。


その直後。 眼下のステージで、異変が起きた。


キィィィィィン……!


耳障りな金属音が響き、巨大な檻の錠前が、内側から弾け飛んだのだ。


誰かが鍵を開けたわけではない。 透明化したシンが、指先から放った極細の神糸(ゴッド・ワイヤー)を錠の術式(コード)の隙間に潜り込ませ、内部の機構中枢(コア)を物理的に破壊したのだ。


さらに、シンは檻の中に囚われた数百の奴隷たち――エルフ、ドワーフ、獣人たちに向けて、不可視の波動を放った。


『――食い破れ』


会場の空気そのものが震えた。 それは耳に聞こえる声ではなく、脳髄に直接響く強制命令(ギアス)


シンが放った【精神汚染(マインド・ハック)】の波動が、檻の中の奴隷たちの理性を粉々に粉砕し、底なしの「殺意」と「飢餓感」を植え付ける。 長年の虐待で培われた恐怖心も、諦めも、全てが塗りつぶされ、ただ一つの命令だけが焼き付く。


――目の前の敵を、殺せ。


「ア……アア……ガァァァァッ!!」


奴隷たちの瞳が、一瞬にして赤く染まった。 血管が浮き上がり、筋肉が異常に膨張する。 首輪に施されていた拘束魔法など意味を成さない。シンの神域の魔力が彼らの身体能力を限界まで引き上げ、痛覚回路(ペイン・パス)を遮断する。


ドガァァァン!!


檻の鉄格子が飴細工のようにねじ切れ、数百の「獣」が会場へ解き放たれた。


「な、なんだ!? 商品どもが逃げ出したぞ!」


「鎮圧しろ! 殺しても構わん! おい、遠隔操作の宝珠(オーブ)を使え!」


商人の一人が、慌てて懐から水晶の宝珠を取り出す。奴隷の首輪に呪いの雷撃(カース・ショック)を流し、脳を焼くための非人道的な魔道具だ。


「言うことを聞け! この家畜どもが!」


商人が魔力を込める。 だが、何も起きない。 奴隷たちは止まるどころか、さらに速度を上げて迫ってくる。


「な、なぜだ!? なぜ効かん!」


当然だ。その回路(パス)は既に、シンの放った極微ミクロの魔毒蟲(バグ)によって食い荒らされ、無効化されていたのだから。


「くそっ、動かん! 故障か!?」


商人が悪態をついた瞬間。


一人の獣人の少女が、弾丸のような速度で飛びかかり、その喉笛を食い破った。


ブシュゥゥゥッ!!


鮮血の噴水が上がり、ステージを赤く染める。 商人は声にならない悲鳴を上げ、喉を押さえて倒れ込む。


「ヒャハッ! アハハハハハハ!!」


少女は口の周りを血で汚しながら、狂ったように笑った。 その瞳孔は開ききり、人間としての理性は欠片も残っていない。


それが合図だった。


ドワーフが、エルフが、人間が。 商品として扱われてきた彼らが、一斉に牙を剥き、観客席の富裕層たちへと雪崩れ込む。


「ぎゃあああああッ!!」


「助けてくれ! 金ならある! やめろォォッ!」


阿鼻叫喚。 まさに地獄絵図だ。


豪華なドレスが引き裂かれ、宝石が血にまみれて転がる。 命乞いをする貴族の顔面を、ドワーフの怪力がトマトのように粉砕する。 逃げ惑う商人の足を、エルフの魔法が切断する。 魔法使いが詠唱しようとすれば、喉ごと食いちぎられる。


一方的な虐殺。 積年の恨みが、暴力という形をとって爆発していた。


「あ、あ、あ……」


バルダスは、強化水晶(クリスタル)張りのバルコニー越しに、その光景を見下ろしていた。 足の震えが止まらない。 失禁した生温かい感覚が股間に広がるが、それを気にする余裕すらなかった。


自分が座っていたはずの安全な場所が、一瞬にして処刑場へと変わった。 ガラス一枚隔てた向こう側で、知人であった貴族たちが、肉塊へと変わっていく。


「美しいですね、殿下」


ルシリウスが、まるで花畑でも眺めるような口調で囁いた。 彼はバルダスの背後に立ち、逃げられないように肩を掴んでいる。その手は優しく置かれているように見えるが、万力のように動かない。


「ご覧ください。あれが、あなたがた王族が作り上げた『平和』の正体です。搾取された者たちの怒りは、かくも鮮烈で、情熱的だ」


「やめろ……見たくない……ここから出してくれ……!」


バルダスが泣き叫び、ルシリウスに掴みかかる。 だが、執事は動じない。 そのオッドアイが、冷酷な光を帯びて王子を見下ろした。


「いけません。これは貴方への『教育』です。しっかりと目に焼き付けなさい」


ルシリウスがバルダスの頭を鷲掴みにし、強制的に戦場の方へ向けさせる。 首の骨が軋むほど強い力で固定され、まぶたを閉じることすら許されない。 魔力によってこじ開けられた瞳に、人がゴミのように死んでいく様が映し出される。


その時。


血飛沫の舞う会場の中央に、ゆらりと「影」が実体化した。


透明化を解いたシンだ。


彼は返り血一つ浴びていない。 飛び交う肉片も、噴き出す鮮血も、まるで彼を恐れて避けているかのように、彼の衣服を汚すことはない。 彼は死体の山の上に立ち、まるで散歩でもするかのように優雅に歩いている。


「…………ッ!?」


バルダスは息を呑んだ。


あの少年だ。 Fランクの、弱々しい荷物持ちの少年。


だが、今の彼は違う。 狂乱する奴隷たちの中心にいながら、誰からも襲われていない。 それどころか、理性を失ったはずの奴隷たちは、少年が近づくと本能的な恐怖に駆られ、道を開けている。


少年が、指揮棒を振るうように指先を動かすたび、奴隷たちの殺戮の波が形を変え、逃げ遅れた貴族を的確に追い詰めていく。


――支配している。


この地獄を。この怪物を。 このFランクの子供が。


シンはゆっくりと顔を上げ、貴賓席のバルダスと目が合った。


距離にして数十メートル。 だが、その視線はバルダスの心臓を直接貫いた。


ニヤリ。


三日月のように口角を吊り上げ、少年は音のない言葉を紡いだ。


『――次は、お前の番だ』


「ヒィッ!!!」


バルダスの精神が限界を迎えた。 絶叫し、白目を剥いて倒れそうになる。


だが、気絶することすら許されなかった。 ルシリウスが即座に回復魔法をかけ、意識を強制的に覚醒させたからだ。


「まだ終わりではありませんよ、殿下。……フィナーレはこれからです」


ルシリウスがバルダスの首筋に手刀を当てた。 今度は、眠らせるためではない。 体内の魔力神経(マナ・ナーヴ)に干渉し、運動機能だけを遮断して「体の自由」を奪うためだ。


「あ……う……」


糸の切れた人形のように崩れ落ちるバルダス。 意識はある。目も見える。耳も聞こえる。だが、指一本動かせない。 自分の体が自分でないような、絶対的な無力感。


ルシリウスは動かなくなった王子を、まるでゴミ袋か何かのように担ぎ上げた。


「さて。ジェイドが『救済部隊』を引き連れて戻ってくる頃合いです。……我々は退場するとしましょうか」


ルシリウスの足元に、漆黒の魔法陣が展開される。


影渡り(シャドウ・ゲート)】。


それは、レギオンの拠点――地下深くにある本拠地『地下宮殿(アンダー・ネスト)』へと繋がる直通の道。 二度と戻れぬ、奈落への片道切符。


「連れて、いくのか……?」


バルダスが消え入るような声で問う。 それが、人間としての最後の言葉になった。


ルシリウスは慈愛に満ちた、聖職者のような微笑みを浮かべた。


「ええ。貴方には、これから我が主の『所有物』として、永遠に闇の中で生きていただくことになります。……光栄に思いなさい」


ズブブブブ……。


影がバルダスの体を飲み込んでいく。 冷たい闇が全身を包み込む。


視界の最後に見えたのは、ジェイド率いるレギオンの部隊が「正義の味方」として会場に突入し、生き残った貴族たちに契約書を突きつけている光景だった。


「さあ、選んでください! 獣の餌になるか、私の大事な『顧客』になるか! 全財産と引き換えに、命を救って差し上げますよ!」


ジェイドの高らかな声。 それに縋り付き、涙を流して全財産を差し出す愚かな貴族たち。


国が、乗っ取られる。 その事実を誰にも伝えられないまま、第二王子バルダスは、王都の光届かぬ地下の底へと堕ちていった。


後に残されたのは、レギオンによって「救済」され、全てを奪われた貴族たちと、新たな主を得た奴隷たち。


そして、全てを闇から操る一匹の蜘蛛(スパイダー)だけであった。

本日もお読みいただき、本当にありがとうございます!

これにて『闇市場・オークション編』、完結です。

傲慢な王子を「殺さずに」絶望の底へ突き落とす、シン様なりの慈悲(?)深い制裁でした。

ジェイドの商人としてのえげつなさも、書いていて楽しかったです。


【読者の皆様へのお願い】

少しでも「面白かった!」「続きが気になる!」「王子の末路にスッキリした!」「レギオン最強!」と思っていただけましたら、

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何卒、よろしくお願いいたします!


続きます。

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