第46話 隣国の視線
世界は、見えざる一本の糸によって繋がれている。
ある場所で落とされた小さな火種は、風に乗り、海を越え、遠く離れた大国の森さえも焼き尽くす業火の予兆となる。
中央大陸メディアル・ラテ。
その中央北部に位置する大国、ゼノリス王国。
現在、この国で発生した正体不明の魔毒『黒蜘蛛熱』と、追放されたはずの第三王女セリスの「聖女としての劇的な帰還」。
この二つの特大の伝令は、瞬く間に大陸全土を駆け巡り、周辺諸国の支配者たちの欲望を、ドロドロと黒く刺激していた。
彼らはまだ知らない。
その伝令自体が、ある一人の魔王によって意図的にばら撒かれた、国ごと食い殺すための「招待状」であるということを。
◇
大陸東端。
神秘の霧に包まれた広大な湖畔の上空に、物理法則を嘲笑うかのように浮遊する島々があった。
【魔導連邦グリモア】。
太古の遺産である「浮遊魔石」によって重力の鎖から解き放たれた大地には、巨大な水晶で建造された塔が林立し、空には魔力で動く小舟が行き交っている。
地上にはない澄み切った大気。
夜になれば、街路樹の一本一本に埋め込まれた魔光石が輝き、都市全体が星空を地上に降ろしたかのような幻想的な美しさに包まれる。
魔法こそが至高であり、知識こそが力であると信じる魔導師たちの楽園。
その首都の中心、雲を突き抜けて聳え立つ「賢者の塔」。
その最上階にある円卓会議室にて、この国を統べる七人の老若男女が顔を突き合わせていた。
彼らは「七賢人」と呼ばれる、連邦の頭脳であり、感情を知識欲という名の炉にくべて焼き捨てた支配者たちだ。
「……興味深いな。実に興味深い」
口火を切ったのは、七賢人の筆頭である老魔導師だった。
床まで届くほどの豊かな白髭を蓄え、深い皺の刻まれた顔には、数百年分の叡智と冷徹な理性が宿っている。彼が纏う純白のローブには、高位の防御術式が幾重にも織り込まれ、微かな光を放っていた。
彼の手元にある水晶板には、遠隔魔法によって盗み見されたゼノリス王国の惨状が映し出されている。
スラム街で疫病に苦しみ、のたうち回る人々。その皮膚に浮かぶ禍々しい黒い蜘蛛の痣。
それは地獄絵図そのものだが、老魔導師の瞳は、被験者を観察するような冷徹な光を明滅させていた。
「『黒蜘蛛熱』か。……美しい」
老魔導師は、あろうことか賛辞を口にした。
「既存の病魔とは術式構造が根本から異なる。自然発生したものではない。……魔力の配列、潜伏期間の制御、そして宿主の魔力回路を食い破る侵食率。全てが計算され尽くしている」
「人為的な、それも極めて高度な『魔毒』ということじゃな」
隣に座る、壮年の賢者が頷く。
「フフフ。ゼノリスの野蛮人どもには過ぎた代物ね」
扇子で口元を隠した妖艶な魔女が、冷ややかな笑みを浮かべた。
彼女の瞳は、苦しむ民衆の姿ではなく、その病魔を作り出した「作者」への嫉妬と渇望で揺らめいている。
「感染力、致死率、そして絶望的な視覚効果。……この毒を作った者は、間違いなく天才よ。欲しいわね、その脳髄が」
彼らの目に、死にゆく人々への憐憫など欠片もない。
あるのは、未知の魔法技術に対する飽くなき探求心と、それを自国の兵器として利用したいという、狂気じみた知的好奇心だけだ。
「ゼノリスは今、混乱の極みにある。……好機であろう」
老魔導師が、枯れ木のような指で机をトン、と叩いた。
「防疫対策と称して、『医療調査団』を派遣してはどうじゃ?」
「良い案だ。……表向きは人道支援、裏では病魔の原株回収と、感染者の検体確保を行う」
「ついでに、その『聖女』とやらも解析したいものだ。……光魔法の使い手など、希少な実験動物になる」
賢人たちは頷き合い、薄ら寒い笑みを交わした。
彼らは自分たちが、安全な高みから下界を見下ろす「観察者」であると信じて疑わない。
まさかその毒が、自分たちの理解を遥かに超えた存在によって撒かれた「餌」であり、自分たちがその釣り針に食いつこうとしている魚であることになど、気づく由もなかった。
「それとな……」
老魔導師が、声を潜めてさらに言葉を続けた。
「かの国の混乱、ただの疫病ではない気配がする。……念の為、例の『禁忌』を準備しておくべきかもしれん」
「まさか、議長……」
「うむ。『異界の勇者召喚』じゃ」
場がざわめく。
それは、異なる次元から強力な魂を呼び寄せ、この世界の理外の力を振るわせる、連邦最大の秘術。
「未知の技術には、未知の力で対抗する。……それが我ら賢者の流儀よ」
知識欲という名の魔物が、賢者たちの理性を食い破っていた。
◇
大陸北西。
連邦の静謐とは対照的に、常に鋼鉄の轟音と魔力の火花が散る場所があった。
険しい山脈を削り取り、大地を鉄板で覆い尽くした要塞都市。
【鋼牙帝国アイゼンガルド】。
ここには、魂なき鉄塊が動くような無機質な響きはない。
代わりに響き渡るのは、数千、数万のハンマーが鉄を叩く、魂の籠もった重厚な律動だ。
カンッ! カンッ! ガキンッ……!
街の至る所に立ち並ぶのは、巨大な「魔導鍛冶工房」。
その炉からは、石炭の黒煙ではなく、魔力を帯びた青白い炎が噴き出し、空を焦がしている。
「――硬化、硬化、鋭利化……ッ!」
工房の中で汗を流すのは、ただの労働者ではない。
付与術師たちだ。
彼らは赤熱した鉄塊に向かい、ハンマーを一打振り下ろすたびに呪文を詠唱し、魔力を叩き込んでいる。
鉄は物理的に鍛えられるだけでなく、魔術的に組成を書き換えられ、伝説級の強度を持つ「魔鋼」へと変貌していく。
異界の理などではない。魔法と職人技術の融合が生み出す、珠玉の魔導機工兵器群。
その中心に座す「黒鉄宮」の玉座の間。
皇帝ゼギオン・ヴァン・アイゼンガルドは、鋼鉄の手甲を嵌めた手で、報告書を握り潰していた。
「……南のゼノリス王国。老王は病に伏し、国政は愚鈍な王子が握っている。さらに疫病で民心は離れ、貴族どもは派閥争いに明け暮れている……か」
皇帝の声は、地底の岩盤が擦れ合うような重低音だった。
彼の背後には、最新鋭の魔導甲冑を纏った将軍たちが控えている。
彼らの鎧もまた、工房の列で作られた量産品ではない。名工と高位付与術師が数年がかりで鍛え上げた、一つの芸術品にして殺戮兵器だ。
「好機だな」
皇帝の一言。それだけで、玉座の間の温度が数度下がったような殺気が満ちた。
「ゼノリスは肥沃な土地と、未開拓の鉱山を持っている。……だが、それを守る力はもう彼らにはない」
皇帝は立ち上がり、巨大な鉄の大剣を床に突き立てた。
「奪うぞ。……弱者が持て余している富は、強者が有効に使ってやるのが世の理だ」
「陛下! 我が軍に出撃のご命令を! 三日で王都を制圧してご覧に入れます!」
血気盛んな将軍が声を上げる。
帝国にとって、弱肉強食は絶対の真理だ。弱った国があれば、食らい尽くして領土とする。それが彼らの正義であり、生存戦略だった。
「慌てるな。……まずは『義勇軍』という名目で国境付近に兵を集めろ」
皇帝は獰猛な笑みを浮かべた。
「名目は何でもいい。『王国内の混乱が飛び火するのを防ぐため』、あるいは『苦しむ隣人を救助するため』……とな」
「ハッ! あくまで自衛のための進軍……と見せかけて、一気に喉元を食い破るのですね」
「その通りだ。腐りかけた果実は、我らが収穫してやるのが慈悲というものだ」
皇帝の号令一下、鋼鉄の軍団が動き出す。
彼らもまた、勘違いをしている。
腐りかけた果実の芯には、決して触れてはならない猛毒が潜んでいることに。
そして、その果実を守る「番人」が、彼らの想像を絶する怪物であることに、まだ気づいていない。
◇
大陸西端。
常に夕暮れのような薄暗い空に覆われた、退廃的な国家があった。
【黄昏の公国ウェスペル】。
表向きは中立を謳う商業国家だが、その実態は、大陸最大の「闇市場」を抱える犯罪の温床である。
違法な薬物、呪われた魔具、そして――人身売買。
金さえ払えば何でも手に入るこの国の裏路地にある、高級娼館の一室。
脂ぎった恰幅の良い奴隷商人が、通信水晶越しの相手と商談を行っていた。
相手は――ゼノリス王国の第二王子、バルダスである。
『――おい、話が違うぞ! 今月の「商品」の数が足りないではないか!』
水晶の向こうから、王子の苛立った声が響く。
奴隷商人は揉み手をしながら、へらへらと卑しい笑みを浮かべた。
「いえいえ、殿下。こちらも無理を言わないでくださいよ。最近は検問が厳しくてですねぇ」
『ふん! 言い訳はいい。……例の疫病で、スラムには孤児や身寄りのない女が増えているはずだ。違うか?』
「ええ、ええ! 仰る通りで! 親を亡くした子供、治療費のために身体を売る娘……まさに宝の山ですなぁ」
商人の目は、金貨のような濁った欲望の色をしていた。
国を守るべき王族が、あろうことか自国民を他国へ売り飛ばそうとしている。そして、商人はその悲劇を「商機」としか捉えていない。
「疫病様々ですわ。……健康な男手は鉱山へ、見た目の良い女は娼館へ。病気の奴らは実験材料として連邦へ」
『ならば、それらをかき集めて送れ。この混乱期だ、行方不明者として処理すれば誰も気づかん』
「へへっ、さすがは殿下。賢明なご判断です」
『それとな……姉上、第一王女殿下からも注文が入っている』
王子は声を潜め、嗜虐的な笑みを浮かべた。
『姉上は最近、退屈しておられる。壊れにくい、丈夫な男の奴隷を欲しがっておられるぞ。……前の奴隷は、すぐに動かなくなってしまったそうだからな』
「おお、それはそれは……。公国の闘技場から、選りすぐりの獣人を用意しましょう」
通信が切れると、商人は舌なめずりをした。
国が乱れれば難民が出る。難民は、ただ同然で仕入れられる高級な商品だ。
彼らにとって、他国の不幸は蜜の味でしかなかった。
金貨の輝きだけが、彼らの瞳を照らしている。
その輝きが、破滅への導火線であるとも知らずに。
◇
東の知識欲。
北西の支配欲。
西の金銭欲。
三つの大国が、それぞれの欲望をたぎらせ、弱りきった獲物へと手を伸ばそうとしている。
彼らは皆、自分こそが盤上の支配者だと思っていた。
自分たちの手駒を動かし、利益を貪り、勝利の美酒に酔う未来を夢見ていた。
だが、誰も気づいていない。
そのフィールド自体が、既に一人の支配者によって張り巡らされた「巨大な蜘蛛の巣」の上であることに。
城塞都市ネメシス、地下宮殿。
地上の喧騒とは隔絶された、静寂と闇に満ちた玉座の間。
その最奥に鎮座する漆黒の玉座にて、始祖・シンは、虚空に浮かぶ無数の幻影の窓を眺めていた。
窓の中には、連邦の賢者たち、帝国の皇帝、公国の商人の顔が、リアルタイムで映し出されている。
彼らの密談も、野望も、醜悪な欲望も。
全ては、シンの前で丸裸にされていた。
「……ククッ。愚かな」
シンは喉を鳴らして笑った。
その笑い声は、氷のように冷たく、そして底知れぬ愉悦を含んでいた。
「彼らは、自分たちが『捕食者』だと思っている。……弱った獲物に群がるハイエナのように」
シンは手元のワイングラスを揺らした。
中の液体は、血のように鮮やかな真紅を描く。
「だが違う。……彼らは獲物だ」
シンは立ち上がり、黒いロングコートを翻した。
その背中から、どす黒い覇気が噴き出し、玉座の間を震わせる。
「連邦の知識も、帝国の鋼鉄も、公国の金も。……すべては、私の『胃袋』を満たすためのコース料理に過ぎない」
シンは、窓の中に映る各国の支配者たちを指差した。
まるで、皿の上の料理を品定めするかのように。
「食卓の準備は整った。……招いてやろうじゃないか。我らが『蜘蛛の巣』へ」
シンが指を弾く。
パチン、という乾いた音が、開戦の合図のように響き渡った。
「彼らには『盤上の駒』になってもらう。……私の退屈を紛らわすための、な」
シンの瞳が、深紅に輝く。
それは、世界に対する明確な宣戦布告だった。
「まずは……手始めに」
シンの視線が、さらに深い闇――地下迷宮の最深部へと向けられる。
そこには、世界を揺るがすほどの力を持つ「二つの怪物」が眠っている。
【始祖の暗黒龍】と、【鮮血の真祖】。
位階SS(天災級)。人類が触れてはならない伝説の災厄。
「私の『腹心』を呼び戻すための鍵を、収穫しに行くとしようか」
シンは、虚空に浮かぶ「次元の狭間」の扉を見つめた。
そこには、かつて彼が封印した最強の執事が眠っている。
彼を現世に呼び戻すには、膨大な魔力と、それを繋ぎ止めるための強靭な「触媒」が必要だ。
「SSランクの魂ならば、申し分ないだろう」
魔王は歩き出す。
地上の三國が小競り合いを始めようとしているその裏で、神話級の怪物をペットにするための「狩り」が始まろうとしていた。
世界が本当の恐怖を知るのは、もう少し先の話だ。
ここまでお読みいただきありがとうございます!
今回は「敵側の事情」回でした。
シン様が不在の間にも、世界は勝手に破滅へと向かって動いています。
「連邦」「帝国」「公国」。
どいつもこいつも、ゼノリス王国を食い物にしようと必死ですが……残念ながら、そこはもうシン様のナワバリです。彼らが足を踏み入れた瞬間、運命は決したも同然ですね。
特に公国の奴隷商人と繋がっている第二王子、そして奴隷を「玩具」にする第一王女。
彼らへの「ざまぁ」も、今後の楽しみの一つとして温めておいてください。
さて、次回はいよいよバトル回!
【作者からのお願い】
「ハイエナどもが愚かすぎるw」「早くシン様にボコボコにされてほしい!」と思っていただけましたら、
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明日も更新します。




