第50話 堕天の執事
世界には、決して触れてはならない「深淵」がある。
人が覗き込めば発狂し、神が覗き込めば顔を背けるような、絶対的な闇。
城塞都市ネメシスの地下深く。
迷宮の階層構造すら無視して存在する異次元領域――【地下宮殿】。
その最奥に位置する「儀式の間」は、今、物理的な重量を持った沈黙に支配されていた。
カツン、カツン、と。
玉座の肘掛けを指で叩く音が、広大な空間に虚しく響く。
「――遅い」
玉座に深く腰掛けた青年が、不機嫌そうに呟いた。
シン。
この地下帝国の絶対支配者にして、唯一無二の【始祖】。
今の彼の姿は、地上で人を欺くための「15歳の少年」ではない。
本来の姿である18歳の青年。
少し伸びた漆黒の髪が額にかかり、その奥で輝く瞳は、以前のような黒ではない。
血の池を煮詰めたような、鮮烈で禍々しい『深紅』。
ただ座っているだけで、周囲の空間がその魔力に耐えきれず、ジジジ……と悲鳴のような雑音を上げている。
「も、申し訳ありんせん、シン様ぁッ! ですが、次元の裂け目をこじ開けるには、もう少し二人の才能を『共鳴』させねばならず……!」
「そ、そうよ! 私の『不死』と、このメス蜥蜴の『虚無』を混ぜるなんて、無茶苦茶なんだから! あと数秒……待って!」
玉座の足元、冷たい石床に額を擦り付けているのは、二人の絶世の美女だ。
一人は、艶やかな和装を着崩した黒髪の美女、夜霧。
その背には、身の丈を超える長さの禍々しい『三叉槍』が背負われている。海を割り、天を穿つ伝説級の武具だが、今は主の前で小さくなっている。
もう一人は、雪のように『純白のゴスロリドレス』を纏った金髪の少女、リリア。
可愛らしい外見とは裏腹に、その傍らには、自身の身長よりも巨大な『処刑用の大鎌』が浮遊している。
SSランク(天災級)である「黒龍」と「真祖」。
地上に出れば、たった一人で大国を更地に変えるほどの化け物たちが、今はまるで雷雨に怯える子犬のように震え上がっている。
彼女たちの視線の先――祭壇の中央には、一本の「鍵」が浮遊していた。
【界渡りの鍵】。
夜霧の持つ【虚無】の才能と、リリアの持つ【不死】の才能。その二つをシンの【才能捕食】で合成し、精製された漆黒の鍵だ。
それは、次元の狭間に封印された「彼」を呼び戻すための唯一の道標。
「……ふん。待たせるのが好きな男だ」
シンは組んだ足を組み替え、深紅の瞳を部屋の隅へと向けた。
そこには、四人の男女が直立不動で控えている。
組織の表の顔、レギオン最強戦力である「四天」のアレスたちだ。
彼らの顔色は、一様に土気色だった。
脂汗が滝のように流れ、呼吸すら浅い。心臓の早鐘が、この静寂の中でうるさいほどに鳴り響いている。
無理もない。目の前にいるのは「神」と「二体の魔王(夜霧・リリア)」。
その三者が発するプレッシャーの渦の中に放り込まれ、気絶せずに立っているだけでも称賛に値する。
だが、彼らの恐怖はそれだけではなかった。
(く、来る……。この化け物二人が、揃って『格上』と認める存在が……!)
アレスは震える拳を必死に握りしめていた。隣に立つ巨漢の戦士ボルトスも、鋼鉄のような筋肉を強張らせ、生唾を飲み込んでいる。
夜霧とリリアという「新入り」の時点で、自分たちとは次元が違うことは嫌というほど理解らされた。
その二人が、さらに「上の存在」が来ると聞いて、わかりやすくビビっている。
これから現れるのがどれほどの怪物か、想像するだけで胃が捻じ切れそうだった。
「見届けろ、四天。そして新入りども」
シンの声が、死刑宣告のように響く。
直後。
シンが右手を、ゆらりと掲げた。
浮遊していた【界渡りの鍵】が、見えない手に掴まれたかのように加速し、空間の「何もない一点」に突き刺さる。
――ギィィィィィンッ!!
鼓膜を劈くような高周波音と共に、世界に「亀裂」が入った。
ガラスが割れる音ではない。世界の「理」そのものが砕け散る音だ。
空間に走った黒い亀裂。
そこから溢れ出したのは、闇よりもなお昏い、絶対的な「無」の気配。そして、相反するように眩い「聖」なる輝き。
「ひっ……!?」
四天の一人、ボルトスが本能的な恐怖で尻餅をついた。
重い。
空気が、魔力が、存在そのものが重すぎる。
物理的な重力ではない。魂の格の違いが、強制的に肉体を地面へと押し付けるのだ。
位階SSS(破滅級)。
それは、単体で大陸の地図を書き換える災害の具現化。
ズ、ズ、ズ……。
裂け目から、革靴の足音が響いた。
一歩。また一歩。
その足音が響くたびに、儀式場の蝋燭の炎が青ざめ、揺らめく。
そして、「それ」は現れた。
漆黒の燕尾服を、一点のシワもなく着こなした長身の男。
白手袋に包まれたしなやかな指先。
陶器のように白い肌と、整いすぎた美貌。
片眼鏡の奥で妖しく光る瞳は、一方が黄金(天使)、もう一方が深紅(悪魔)のオッドアイ。
何より異質なのは、その髪色だった。
夜の闇を溶かしたような漆黒と、雪のような純白。その二色が混ざり合い、大理石模様を描いている。
聖なる光と、冒涜的な闇。
相反する二つの属性を完璧に内包した、禁忌の存在。
背中には、六枚の翼。
右に三枚の白き翼。左に三枚の黒き翼。
――堕天使。
かつて神の座に最も近かった天使でありながら、自ら闇へと堕ちた最強の背教者。
男は音もなく床に降り立つと、周囲のSSランクたちを一瞥すらせず、流れるような所作でシンの前へと歩み寄る。
その動きは、戦闘の予備動作が一切ない。あまりにも自然で、あまりにも無防備。
だが、誰もが直感した。
もし今、彼に指一本でも触れようとすれば、次の瞬間には原子レベルで消滅させられると。
男は玉座の最下段で立ち止まり、優雅に裾を払って膝をついた。
深く、深く頭を垂れる。
それは、世界でたった一人、この玉座の主だけに捧げられる最敬礼。
「――お待ちしておりました、我が主」
その声は、極上のベルベットのように滑らかで、聞く者の背筋を甘く痺れさせるバリトンだった。
「不肖ルシリウス。掃除と洗濯、そしておやつの準備を終えて、ただいま戻りました」
顔を上げた彼の表情を見て、四天たちは息を呑んだ。
恍惚。
そうとしか表現できない表情だった。
深紅の瞳をした主を見上げるその眼差しは、信仰と崇拝、そしてドロドロとした狂愛に満ちて潤んでいる。
まるで、シンという存在そのものが、彼にとっての酸素であり、太陽であり、生きる理由のすべてであるかのように。
「遅いぞ、ルシリウス。待ちくたびれて、自分で茶を淹れるところだった」
シンは頬杖をついたまま、わざとらしく溜息をついてみせる。
「ッ……! ああっ、なんと……!」
ルシリウスは絶望したように顔を覆った。
「主の尊い御手を、下賤な茶器などに触れさせようとした私の罪……! 万死に値します。今すぐこの首をねじ切って詫びるべきか、それとも世界を一つ滅ぼして供物とすべきか……ああ、私の心臓をえぐり出して捧げれば、少しはお許しいただけますでしょうか?」
ブツブツと物騒な独り言を呟き始める執事。その瞳孔は開ききっており、正気ではない。
主のためなら、自分の命などチリ紙よりも軽く捨てる覚悟が見て取れる。
「冗談だ。座興はいい、立て」
「はッ、ありがたき幸せ!」
主の許しを得た瞬間、ルシリウスはスッと立ち上がった。
先ほどまでの悲壮感はどこへやら、涼しい顔で燕尾服の埃を払う。感情の切り替えが早すぎて怖い。
彼はゆっくりと振り返り、室内の温度を絶対零度まで低下させる冷徹な眼差しで、周囲を見渡した。
「……ほう。これらが、私の不在中に集めた『家具』ですか」
ルシリウスの視線が、夜霧とリリア、そして四天を射抜く。
「品性下劣、魔力粗雑、態度最底辺。……シン様、これらを『部下』と呼ぶのは冗談がきつすぎませんか? 肥料の間違いでは?」
「なっ……!?」
リリアがカッとなって立ち上がろうとする。
だが、動けない。
ルシリウスから放たれるプレッシャーだけで、金縛りのように体が言うことを聞かないのだ。
(な、何なのコイツ……!? ワタシ、真祖よ!? SSランクよ!? 睨まれただけで指一本動かせないなんて……!)
「紹介しておこう」
シンが淡々と告げる。
「そこの生意気な吸血鬼がリリア。和装の龍が夜霧だ。私のために体を張って『鍵』の素材となった」
「……なるほど」
ルシリウスは片眼鏡を光らせ、二人を値踏みするように見下ろした。
「私が現界するための『触媒』に使われた【才能】……。龍と吸血鬼でしたか。道理で、この部屋が獣臭いと思いました」
「き、貴様……!」
夜霧がギリっと歯を食いしばる。
だが、ルシリウスは興味なさげに視線を外し、部屋の隅の四天へと目を向けた。
「そして、そこの震えている小動物たちは?」
「四天だ。表の組織を任せている」
「四天、ですか。……ふっ」
ルシリウスは鼻で笑った。
「ずいぶんと敷居を下げましたね。私の基準では、彼らは『歩くタンパク質』にしか見えませんが」
屈辱。
だが、誰も反論できない。
圧倒的な「格」の差。
この男にとって、自分たちは会話する価値のある「知的生命体」ですらないのだ。
「まあ待て。これから『教育』をする。そのために呼んだのだ」
シンは愉しげに笑い、手元のグラスを掲げた。
深紅の瞳が、面白そうに三人の怪物を眺めている。
「ルシリウス。これより貴様を筆頭に、夜霧、リリアの三名を最高幹部【三禍】と定める」
「はッ」
「そして四天、十王、末端へと続く『魔力循環』を完全なものとせよ。……今の雑な繋ぎ方では、私の魔力が無駄に漏れ出ている」
シンは空中に指で図を描く。
シンから三禍へ。三禍から四天へ。そして末端から吸い上げた力が、再びシンへと還る永久機関。
その構造を見た瞬間、ルシリウスのオッドアイが感嘆に見開かれた。
「なんと……! 主が座しているだけで、我々が勝手に肥え太り、その極上の果実を再び主が食らう……。素晴らしい。あまりにも美しい搾取の理!」
ルシリウスは感動に打ち震えながら、虚空を見つめた。
彼の魔眼には、現在稼働しているネットワークの「見えない糸」が見えているのだ。
「既に恩恵の糸は繋がっているようですが……美しくない」
ルシリウスは辛辣に断じた。
「これでは、シン様が個別に魔力を供給しているようなもの。主の無尽蔵な魔力に甘えた、極めて効率の悪い『浪費構造』です。……美意識が欠けている」
「だから呼んだのだ。私の魔力を効率よく運用できるよう、間に『変換機構』を噛ませろ」
「御意に」
ルシリウスは優雅に一礼し、両手を広げた。
「承知いたしました、我が主。この不肖ルシリウス、既存の網を『三禍経由』へと紡ぎ直しいたします」
くるり、と。
執事は四天たちに向き直った。
その顔には、蜘蛛の巣の『大動脈』としての冷徹さと、サディスティックな笑みが浮かんでいる。
「おい、そこの家畜ども。光栄に思いなさい」
ルシリウスの声に、アレスたちがビクリと震える。
「現在、貴方たちに結ばれている糸を、我々『三禍』の太い糸へと繋ぎ変えます。……これにより、流れ込む魔力の純度と奔流は桁違いに跳ね上がる」
にこり、と。
ルシリウスは天使のように美しく、悪魔のように残酷に宣告した。
「魂が焼き切れて廃人にならないよう……死ぬ気で耐えなさい? これは『進化』という名の拷問ですよ」
夜霧は悟った。
(こいつは……ヤバい。シン様とは別ベクトルの、管理狂いの変態じゃ……!)
こうして、最強の執事が帰還した。
役者は揃った。
ルシリウスという絶対的な大動脈の下、アラクネ・ネットワークは「完全体」へと刷新される。
真の「レギオン」が、ここから始まるのだ。
本日もお読みいただきありがとうございます。
ついに執事ルシリウス帰還! あの夜霧とリリアが借りてきた猫状態……これがSSSランクの威圧感です。 そして完成する「アラクネ・ネットワーク」。
「執事かっこいい!」「展開が熱い!」と思ったら、 下にある【★★★★★】で応援していただけると、執筆スピードが神速になります! ぜひ評価をお願いします!
続きます




