第44話 白衣の悪魔と千の顔
世界とは、薄氷の上に築かれた砂上の楼閣に過ぎない。
ひとたび亀裂が入れば、そこから噴き出す闇は瞬く間に理性を飲み込み、安寧という名の幻想を食い破る。
城塞都市ネメシスの地下深く。 地上の喧騒も、太陽の光さえも届かぬ次元の彼岸に、その場所は存在した。
拠点『地下宮殿』。
始祖たるシンが、己の才能【異界創造】を用いて世界から切り取った、絶対不可侵の聖域。
その最奥に位置する玉座の間は、物理的な質量を伴うほどの濃密な魔素と、張り詰めた静寂に支配されていた。
壁面を覆う黒曜石は、地下の燐光を吸い込んで妖しく脈動し、天井に広がる偽りの星空が、冷徹な支配者の瞳のように瞬いている。
その中心、一段高く設えられた漆黒の玉座に、一人の青年が腰を下ろしていた。
シン。 この世界の裏側を統べる絶対支配者にして、レギオン【蜘蛛】の頂点。
地上で見せる「Fランクの少年(15歳)」という道化の仮面は脱ぎ捨てられ、そこには本来の姿である18歳の青年が君臨している。
闇を織り込んだようなロングコートを纏い、深紅の魔眼で虚空を見据えるその姿は、神話の画帳から抜け出したかのような、禍々しくも美しい魔王そのものであった。
「……役者は揃ったか」
シンの低い声が、重低音となって広間に響く。 それは問いかけではない。空間そのものへの確認であり、絶対的な肯定であった。
玉座の階段の下、冷たい石床に傅く二つの影があった。
一人は、顔の右半分を不気味な道化師の仮面で覆った女性。 漆黒のボディスーツの上から極彩色の道化衣装を纏い、その細い指先では、鋭利な曲芸用のナイフがまるで生き物のように踊っている。
レギオン幹部・十王第三席、【諜】のネモ・ローズ。
もう一人は、混沌とした次元の狭間にはあまりに不釣り合いな、純白の白衣を羽織った知的な女性。 銀縁眼鏡の奥で冷徹な理性の光を宿すその瞳は、眼前の主以外のすべてを「物質」として見ているかのような無機質さを湛えていた。
レギオン幹部・十王第四席、【医】のサフィナ・ダルトン。
「――作戦概要は以上だ」
シンは、手元に浮かぶ幻影の窓を指先で弾き、虚空へと消した。 そこには、ジェイドから転送された王都ゼノリスの経済状況と、腐敗しきった貴族たちの生態が詳細に記されていた。
「ジェイドの経済封鎖は順調に推移している。穀物の流通を絞り、必需品の価格を高騰させたことで、王都の民衆の生活水準は限界まで低下した。セリスとミラも、民衆の受け皿となる準備を着々と進めている」
シンは手元のグラスを揺らし、紅い液体――高純度の魔力液を眺める。 その瞳には、これから始まる惨劇への期待と、退屈な遊戯への倦怠が入り混じっていた。
「だが、爆発させるにはまだ火力が足りない。……人間というのは惰弱な生き物だ。ただ腹が減った、生活が苦しいという程度の不満なら、文句を言いながらも耐えてしまう」
シンの唇が、三日月のように裂けた。
「必要なのは『殺意』だ。 王家への不信を決定的な憎悪に変え、社会そのものを崩壊させる引き金が必要なんだ」
民衆がただの被害者でいるうちは、革命など起きない。 彼らを獣に変え、牙を剥かせるためには、理不尽な死と、逃げ場のない絶望を味あわせる必要がある。
「ウフフ……つまり、ボクたちの出番ってわけだねぇ、主?」
ネモが仮面の下から、鼓膜を撫でるような甘く粘着質な声を出した。 彼女はクネクネと蛇のように体を揺らし、道化衣装についた鈴をチリンと鳴らす。
「その通りだ。 ネモ、お前は『上』を腐らせろ。 貴族社会特有の嫉妬と猜疑心を利用し、第一王子ギルバートの足元を泥沼に変えてやれ」
「了解~! 嘘と演技はボクの十八番だからねぇ。 ……ねえマスター、その王子様、ちょっとくらい泣かせちゃってもいい?」
「構わん。ただし、殺すなよ。奴にはまだ『無能な暴君』として、セリスを引き立てるための道化を演じてもらわねばならん」
「はーい。最高の悪役に仕立て上げてあげる」
ネモが軽薄にウインクをする。 その仕草はコミカルだが、瞳の奥にあるのは獲物をいたぶることを楽しむサディストの光だ。
シンは一つ頷くと、次に白衣の女性へと視線を移した。
「サフィナ。お前は『下』を壊せ。 ……ミラが『奇跡』を起こすための舞台装置として、絶望的な災厄が必要だ」
「承知いたしました、シン様」
サフィナは眼鏡の位置を中指で押し上げ、懐から一本の試験管を取り出した。 愛おしそうに掲げられたそのガラス管の中では、毒々しい蛍光紫色の液体が、ドロリと重たげに気泡を上げている。
「ご安心ください。先日、地上の迷宮深層区画で採取した『深淵の蟲』の体液から抽出した因子を素体に、感染力と苦痛を最大化させた傑作が完成しております」
サフィナの声は、研究成果を発表する学者のように誇らしげだった。 だが、その内容は聞く者を戦慄させるに十分なものだ。
「名は『黒蜘蛛熱』。 感染すると高熱と共に皮膚に黒い斑点が浮かび上がり、内臓が溶解するような激痛に襲われます。 ……既存の回復魔法や薬草では治療不可能なように、因子の魔力構造を複雑に改変しました」
「ほう? 即死は困るぞ。あっさりと死んでしまっては、ミラが恩を売る余地がなくなるからな」
シンの指摘に、サフィナは妖艶な笑みで応える。
「計算済みですわ。致死率はあえて低く設定してあります。 その代わり、死ぬよりも辛い持続的な苦痛と、皮膚に醜悪な変色をもたらす視覚的恐怖を与えます。 ……人間は、あっさり死ぬことよりも、『醜く腐りながら生き続けること』を何よりも恐れますから」
淡々と、今日の天気の話でもするかのように語るサフィナ。 彼女にとって、これから苦しむ数万の人間など、ビーカーの中の微生物と変わらないのだ。 むしろ、実験データを提供してくれる有用な資源としてしか見ていない。
「治療法は、私の調合した『中和剤』と、ミラ様の聖魔法のみ。 ……完璧な自作自演です」
「上出来だ。……行け。この国を、お前たちの実験場にして構わん」
「御意」
二人の声が重なる。 同時に、彼女たちの手の甲に刻まれた蜘蛛の【忠誠の刻印】が紫色の光を放った。
空間がぐにゃりと歪み、地上への「道」が強制的に開通する。 【影渡り】。 シンの眷属にのみ許された、次元を超える移動手段。
二人の影はその歪みに飲み込まれ、波紋一つ残さず消失した。
国を蝕む二種類の猛毒が、閉鎖次元から王都へと解き放たれた瞬間だった。
シンは再び虚空を見上げ、独り言ちた。
「さあ、踊れ。……死に至る病の舞踏会だ」
◇
夜の帳が下りた王都ゼノリス。
下町では飢えた子供たちがゴミを漁り、冷たい石畳の上で身を寄せ合っているその刻。 貴族街の一角にある高級サロン『翡翠の館』では、今宵も優雅にして退廃的な夜会が開かれていた。
魔石灯のシャンデリアが眩い光を放ち、着飾った貴族たちが最高級のワインを片手に談笑している。 彼らの手には、下町で十人が一ヶ月暮らせるほどの金額の宝石が光り、テーブルには食べきれないほどの山海の珍味が並べられている。
しかし、その表情にはどこか陰りがあった。 享楽の裏側に張り付く、拭いきれない不安の影。
「……おい、聞いたか? また『祝賀税』が上がるそうだぞ」
肥満体の男爵が、脂汗を拭いながら囁く。
「勘弁してくれ。不作で領地の収益も落ちているというのに……ギルバート殿下は何を考えておられるんだ」
「国王陛下も病に伏せっておられるし、第二王子のバルダス様も行方不明……この国、本当に大丈夫なのか?」
不安げに囁き合う男たちの輪。 腐敗した果実の臭いに誘われるように、そこに一人の女性が滑り込んだ。
「あら、皆様。浮かないお顔ですこと」
その声は、鈴を転がすように軽やかで、かつ抗いがたい魅力を帯びていた。
豊かな金髪を複雑に巻き上げ、胸元が大きく開いた深紅のイブニングドレスを纏った絶世の美女。 白磁のような肌はシャンデリアの光を反射し、真紅のルージュが妖艶な笑みを形作っている。
その場にいた誰もが、息を呑んで彼女を見つめた。 誰も彼女を知らないはずだ。家名も、領地も、今まで見たこともない。 なのに、なぜか「どこかの名門貴族の令嬢だろう」「私の遠い親戚かもしれない」と、自然に認識してしまう。
第一恩恵【完全擬態】。
対象の記憶や認識に干渉し、「そこにいて当然の人物」になりすます、Aランク・ネモ・ローズの真骨頂である。 彼女は今、この場の全員にとっての「既知の他人」となっていた。
「おや、貴女は……?」
「ローズと申しますわ。父の代理で、遠方の辺境領から参りましたの。以後、お見知りおきを」
ネモは扇子で口元を隠しながら、流し目で男たちを見据える。 その瞳の奥で、怪しい魔力の光が揺らめいた。 獲物の喉元に牙を突き立てる瞬間を待つ、毒蛇の目だ。
「わたくし、田舎から出てきたばかりで疎いのですが……最近、怖い噂を耳にしましたの」
彼女は声を潜め、男たちの顔を覗き込むように身を乗り出す。 甘い香水の匂いが、男たちの理性を揺さぶり、思考を麻痺させる。
「……ギルバート殿下が、ご自身の即位を早めるために、国王陛下に『毒』を盛っていると」
「なっ……!?」
貴族たちが色めき立ち、ワイングラスの中身をこぼしかける。 通常なら不敬罪で即刻捕まるような、極めて危険な発言だ。
だが、ネモの声には【言霊】に似た暗示が含まれていた。 聞いた者の心の奥底にある「疑念」や「不満」を増幅させ、嘘を真実だと思い込ませる魔性の響き。
「バ、バカな! いくら殿下でも、実の父を……」
「でも、火のない所に煙は立たないと申しますわ。 それに……陛下が倒れられたのは、殿下と二人きりで食事をした直後だったと聞きますし」
ネモは言葉のナイフを、的確に急所へと突き立てていく。 事実かどうかは重要ではない。「ありそうだ」と思わせれば、それで十分なのだ。
「それに、セリス王女様の件も怪しいですわよね。あんなにお優しい方が、突然発狂して自殺だなんて。 ……あれも、何かを見てしまったから『口封じ』されたのでは?」
一度火がついた疑念は、枯れ草のように燃え広がる。 人間とは、自分が信じたい「悪口」であれば、証拠などなくても喜んで信じてしまう生き物なのだ。 特に、自分たちの地位や財産が脅かされている状況下では。
「そ、そういえば、殿下の側近が怪しい薬を運んでいるのを見たという話も……」
「まさか……いや、あの残忍な殿下ならやりかねん!」
「このままでは、我々もいつ粛清されるか……ッ!」
恐怖と疑心暗鬼が伝染していく様を見て、ネモは扇子の裏で舌を出した。
(チョロいねぇ。みんな、本当は今の王子が嫌いなんだ。ボクはただ、その背中をちょっと押してあげただけだよん)
彼女は扇子の影でニヤリと嗤うと、さらに別のグループへと移動する。 今度は、怯えた少女のような声色に変えて。
「……最近、夜な夜な城の窓に『白百合の幽霊』が出るそうですわ。 『兄様に殺された、呪ってやる』と泣き叫んでいるとか……」
嘘と噂は、夜会を通じて疫病のように拡散していく。 翌朝には、貴族たちの間で「ギルバート王子=親殺しの簒奪者」という図式が、公然の秘密として定着することになるだろう。
王都の上層部は、こうして内側から腐り始めた。
◇
ネモが華やかな社交界を毒に染めている頃。 光の当たらない場所、王都のスラム街は、死の静寂に包まれていた。
汚水が流れ、腐った生ゴミと排泄物の臭いが充満するドブ川のほとり。 そこに、場違いなほど真っ白な白衣を纏った女性が一人、佇んでいた。
十王・サフィナ。
彼女はハンカチで鼻を押さえることもなく、むしろ興味深そうに周囲を見渡していた。 泥にまみれて眠る浮浪者、咳き込む老婆、痩せ細った野良犬。
「不潔。非衛生的。栄養失調。……素晴らしいわ」
サフィナの唇が三日月のように歪む。 それは美しいが、見る者を戦慄させる狂気の笑みだった。
「抵抗力の低下した個体が密集している。 病魔の培養地(ペトリ皿)としては、これ以上ない最高環境ね」
彼女は懐から一本の試験管を取り出した。 月明かりの下、紫色の液体が妖しく発光する。
「さあ、行きなさい。『黒蜘蛛熱』」
ポン、と軽い音を立ててコルク栓が抜かれる。 サフィナが試験管を傾けると、紫色の粘液が一滴、また一滴とドブ川へ垂れ落ちた。
ポチャン。
液体は水に触れた瞬間、煙のように拡散し、透明になって消え失せた。 視覚的には何の変化もない。だが、魔力的な汚染は爆発的に広がっていく。
変化は劇的だった。
水を飲みに来た一匹のドブネズミ。 それが一口水を飲んだ瞬間、キーッと甲高い悲鳴を上げて跳ね上がった。
ビクン、ビクンと激しく痙攣し、その体が風船のように不自然に膨れ上がっていく。 皮膚の下で何かが蠢き、血管が黒く浮き出る。
そして――パンッ。
破裂音と共に、ネズミの腹が弾け飛んだ。 飛び散ったのは血ではなく、紫色の煙と、溶解した内臓のスープだった。
「あら、少し濃度が高すぎたかしら?」
サフィナは飛び散った肉片を冷ややかに観察し、手帳にサラサラと記録を書き込む。 その表情には、生命への敬意など微塵もない。
「溶解因子が強すぎるわね。 人間の場合、体重比を考慮すれば……うん、死にはしない。ギリギリで生殺しにできるはずよ」
このドブ川の水は、地下水脈を通じてスラム街の共用井戸へと繋がっている。 そして、明日の朝になれば、喉を乾かした住人たちが必ずこの水を口にする。
サフィナには見えていた。 高熱にうなされ、のたうち回る人々の姿が。 皮膚に黒い蜘蛛の巣のような血管が浮き上がり、内臓を焼かれる激痛に泣き叫ぶ地獄絵図が。
教会に祈っても、医者にすがっても、誰一人として治せない未知の奇病。 絶望が頂点に達した時、そこに颯爽と現れるのが、万能の霊薬を持った「聖女セリス」と「慈愛のミラ」というわけだ。
救済の演出のために、地獄を作る。 それがシンの描いたシナリオであり、サフィナはその忠実な実行者だった。
「……かわいそうな実験動物たち。でも感謝しなさい?」
サフィナは愛おしそうに、空になった試験管にキスをした。
「貴方たちの犠牲は、偉大なるシン様の世界征服のための礎になるのだから。 ……せいぜい、良い記録を残して死んで頂戴」
彼女は白衣を翻し、闇夜へと消えていく。 その背中は、命を救う医師ではなく、死を振り撒く死神そのものだった。
◇
翌日。
王都ゼノリスの朝は、いつもと変わらぬ太陽の光と共に訪れた。 だが、その光が照らし出したのは、希望ではなく絶望だった。
「だ、誰か……助けてくれぇ……ッ!」
スラム街の路地裏から、男の絶叫が響いた。
「体が、熱い……! 肌に、黒いアザが……!」
一人の男が道端でのたうち回っている。 その顔には、蜘蛛の巣状の黒い痣が浮かび上がり、口からは紫色の泡を吹いていた。
「神父様! どうか、娘を……!」
「ダメだ、教会も開けてくれない!」
悲鳴と怒号がスラム街から溢れ出し、やがてそれは王都全体を飲み込む恐慌へと変わっていく。
貴族たちは王子を疑い、民衆は病に倒れる。 上からは猜疑心が、下からは疫病が。 国の上下から同時に放たれた毒が、ゼノリス王国という巨人を蝕んでいく。
王城の尖塔で、風見鶏がキィと音を立てて回った。 それはまるで、国の終わりの始まりを告げる悲鳴のようだった。
ゼノリス王国崩壊へのカウントダウン。 その針は、今まさに静かに、そして確実に動き出したのである。
本日も読んでいただき、ありがとうございます!
今回は、味方側なのに「完全に悪役」なネモとサフィナの暗躍回でした。
サフィナの「実験大好きマッドサイエンティスト」ぶりと、ネモの「息をするように嘘をつく」スキル……。
正直、敵に回したくないランキング上位の二人かもしれません(笑)。
民衆にとっては地獄ですが、シンたちにとっては計画通り。ここからどう「マッチポンプ」で救っていくのかが見どころです。
もし「容赦ない悪役ムーブが清々しい!」「サフィナが怖すぎるw」と思っていただけたら、
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続きます。




