第47話 深淵の黒き太陽
世界には、光という概念そのものが拒絶された場所が存在する。
物理的な深度の話ではない。地殻を潜り、地底を超えた先にあるような単純な距離の問題ではなく、世界の理が反転し、生命の生存を許さぬ絶対的な死の領域。
城塞都市ネメシスの地下深くに広がる「地下迷宮」。 その最深部、第100階層。 人はそこを、畏怖と絶望を込めて『奈落』と呼ぶ。
そこは、音のない世界だった。
空気は液体のように重く、澱んでいる。 大気中に満ちる魔素の濃度は、地上の数千倍にも達し、常人であれば肺に空気を吸い込んだ瞬間に細胞が壊死し、ドロドロの肉塊となって崩れ落ちるほどの猛毒と化していた。
地面は濡れたように黒光りする黒曜石で覆われ、天井は見えぬほど高く、あるいは最初から存在しないのかもしれない。 無限に広がる虚無。
時折、闇の奥底で青白い燐光が明滅するのは、高濃度の魔素が結晶化し、自然発火しては消えていく現象だ。
そんな、神さえも顔を背ける死の世界に、一つの足音が響いた。
カツン、カツン、と。
硬質な革靴が石床を叩く音が、永遠の静寂を切り裂いていく。 そのリズムはあまりにも優雅で、あまりにも傲慢だった。まるで、王宮の回廊を散歩するかのような、恐怖を知らぬ者の足取り。
「……ここか。随分と埃っぽいな」
闇を裂いて現れたのは、一人の青年だった。
夜の闇をそのまま織り上げたかのような、漆黒のロングコート。 月光すら吸い込むような濡れた黒髪と、その奥で妖しく輝く、血の池を煮詰めたような深紅の瞳。
シン。 地上ではFランクの少年を演じている彼だが、この場所では違う。 世界を喰らい尽くした捕食者としての本性――18歳の全盛期、位階G(始祖)としての姿を、惜しげもなく晒していた。
彼の周囲だけ、空間が歪んでいる。 致死性の魔毒が、彼という存在に触れることを恐れ、逃げ惑うように道を空けているのだ。 呼吸をするたびに、周囲の空間が軋みを上げる。彼の存在質量があまりに大きすぎて、この「奈落」という空間でさえも、彼を受け止めきれずに悲鳴を上げているようだった。
シンは退屈そうに欠伸を噛み殺しながら、広大な空間の中央を見据えた。 そこには、闇よりもなお昏い、巨大な「影」が鎮座していた。
山脈と見紛うほどの巨躯。 古の時代より、この場所で眠り続けてきた「世界の守護者」にして「破壊者」。
「おい。起きろ、トカゲ」
シンの声は、決して大きくはなかった。 だが、その言葉には絶対的な「言霊」が宿り、空間そのものを物理的に震わせた。 眠りを強制的に解除させる、王の命令。
直後。 闇が、動いた。
ズズズズズズズ……ッ。
地響きのような音が響き渡る。 それは岩盤が動く音ではない。鋼鉄よりも硬い鱗同士が擦れ合い、巨大な筋肉が収縮する音だ。
『――愚かな』
鼓膜を通さず、脳髄に直接響く重低音の念話。 空間の中央に鎮座していた「闇」が、鎌首をもたげたのだ。
全長、優に百メートル超。 全身を覆うのは、あらゆる魔法を弾き返す黒鉄の鱗。背中にはボロボロに朽ちながらも、天を覆い尽くすほど巨大な双翼が折り畳まれている。 そして何より、見る者を瞬時に石化させるほどの神威を放つ、燃えるような金色の双眸。
位階SS(天災級)。 【始祖の暗黒龍】ヴァルガス。
数百年前、たった一度の羽ばたきで一つの大陸を焦土に変え、伝説の勇者たちですら手出しできずに封印を選んだ、生ける天災である。
『我が眠りを妨げる羽虫が、一匹。……人間か? いや、その気配……貴様、何者だ』
ヴァルガスは金色の瞳を細め、眼下の小さな「点」を見下ろした。 長き眠りの中で、幾多の愚かな侵入者を葬ってきた。名のある騎士、大魔導師、あるいは魔王を自称する者たち。 だが、目の前の存在は、それらとは決定的に異質だった。
小さい。あまりにも小さい。 指先一つで磨り潰せるほどのサイズだ。 なのに、その存在感の質量が、自分と同等――いや、あろうことか「それ以上」に感じられる。
生物としての本能が、警鐘を鳴らす。 「食われるかもしれない」と。 食物連鎖の頂点に君臨する龍種が、初めて抱く「被食者」としての悪寒。
だが、ヴァルガスのプライドがそれを否定した。 あり得ない。我は最強種だ。神代より生きる始祖だ。人間風情に後れを取るはずがない。
「挨拶など不要だ。用件だけ言おう」
シンは龍の放つ殺気を、頬を撫でる微風ほどにも感じていない様子で、ポケットに手を突っ込んだまま淡々と告げた。
「お前の中に眠る【虚無】の才能……それを回収しに来た」
シンが一歩、前に出る。
「大人しく首を垂れれば、家畜として飼ってやる。抵抗するなら、餌として処理する。……選べ」
沈黙。 絶対零度の凍てつく静寂が、数秒間だけ場を支配した。
そして、次の瞬間。 爆発的な殺気が、衝撃波となって吹き荒れた。
『……ハ、ハハハハハハ!!』
暗黒龍が哄笑した。 その笑い声だけで大気が振動し、周囲の岩盤に亀裂が走り、天井から巨大な鍾乳石が雨のように降り注ぐ。
『面白い。実に愉快だ! 我が輩を家畜だと? この天空の覇者たるヴァルガスを! いいだろう、身の程知らずの童よ。その傲慢ごと、塵に還してくれるわ!!』
ヴァルガスが大きく息を吸い込んだ。 周囲数十キロメートル圏内の魔素が、一瞬にして枯渇するほどの吸引。 口腔の奥で、どす黒い光が凝縮されていく。
バチバチバチッ……!
空間が悲鳴を上げる。 光さえも飲み込むブラックホールのようなエネルギー球が形成され、圧縮され、臨界点を超えていく。
SSランク固有派生――【終焉の黒炎】。
それは炎ではない。物質を原子レベルで崩壊させ、強制的に「無」へと還元する「消滅」の概念攻撃。 かつて文明を一つ消し去った、回避不能のブレス。
『消え失せろ!!』
放たれた黒い閃光。 音速を超え、光速に迫る速度で、シンへと殺到する。 その軌道上にある空間そのものが削り取られ、黒い傷跡を残していく。 回避は不可能。防御も無意味。触れれば終わりの絶対的な死。
だが。
シンは動かなかった。 避ける素振りすら見せず、防御結界すら張らず。 ただ、右手を無造作に、友人に握手を求めるように前に突き出しただけ。
そして、小さく呟く。
「【才能:虚無の胃袋】」
――ズズッ。
奇妙な音がした。 轟音ではない。もっと生理的な、何かを啜るような水音。
世界を滅ぼすはずの黒い閃光が、シンの掌の前でピタリと止まった。 そして、物理法則を無視して渦を巻き、掌にある「見えない穴」へと吸い込まれていく。
まるで、巨大な掃除機に吸われる埃のように。 あるいは、巨人がストローでジュースを啜るかのように。
ゴウウウウウウッ……!
奔流は止まらない。 ヴァルガスが全魔力を込めて放ち続ける死の熱線が、すべてシンの右手へと収束し、消失していく。
『な……っ!?』
ヴァルガスの目が、眼球が裂けそうなほどに見開かれる。 ありえない。 魔法による相殺ではない。物理的な防御でもない。 「食べて」いる。 この男は、破壊エネルギーそのものを、栄養素として嚥下しているのだ。
数秒後。 最後の魔力の一滴まで吸い尽くすと、シンは軽く掌を握り、ゲフ、と小さくげっぷをした。
「……味気ないな」
シンは心底失望したように、感想を漏らした。
「数百年寝ていたせいか? コクがない。魔力の質が劣化している。 もっと純度の高い『絶望』を練り込めないのか。……これでは腹の足しにもならん」
『馬鹿な……! 我が最強の息吹を、食べた、だと……!? 貴様、貴様は何なのたぁぁッ!!』
恐怖。 生まれて初めて、暗黒龍の心に「捕食される側」の恐怖が刻み込まれた。 自分の最強の攻撃が、相手にとっては「不味い食事」でしかなかったという絶望的な事実。
『死ね! 潰れろぉぉッ!!』
ヴァルガスは半狂乱になり、巨大な右腕を振り上げた。 魔法が通じぬなら、質量で潰す。 鋼鉄の山脈が落ちてくるに等しい、物理的な圧殺攻撃。SSランクの筋力による爪撃は、地殻すら砕く威力がある。
シンはそれすらも、左手一本で受け止めた。
ドォォォォン!!
轟音と共に地面が半径数百メートルにわたって陥没し、衝撃波が地下空洞を揺らす。 だが、土煙が晴れた中心で、シンは微動だにしていなかった。 頭上に振り下ろされた巨大な龍の爪を、涼しい顔で、片手で支えている。
「……遅い」
シンが指に力を込める。
バキボキボキッ!!
硬質な破砕音が響き、SSランクの硬度を誇る龍の爪が、乾燥した小枝のように粉砕された。
『ギョオオオオオオオオッ!!?』
激痛に絶叫する龍。 だが、シンの攻撃は終わらない。
「躾の時間だ」
シンは一歩、踏み込んだ。 その瞬間、彼の背後に巨大な幻影が揺らめく。 それは特定の形を持たない。無限の闇であり、あらゆる怪物の集合体であり、神さえも食い殺す悪魔の顎。
――【格】の解放。
SSランク(天災)を遥かに凌駕する、Gランク(神域)の覇気が、物理的な重力となってヴァルガスを押し潰した。
『あ、が……っ、ぐ……!?』
ズドォン!!
ヴァルガスの巨体が、見えざる巨人の手で叩きつけられたように地面に伏した。 重力魔法ではない。魂が、本能が、目の前の存在に対して「平伏せ」と命じているのだ。 細胞の一つ一つが、支配者の前での直立を拒否している。
逆らえない。 生物としての次元が違いすぎる。 蟻が人間に勝てないように。人が台風に勝てないように。 この男は、この世界の理そのものだ。
「どうした。威勢が良かったのは最初だけか?」
シンは倒れ伏した龍の鼻先に飛び乗り、冷徹な瞳で見下ろした。 その視線は、生き物を見る目ではない。 肉屋が、解体前の肉の鮮度を確認する目だ。
「私の胃袋はまだ空いているぞ。……このまま骨まで砕いて、スープにしてやろうか?」
シンが右手をかざす。 その手には、先ほど吸い込んだ【終焉の黒炎】が、より高密度に圧縮され、赤黒い球体となって渦巻いていた。 それを眉間に叩き込まれれば、再生能力を持つ龍といえども、魂ごと消滅する。
『ま……待て……!』
ヴァルガスは震える声で懇願した。 プライド? 誇り? 始祖の威厳? そんなものは、この圧倒的な暴力の前では塵芥に過ぎない。 死にたくない。消えたくない。 その一心で、太古の支配者は完全なる敗北を認めた。
『降参だ……! 我が負けだ、未知なる王よ……! 従う、従おう! だから食うな! 魂まで消滅させるのだけはやめてくれェッ!!』
涙を流し、無様に命乞いをする龍。 その姿を見て、シンは興味を失ったように鼻を鳴らし、手のひらの魔力を霧散させた。
「……フン」
途端に、空気が軽くなる。死の圧力が消えた。
「賢明な判断だ。死ねばただの栄養だが、生きていれば使い道もある」
シンは龍の眉間に手を触れる。
「変化しろ。その図体は邪魔だ。……人の形を取れるだろう?」
『は、はい……直ちに』
暗黒龍の体が黒い霧に包まれる。 巨大な質量が圧縮され、再構築されていく。 骨が縮み、鱗が肌へと変わり、翼が着物へと変わる。
霧が晴れた時、そこに平伏していたのは、一人の「和」の美女だった。
濡れたような黒髪は腰よりも長く、膝下まで流れ落ちている。 切れ長の瞳は妖艶さと、底知れぬ食欲を秘めた金色。 そして何より目を引くのは、その衣装だ。 闇夜を切り取ったかのような、艶やかな黒一色の着物。 帯は赤く、きつく締め上げられたそれが豊満な胸とくびれを強調している。 太腿まで大胆にスリットが入っており、そこから覗く白い肌が、黒とのコントラストで毒々しいまでの色気を放っている。
優雅でありながら、どこか危険な香りを漂わせる「大和撫子」の姿。
「……お見事です、我が主よ」
彼女は長い袖を翻し、優雅にその場に三つ指をついて平伏した。 額を冷たい石床に擦り付ける、完全なる服従の姿勢。
だが、その頬は紅潮し、荒い息を吐いている。 圧倒的な暴力でねじ伏せられたことによる恐怖。それが一周回って、龍という種族特有の「強者への求愛本能」を刺激してしまったようだ。 絶対的な強者に犯され、支配されることへの、背徳的な悦び。
「このヴァルガス、心底痺れました……♡ 私のブレスをあんな風に召し上がってしまうなんて。……ああん、思い出しただけでゾクゾクしますわ」
彼女は自身の体を抱きしめ、くねらせる。
「……その発情した目はやめろ。気色が悪い」
シンは冷たく言い放つと、彼女の顎をくい、と靴先で持ち上げた。
「ヴァルガス。その名はもう古い。今日からお前は私の『所有物』だ。……新しい名をやる」
シンは思考を巡らせる。 闇夜に溶け、全てを覆い隠し、静かに命を刈り取るもの。 和装の彼女に相応しい名を。
「――【夜霧】。それがお前の名だ」
名付け。 それは上位者が下位者の魂に呪縛を刻む、絶対の契約。 美女の体が淡い光に包まれる。 SSランク【始祖の暗黒龍】から、シンの配下である幹部個体への進化。 その魂に、【忠誠の刻印】が焼き付けられる。
「夜霧……。ああ、なんという甘美な響き……!」
夜霧は自身の名を噛みしめるように呟き、うっとりと身を震わせた。 そして、恍惚とした表情でシンのブーツに頬をすり寄せる。
「この命、この力、この鱗の一枚に至るまで。全てはシン様のために。 ……ああっ、もっと踏んでくださっても構いませんのよ? むしろ、踏んでくださいまし♡」
「……面倒な奴を拾ったな」
シンは呆れたように溜息をついた。 だが、戦力としては申し分ない。 彼女が持つ【虚無】の才能は、目的のための「鍵」の半分となる。
あと半分。 対となる【不死】の才能が必要だ。
「行くぞ、夜霧。散歩はまだ終わりじゃない」
シンは背を向け、闇の奥へと歩き出す。
「はい、どこまでもお供しますわ、愛しの旦那様♡」
その背中を、黒い着物の裾を引きずりながら、新たな忠龍が嬉々として追いかける。 目指すは北の大地。 極寒の氷河に眠る、もう一体の「鍵」――【鮮血の真祖】のもとへ。
大陸最強の生物をペットにした魔王の行進は、まだ始まったばかりだ。
読者の皆様、お読みいただきありがとうございます!
圧倒的な最強ムーブ、楽しんでいただけましたでしょうか?
「夜霧ちゃん可愛い!」「シン様最強!」と思ってくださった方は、ブクマ登録とぜひ下にある【★★★★★】で評価・応援をお願いします!
続きます。




