第45話 蜘蛛の巣を張る者たち
世界は、誰かが描いた脚本の上で踊らされているに過ぎない。
王都ゼノリスが、見えない毒と悪意によって腐り落ちていく様を、遥か遠く離れた場所から眺めている男がいた。
城塞都市ネメシスの地下深く。 地上の物理座標から切り離され、次元の彼岸に固定された絶対領域――拠点『地下宮殿』。
その中枢である玉座の間は、濃密な魔素が霧のように漂い、肌を刺すような冷気で満たされていた。 壁面を覆う黒曜石の柱は、地下の燐光を吸い込んで妖しく脈動し、天井に広がる偽りの星空が、冷徹な支配者の瞳のように瞬いている。
最奥の玉座。 そこに深く腰掛けているのは、漆黒の長衣を纏った一人の青年だ。
シン。 この国を裏から操る組織【細蟹】の頂点にして、世界を捕食する始祖。
地上で見せる「15歳の少年」という道化の仮面は脱ぎ捨てられ、そこには本来の姿である18歳の青年が君臨している。 闇よりも深い黒髪と、血の池を煮詰めたような深紅の魔眼。 ただ座っているだけで、周囲の空間がその魔力に耐えきれず、ジジジ……と悲鳴のようなノイズを上げている。
彼は退屈そうに頬杖をつき、虚空に浮かぶ『幻影の窓』を眺めていた。
「……脆いな」
シンは手元のワイングラスを揺らしながら、低い声で呟く。 グラスの中身はワインではない。高純度の魔力を液状化した、彼にとっての嗜好品だ。
窓の向こうには、王都ゼノリスの惨状がリアルタイムで映し出されている。 十王のネモが流したデマによって疑心暗鬼に陥った貴族たち。サフィナが撒いた毒によって、路地裏で黒い痣を浮かべてのたうち回る貧民たち。
「ネモとサフィナの仕事は上出来だ。 人間という生き物は、少し足元を崩してやるだけで、勝手に転がり落ちていく」
シンは、地獄絵図を眺める目に慈悲の色を宿さない。 あるのは、熟成されていくワインの出来栄えを確認するような、冷徹な評価だけだ。
「恐怖、疑念、絶望。……よく発酵している。 このまま腐りきらせれば、セリスが『救済』を持って現れた時の甘美さは、何倍にも跳ね上がるだろう」
シンは指先で空中の窓を弾き、消去した。 王都の崩壊は確定事項だ。あとは放っておけば、自重で潰れる。
だが、シンの視線は、まだ満たされてはいなかった。 彼は懐から、一枚の黒い「水晶板」を取り出した。
表面には複雑怪奇な術式が刻まれており、その中心には、どこか遠い次元とリンクしている微かな光が、心臓の鼓動のように脈動している。
シンは愛おしそうに、水晶板の表面を指でなぞった。
「待たせたな。……今の私ならば、次元の彼方にお前を迎えにいける」
それは、彼自身が才能【異界創造】で創造した、「次元の狭間」へのアクセスキーだ。
その隔離された亜空間には、一人の男が封印されている。 数万年前、シンがまだ【始祖】としての力を完成させていなかった時代に捕食し、そのあまりに強大な自我と力を制御しきれず、やむなく封印した最強の腹心。
彼をこの世界に呼び戻すには、次元の扉をこじ開けるだけの膨大なエネルギー――それも、神話級の怪物が持つ純度の高い【才能】と、それを束ねて新たな概念を生み出す「鍵」が必要となる。
「……アレス。いるのだろう?」
シンが虚空に呼びかけると、玉座の脇の影が揺らめいた。 そこから音もなく姿を現したのは、紅蓮の髪を持つ青年――四天【炎】のアレスだ。
「はっ。御前に」
アレスは恭しく膝をつき、頭を垂れる。 主の本来の姿(18歳)を前に、その強大な魔力に当てられ、全身を震わせながらも歓喜の表情を浮かべている。
その気配を感じ取り、空間の四方から残りの三名も転移してくる。 【聖】ミラ、【鋼】ボルトス、【影】チェルシー。 レギオン最強の実働部隊である四天が、瞬時に玉座の前に整列した。
「我々はこれより、次の段階へ移行する。……ただの国盗りごっこは終わりだ」
シンは彼らを見下ろし、冷徹に告げた。
「私はこれから、少し遠出をする。 私の『半身』とも呼べる執事を呼び戻すための、燃料集めにな」
「燃料……で、ございますか?」
アレスが顔を上げ、恐る恐る尋ねる。 シンは薄く笑い、指を二本立てた。
「ああ。この地下迷宮の最深部、第100階層に巣食う『始祖の暗黒龍』。 そして、北の氷河の遺跡に眠る『鮮血の真祖』。 ……それらの【才能】を喰らい、封印を解くための触媒とする」
四天たちの間に戦慄が走る。
暗黒龍に、真祖の吸血鬼。 どちらも位階SS(天災級)。 人類にとっては災害そのものであり、歴史書の中でしか語られない伝説の怪物たちだ。出会えば死が確定する、理の外側にいる存在。
だが、アレスの瞳に宿ったのは恐怖ではなかった。 主を守るという忠誠心と、強敵と戦いたいという武人の本能が、真っ赤な炎となって燃え上がる。
「お供しますッ!」
アレスが即座に叫んだ。 床に拳を叩きつけ、懇願する。
「俺の炎で、そのトカゲ共を焼き尽くしてご覧に入れます! 主の手を煩わせるまでもございません!」
「私もですわ、シン様。不浄な吸血鬼など、私の光で浄化してみせます」
ミラが進み出る。 ボルトスも大盾を構え、チェルシーも影からナイフを抜く。 彼らは本気だった。主のためなら、たとえ相手が神話の怪物であろうと、命を賭して戦う覚悟がある。
だが。 シンの返答は、無慈悲なほどに冷淡だった。
「……よせ」
声のトーンが一段階下がる。 それだけで、室内の空気が鉛のように重くなり、四人の肩にのしかかった。
「足手まといだ」
「ッ……!?」
アレスが言葉を詰まらせる。 まるで心臓を直接握り潰されたような衝撃。
シンは玉座の階段を降り、アレスの目の前に立った。 見下ろす深紅の瞳には、侮蔑ではなく、冷徹な事実確認の色だけがある。
「勘違いするな、アレス。 お前たちは強くなった。人間という枠組みの中ではな。 ……だが、今の貴様らは所詮、位階A+(準災害級)。 私がこれから狩ろうとしているのは、Sランクすら超えた、理の外側に片足を突っ込んだ化け物(SSランク)たちだ」
シンはアレスの肩に手を置く。 ズンッ、と魂が押し潰されるような重圧。アレスの膝が震え、床にめり込む。
「今の貴様らがついてきても、余波で消し飛ぶのがオチだ。 ……大人しく留守番をしておけ」
「そ、そんな……」
アレスは拳を握りしめ、床を睨んだ。 悔しい。 主の力になれないことが。自分がまだ「弱い」と断じられたことが、死ぬよりも辛い。
自分たちは強くなったはずだった。帝国の軍勢など敵ではないと自負していた。 だが、主が見ている景色は、もっと遥か高みにある。 自分たちはまだ、その足元にも及んでいないのだ。
悔しさに震えるアレスの肩から、シンは手を離した。 そして、そんな彼らの絶望を、嘲笑うのではなく、糧にするように続けた。
「焦るな。 ……私がその怪物どもを狩り、あの執事を目覚めさせた時。 私の支配領域は完成し、真の組織へと変貌する」
シンは飴を与えるように、甘く囁いた。
「新たな幹部が加わることで、お前たちにもその恩恵が流れる。 今の限界を突破し、本物の『Sランク(災害級)』へ……あるいはその先へ至る道が開かれるだろう。 ……強くなりたければ、今は耐えて牙を研いでおけ」
その言葉に、アレスがバッと顔を上げた。 主は自分たちを見捨てたのではない。さらなる高みへ連れて行くために、今は待てと言っているのだ。
「……はッ!!」
アレスは額を床に擦り付けて平伏した。 その声は震えていたが、迷いは消えていた。
「必ずや、ご期待に添えるよう精進いたします! この命、燃え尽きるまで貴方様のために!」
ミラたちも続く。 主への狂信的な愛と、強さへの渇望が、地下宮殿の空気を熱く震わせる。
「ネモとジェイドの手綱は任せる。 私がいない間、他国からの干渉があるかもしれんが……まあ、適当にあしらっておけ」
「御意!」
シンは踵を返し、玉座の奥にある「転移の間」へと向かった。 そこは、迷宮の各階層へと繋がる闇のゲートが開かれている場所だ。
シンはゲートの前で足を止め、自身の両手を見つめた。 溢れ出る魔力。世界を飲み込むほどの虚無。
「……地上に出るならば、脆弱な世界を守るために15歳の皮を被らねばならんが」
シンはニヤリと凶悪な笑みを浮かべた。
「これから向かうのは深淵。 この姿のままでも、世界は壊れんさ」
シンが一歩、ゲートの闇の中へ足を踏み入れる。 本来の姿、最強のコンディションのまま、魔王は狩りへと出向く。
「待っていろよ、トカゲ。 ……『彼』を目覚めさせるための糧となれることを、光栄に思え」
シンが闇の奥へと消えていく。 その背中からは、隠しきれない愉悦と、捕食者特有の殺気が滲み出していた。
◇
――こうして、魔王は動き出した。 次元の彼方に眠る腹心を呼び戻すため、神話の怪物たちを「収穫」する旅へ。
一方その頃。 地上の王都ゼノリスでは、毒に侵された第一王子ギルバートが、誰もいない玉座の間で狂乱の声を上げていた。
「なぜだ……なぜ誰も来ないッ! 余は王ぞ? 選ばれし血脈ぞ? なぜ、どいつもこいつも余を見捨てる……!」
孤立無援。 信頼していた宰相も、弟も消え、貴族たちにも見放された裸の王子。 彼の瞳には、もはや理性の光はなかった。あるのは、追い詰められた鼠のような焦燥と、世界すべてを恨む濁った憎悪のみ。
「民など、どうでもいい……。余が生き残れば、其処が国だ。 ……そうだ、余こそがゼノリスなのだ」
彼はゆらりと立ち上がった。 その足取りは夢遊病者のように頼りないが、向かう先だけは明確だった。
王城の地下。 歴代の王ですらその存在を口にすることを憚った、「真の禁忌」が眠る場所へ。
国を滅ぼす最後の引き金が、今まさに引かれようとしていた。
お読みいただきありがとうございます!
今回は「出撃準備」回でした。
さて、次回は視点を少し広げます。 腐り落ちつつあるゼノリス王国を狙って、東と西の大国が動き出します。 彼らは自分たちが捕食者だと思っていますが……残念ながら、蜘蛛の巣の上では獲物でしかありません。
【作者からのお願い】 「18歳シン様のオーラが凄い!」「執事の正体が気になる!」と思っていただけましたら、 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると嬉しいです! 皆様の応援が執筆の原動力です。ぜひよろしくお願いします!
続きます。




