第48話 氷棺の眠り姫
大陸の最北端。
そこは、生命という概念そのものが拒絶された、白銀の地獄であった。
極北の大氷河地帯、死の国。
空は鉛色に澱み、太陽の光さえも凍りついて地上に届くことはない。 吹き荒れる暴風は剃刀のように鋭く、吐息さえも瞬時に氷晶と化して砕け散る、マイナス五十度の絶対零度に近い世界。
あらゆる色彩が剥落し、ただ「白」と「黒」のみが支配するその荒涼たる雪原を、二つの影が歩いていた。
一つは、雪景色に映える「漆黒」を纏った絶世の美女。
濡れたような艶やかな黒髪は、吹雪に煽られても乱れることなく、その背に流れている。 妖艶な金色の瞳は、爬虫類特有の縦に裂けた瞳孔を持ち、見る者を石化させるほどの魔性を秘めていた。 そして何より目を引くのは、極寒の地にはあまりに不釣り合いな、胸元を大きく開いた艶やかな黒い着物姿である。
シンの配下となった元・始祖の暗黒龍、夜霧だ。 位階SS(天災級)の龍である彼女にとって、この程度の寒気は、肌を撫でる涼風に等しい。
「……ああ、シン様ぁ。もっとくっついてもよろしいのですよ? この寒空の下、肌を重ねて暖め合うのも一興かと……♡」
夜霧が猫なで声で甘え、隣を歩く少年に豊満な肢体を押し付けようとする。 その体からは、龍種特有の莫大な熱量が発せられており、周囲の雪を一瞬で蒸発させていた。
「離れろ。歩きにくい」
冷たく、そして絶対的に拒絶したのは、黒髪の少年だった。
年齢は一五歳ほど。 線は細く、身につけているのは冒険者ギルドで支給される安物の防寒具のみ。 一見すれば、無謀にも極地へ足を踏み入れたFランクの荷物持ちにしか見えない。
だが、その瞳の奥には、吹雪よりも冷たく、氷河よりも重い虚無が宿っていた。
始祖・シン。
地上では一五歳の少年に擬態している彼だが、この人外魔境においては、その内側から溢れ出る覇気を隠そうともしていない。 彼の周囲半径数メートルだけ、雪が避けて通る。 空間そのものが彼という質量に畏怖し、道を譲っているのだ。
「ちぇっ。……ですが、その冷たいお言葉もゾクゾクしますわ。夜霧、新しい扉が開きそうです」
「お前の性癖など聞いていない。……到着だ」
シンが足を止めた。
視界の先、猛吹雪の向こう側に、氷山に埋もれるようにして存在する巨大な遺跡が姿を現した。
太古の昔、神々に見捨てられた時代に築かれたとされる、白銀の霊廟。
入り口には古代語で『禁足地』と刻まれた巨大な石碑が半分砕けて転がり、その奥のゲートは、数千年の時をかけて積み重なった分厚い永久凍土の氷壁によって、物理的にも魔術的にも完全に封印されていた。
「ここか」
シンは手元の地図を確認し、冷ややかな視線を氷壁に向けた。
眠れる執事を復活させるために必要な「鍵」。 その生成には、相反する二つの極大才能が必要となる。 一つ目、『虚無』の才能は、夜霧から回収した。 残る一つ、『不死』の才能を持つ「彼女」が、この氷の墓標の奥底で眠り続けている。
「開けろ、夜霧」
「はい、旦那様」
主の命令一下。 夜霧が優雅に一歩進み出る。 彼女は着物の袖を翻し、白魚のような細い指先を、分厚い氷壁へと向けた。
魔力の充填などない。詠唱もない。 ただ、軽く指先で空気を弾くような、デコピンの動作。
だが、そこから放たれたのは、物理法則を無視した圧倒的な衝撃波だった。
――ズドンッ!!!!!
鼓膜を破るような轟音と共に、大地が悲鳴を上げた。 数千年の時を経てダイヤモンド以上の硬度を得ていたはずの氷壁が、まるで発泡スチロールのように粉々に粉砕され、爆散したのだ。
舞い上がる氷の礫。 衝撃の余波だけで、周囲の吹雪が一瞬にして消し飛び、青空が覗くほどの暴風が吹き荒れる。
「お上手ですね。褒めてくださいますか? 頭を撫でてくださると、夜霧はもっと頑張れますわ♡」
夜霧は破壊の跡地を背景に、艶然と微笑んでシンを見つめる。 SSランクの破壊力。 それは、一撃で城塞都市の城壁すら消滅させる威力だが、彼女にとっては挨拶代わりの小手調べに過ぎない。
「帰ったらな。行くぞ」
シンは粉塵を払うこともなく、ぽっかりと口を開けた暗闇の奥へと足を踏み入れた。
◇
遺跡の内部は、外気とは異なる種類の寒気に満ちていた。
物理的な温度の低さではない。 「生」を拒絶し、「死」を永遠に保存しようとする、呪術的な冷気。
長い回廊を抜けた最深部。 そこには、血管のように赤い液体が脈動する氷の壁に囲まれた、広大なホールが存在していた。
天井からは巨大な氷柱がシャンデリアのように垂れ下がり、床一面には、この極寒の地で咲くはずのない真紅のバラが、鮮血のように咲き乱れている。
その中央。 バラの海に浮かぶようにして、透明な氷の棺が安置されていた。
「……ほう」
シンは感嘆の声を漏らさずにはいられなかった。 棺の中で眠る存在の、あまりの異質さと美しさに。
見た目は一〇歳から一二歳ほどの少女。 流れるような金髪は、丁寧に巻かれた縦巻きを描き、純白のフリルが幾重にも重なるゴシックドレスを身に纏っている。 陶器のように白い肌は、死人のように蒼白でありながら、内側から発光するような神々しさを帯びていた。
まるで、時間が止まったかのような静寂。 だが、その小さな体の中には、世界を数回滅ぼせるほどの膨大な魔力が、圧縮されて眠っているのが見て取れた。
「……あざといですね」
夜霧が、露骨に不快そうに顔をしかめた。 彼女は棺の中の少女を見るなり、明確な敵意とライバル心を滲ませた。
「あのフリル、あの金髪……。いかにも『私は特別な存在です』と言わんばかりの装飾過多。 吸血鬼女特有の、腐った血の臭いがプンプンしますわ」
夜霧は鼻をつまみ、扇子でパタパタと空気を仰ぐ。
「シン様、こんな干からびた死体など放っておいて、帰りませんか? 『不死』の力が欲しいのでしたら、私の再生能力で十分でしょう? 私だけで、貴方様を満たしてみせますのに」
「黙っていろ。……これが今回の獲物だ」
シンは夜霧の嫉妬を一蹴し、氷の棺へと近づいた。
中に眠るのは、吸血鬼という種族の頂点に君臨する個体。 歴史の闇に葬られた、災厄の化身。
SSランク【鮮血の真祖】。
彼女の持つ『不死』の才能は、単なる再生能力ではない。 「死ぬ」という概念そのものを否定し、時間すら巻き戻して存在を固定する、理への干渉権能だ。
「起きろ」
シンは躊躇なく、右手を振り上げた。 解呪の呪文など唱えない。 物理的な破壊こそが、彼にとっての鍵である。
ガシャンッ!!
シンの拳が氷の棺を叩き割った。 パリーンッ! という軽快な音と共に、数千年の封印が解かれる。
瞬間。
ドクンッ――!!
ホールの空気が、爆発的に膨張した。 棺の中から、赤い霧――高濃度に圧縮された魔素の霧が噴出し、視界を真っ赤に染め上げる。
バラの花弁が舞い上がり、竜巻となって渦を巻く。 その中心で、二つの真紅の光が灯った。
『……無粋ね』
鈴を転がすような、可憐で、しかし絶対的な傲慢さを孕んだ少女の声が響く。
霧が晴れると、砕けた棺の縁に、少女が優雅に腰掛けていた。 長い睫毛に縁取られた真紅の瞳が、ゆっくりとシンを見下ろす。
『数百年ぶりの目覚めだというのに。 王子様のキスどころか、棺を壊して叩き起こすなんて。……最近の人間は、礼儀というものを母の胎内に忘れてきたのかしら?』
少女は不機嫌そうに頬を膨らませ、目の前に立つ二人を観察した。
黒い着物の女(夜霧)を見る目は、一瞬だけ鋭くなった。 同格の怪物。龍種の気配。無視できない脅威。
だが、もう一人。 正面に立つ少年を見た瞬間、彼女の瞳から興味の色が消え失せた。
『……何かしら、この男は?』
少女――リリアは、シンを見て、あからさまに嘲笑した。
『人間? それも、魔力を隠蔽しているようだけど……底が浅いわね。 ねえ、そこの着物女。これは貴女の非常食? それともペット? 随分と貧相な餌を連れているのね。栄養失調になりそうよ』
ピキリ。
夜霧の笑顔が、音を立てて凍りついた。 額に青筋が浮かび、金色の瞳が縦に裂ける。
「……今、なんと?」
『あら、聞こえなかった? 耳まで悪いのね。 その貧相な男は、貴女のエサかって聞いたのよ。……ああ、嫌だ嫌だ。最近の龍は趣味が悪くて。 こんな小汚い男を連れ回すなんて、品位を疑うわ』
リリアは鼻をつまみ、ヒラヒラと手を振って追い払う仕草をした。
彼女の魔眼には、シンがただの「魔力を隠した人間」にしか見えていない。 その奥にある、底知れぬ深淵に気づくには、彼女はまだ自身の力に驕りすぎていた。 SSランクという頂点に立つが故の、致命的な慢心。
「……ぶっ殺しますわ」
夜霧がブチ切れた。
ドォォォォン!!
彼女の背後から、漆黒の闘気が噴き上がる。 それは物理的な暴風となって吹き荒れ、ホールの氷壁に亀裂を走らせる。
「あの方を愚弄するとは……万死に値します! その減らず口、二度と開けないように縫い合わせて差し上げましょうか!? それとも、その金髪を引き抜いて、便所掃除のブラシにして差し上げますわ!!」
夜霧の手元に、魔力で生成された漆黒の三叉槍が出現する。
『やってごらんなさいよ、メス蜥蜴! その自慢の鱗を一枚ずつ剥いで、私の収集品にしてあげる……! 干物にして、玄関のマットにして踏みにじってやるわ!』
リリアもまた、殺気を爆発させる。 彼女の背後には、鮮血で形成された巨大な処刑鎌が顕現し、空間を切り裂くような鋭利な輝きを放つ。
一触即発。
二つのSSランク(天災級)の魔力が衝突し、遺跡全体が激しく振動する。 天井が崩れ、巨大な氷塊が落下する。 このままでは、戦闘が始まる前に遺跡ごと崩壊し、地形が変わってしまうだろう。
「死になさい、コウモリ女!」
『消えなさい、爬虫類!』
二つの災害が、互いに必殺の一撃を放とうとした――その時だ。
「――座れ」
シンの唇が、短く動いた。
ズドンッ!!!!!
上空から、見えざる「巨人の手」が叩きつけられたかのような衝撃。 いや、それは物理的な圧力ではない。 「重力」という概念そのものが、シンの一言によって局所的に、そして爆発的に増大したのだ。
「ぐっ……!?」
『きゃあっ……!?』
夜霧と真祖の少女、二人のSSランクの体が、床にめり込んだ。 膝をつき、手を突き、無様に這いつくばったまま、動けなくなる。
「な、なに……!?」
リリアは、信じられないものを見る目でシンを見上げた。 指一本動かせない。 魔力障壁も、肉体強化も、不死の再生力も、何の意味も成さない。 ただ、絶対的な「格」の差によって、魂が萎縮し、肉体が硬直している。
シンが少しだけ本気で睨んだ。 それだけで、彼女たちの生存本能が「動くな、動けば死ぬ」と絶叫し、思考さえも凍りつかせたのだ。
「誰の許可を得て騒いでいる」
シンは、凍りついた空間の中を、悠然と歩き出した。 カツン、カツン。 その足音だけが、静寂に響く。
彼は二人の間を通り抜け、リリアの目の前で立ち止まった。 その背後に揺らめく影は、世界を飲み込む悪魔の形を成している。
「『不死』の才能を持つ吸血鬼の始祖。……名は?」
『……リ、リリア……』
リリアは、震える声で答えることしかできなかった。 喉が渇く。心臓が痛い。 目の前の少年から放たれる覇気は、彼女が数千年の生涯で一度も感じたことのない、絶対的な「王」のそれだった。
「そうか。リリア、お前を勧誘しに来た」
シンはしゃがみ込み、リリアの小さな顎を掴んで、強引に上を向かせた。 至近距離で視線が交差する。 深紅の瞳の奥にある、底なしの虚無。
リリアはそれを見た瞬間、恐怖と共に、背筋がゾクゾクと痺れるような感覚を覚えた。
(何、この濃密な『闇』……!?)
吸血鬼は、強者の血と魔力を何よりも好む種族だ。 シンから溢れ出る魔力は、彼女にとって致死性の猛毒でありながら、同時に抗いがたい極上の麻薬でもあった。
怖い。殺されるかもしれない。 けれど――従いたい。 この圧倒的な力に蹂躙され、支配され、その所有物になりたいという、背徳的な本能が疼く。
「選べ。私の配下となり、その力を捧げるか。それとも、今ここで私に食われて『無』になるか」
シンの選択肢は、慈悲などない最後通告だった。 だが、リリアにとっては、それは福音に聞こえた。
『……服従、します』
リリアは即答した。 彼女は頬を紅潮させ、恍惚とした表情で、顎を掴んでいるシンの手に、自分の頬を擦り付けた。
『ああ……貴方様のようなお方がいらしたなんて……♡ 前言撤回しますわ。貴方様こそが、私の探し求めていた王。 ……ねえ、私のこと、貴方様の「一番」にしてくださる?』
彼女の瞳は、ハート型に変わりそうなほどに潤んでいる。 先ほどまでの傲慢さはどこへやら、完全に「恋する乙女」の顔になっていた。
「……またか」
シンは深いため息をついた。 夜霧もそうだったが、なぜこのクラスの魔物は、力でねじ伏せるとこうも極端な反応を示すのか。 強すぎるがゆえに、自分より強いオスを求める本能が暴走しているのだろうか。
「ちょっと! 泥棒猫!」
シンの威圧が緩んだ隙に、夜霧がバッと顔を上げて叫んだ。 彼女もまた、シンの足元にすり寄りながら、リリアを牽制する。
「シン様の『一番』は、最初に拾われた私です! この尻軽女! 新入りのちんちくりんが、図々しいのですよ! シン様の愛玩枠は既に満席です!」
『あら? 愛玩動物には愛玩動物の、愛妾には愛妾の序列があるのよ。 体が大きいだけの爬虫類には、番犬がお似合いじゃなくて? シン様は、私のような高貴で可憐な少女がお好きなのよ』
「なんですってぇぇ!?」
『やる気かしらぁぁ!?』
ギャーギャーと再び喚き始める二人のSSランク。 シンは拳を握りしめた。 頭が痛い。 これが、これから世界を恐怖に陥れる我が軍の最高幹部たちなのか。 強さは申し分ないが、協調性と品性が壊滅している。
「……黙れ。次騒いだら、二人まとめて天日干しにするぞ」
シンの一言で、二人は「ひいっ!」と抱き合って震え上がった。 そして、即座に「仲良しです!」「親友です!」と嘘くさい笑顔を作る。
「帰るぞ。……『彼』を呼ぶ準備が整った」
シンは踵を返す。 目的のものは手に入れた。 『虚無』の夜霧と、『不死』のリリア。 この二人の才能を掛け合わせれば、次元の檻をこじ開ける『鍵』が完成する。
(待っていろ、我が執事よ)
シンは歩きながら、懐かしい腹心の顔を思い浮かべた。 彼がいれば、この騒がしい猛獣どもの管理も一任できる。 組織の規律を取り戻すためにも、彼の帰還は急務だ。
最強の従者が戻ってくるまで、あと少しだ。
二体の災害級美女を引き連れ、魔王は白銀の世界を後にする。 その背中は、来たるべき世界征服への確信に満ちていた。
読者の皆様、本日もありがとうございます!
次回はいよいよ!
集めた二人の因子を使って、最強の執事をついに呼び戻す準備回です。
そして地上では、あの腐敗した王族たちへの「ざまぁ」の準備も着々と進んでいます……。
「リリアちゃん可愛い!」「シン様最強!」と思ってくださった方は、ぜひ下の【★★★★★】で応援評価をお願いします!
続きます。




