第43話 腐敗する王都
ゼノリス王国。 大陸の中央北部に位置し、かつては「剣と豊穣の国」としてその栄華を謳われた大国である。
その心臓部たる王都ゼノリス。 二重の城壁に守られたこの都市は、今、目に見えぬ「病魔」に冒されていた。
それは肉体を蝕む疫病ではない。 国という巨大な生命体の血管を詰まらせ、臓器を腐らせ、緩やかな死へと誘う「腐敗」という名の猛毒である。
都市の中央、小高い丘の上に鎮座する「白亜の宮殿」。 かつてはその名の通り、雪原の如く純白の輝きを放ち、民草の希望の象徴として君臨していた城塞。 だが今、その外壁は煤と脂で薄汚れ、どこか淀んだ灰色に沈んでいるように見えた。
城内、国王執務室。 本来であれば、賢明なる王が国政を司り、臣下たちの活発な議論が交わされるべき神聖な場所。 しかし現在、そこを支配しているのは、鼻を突く安酒の臭いと、神経質な怒声だけであった。
「……遅いッ!!」
クリスタルで作られたワイングラスが、大理石の床に叩きつけられる。 ガシャン、という硬質な破砕音と共に、赤い液体が絨毯に広がり、まるで切り立ての血痕のように染み込んでいく。
「いつまで待たせるのだ! 宰相! 報告はどうした!」
玉座に座り、ヒステリックに叫ぶ男。 第一王子、ギルバート・ゼノリス。
年齢は三十代半ば。 王家の血筋特有の整った顔立ちをしてはいるが、その肌は不摂生により蝋のように白く、目の下にはどす黒い隈が刻まれている。 贅肉のついた指先は常に小刻みに震え、何かを恐れるように、あるいは苛立つように、黄金の肘掛けを爪で叩き続けていた。
「も、申し訳ございません、殿下……!」
重厚な扉が開き、転がり込むように入ってきたのは、初老の男――宰相であった。 彼は額に脂汗を浮かべ、主君の不機嫌を何よりも恐れる小動物のように身を縮めている。
「遅いぞ無能が。……で、どうなった? あの『忌々しい娘』は」
ギルバートが問うたのは、妹である第三王女セリスのことだ。 十日前、父王への毒殺未遂という冤罪を捏造し、北の果てにある絶対監獄「嘆きの塔」へと幽閉した、目の上の瘤。
民衆からの人気が高く、清廉潔白な彼女の存在は、次期国王の座を狙うギルバートにとって、何よりも邪魔な障害であった。
「はっ……。ご報告申し上げます」
宰相は震える声で、羊皮紙を読み上げた。
「昨日未明、塔の最上階におきまして……セリス様の姿が忽然と消えているのを、見回りの看守が発見いたしました」
「なに? 消えただと?」
ギルバートの眉がピクリと跳ねる。 殺気立った視線に射抜かれ、宰相は慌てて言葉を継いだ。
「げ、現場には……内側から破壊された鉄格子と、千切れた衣服の切れ端が残されておりました。 塔の下は断崖絶壁、さらにその下には魔物が徘徊する樹海が広がっております。……状況から見て、恐らくは」
宰相はそこで言葉を区切り、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「……絶望のあまり、自ら窓を破り、身を投げたものかと」
「…………」
静寂が、執務室を支配する。 ギルバートはポカンと口を開け、数秒の間、呆けたように宙を見つめていた。
やがて。 彼の口元が、小刻みに震え始めた。 それは悲しみでも、驚きでもない。
「……ク、ククッ……」
抑えきれない歓喜の震え。
「ハハハ! アーッハッハッハッハ!!」
ギルバートは腹を抱え、天井を仰いで哄笑した。 その笑い声は、空虚な部屋の中で反響し、狂気じみた響きを帯びていた。
「自殺か! あの聖女気取りが! 民衆の希望の星が! 最後は絶望に発狂し、ミンチになって野垂れ死にか! 傑作だ、これ以上の喜劇があるか!」
「は、はい……。遺体の回収部隊を出しましたが、魔物の森ゆえに捜索は困難を極めており……」
「構わん! 探す必要などない!」
ギルバートは涙が出るほど笑い転げた後、残忍な笑みを浮かべて言い放った。
「どうせ死体など見ても気分が悪くなるだけだ。魔物の餌になったのなら、それが奴の墓標よ。 ……公式発表はこうだ。『セリス王女は、自らの罪の重さに耐えきれず、塔内で自害した』。……これなら王家の体面も保たれるし、国民もあの女を『罪を認めた卑怯者』として記憶するだろう」
「仰る通りでございます。……さすがは次期国王陛下、ご慧眼恐れ入ります」
宰相が揉み手をして追従する。 その卑屈な態度に、ギルバートの自尊心は肥大化した風船のように膨れ上がった。
「ふん、当然だ。これで王位継承の障害は消えた。……父王の病状も思わしくない。この国は実質、余のものだ」
ギルバートは新たなグラスにワインを並々と注ぎ、一息に飲み干した。 勝利の美酒。 長年抱えてきた劣等感と不安が、アルコールと共に霧散していく。
「おい、次の祝宴の準備はどうなっている? 邪魔者が消えたのだ、盛大に祝わねばならん。国中の貴族を集め、三日三晩の宴を開くぞ」
「はっ、しかし……」
宰相が言い淀む。
「連日の夜会と、先月の不作により、国庫には余裕がございません。これ以上の浪費は……いえ、歳出は、財政を破綻させる恐れが……」
「黙れ無能が!」
ギルバートは、空になったボトルを宰相に向けて投げつけた。 鈍い音がして、宰相の肩に直撃する。
「金がないなら、絞り取ればいいだろう! 民草など、王家のために血を流し、金を産むために生かしてやっている家畜だ! 今日から『祝賀税』を導入しろ。税率を倍に引き上げ、払えぬ店からは商品を、払えぬ家からは娘を徴収しろ!」
「ひっ、は、はいっ……! 直ちに!」
宰相が逃げるように退室していく。 ギルバートは椅子に深くもたれかかり、シャンデリアの輝きを見上げた。
「ハハハ……ようやく余の時代だ。 セリスよ、地獄で見ていろ。この国は、この玉座は、余のものだ」
王子の高笑いが、腐敗した城に虚しく響く。 彼は気づいていない。 自分が捨てたはずの「死体」が、地獄の底から這い上がり、既に喉元まで迫っていることに。 そして、その背後には、国ごと喰らい尽くす巨大な毒蜘蛛が、静かに糸を張り巡らせていることに。
◇
王都ゼノリスの下町。 かつては大陸交易の要衝として栄え、色とりどりの果実や織物が溢れかえり、活気に満ちていたメインストリート。 だが今、その通りは、見る影もなく荒廃していた。
石畳はひび割れ、補修されることもなく放置されている。 路地裏には回収されないゴミが散乱し、鼻を突く腐臭が漂っている。 何より異様なのは、通りに並ぶ商店の半数以上が扉を閉ざし、打ち付けられた木の板が墓標のように並んでいることだ。
『閉店』 『税滞納により差し押さえ』 『売り切れ(入荷未定)』
無機質な張り紙が、冷たい風に揺れる。 道行く人々は皆、痩せこけ、色のないボロ服を着てうつむいて歩いている。 彼らの瞳には光がなく、ただ今日一日をどう生き延びるかという、重く淀んだ絶望だけが漂っていた。
「……酷い有様ですね」
通りの片隅。 崩れかけた石壁の陰に、フードを目深に被った二人の人物が佇んでいた。
一人は、上質な生地の服を着た、商人のような身なりの長身の男。 もう一人は、頭からすっぽりとローブを被った小柄な人物だ。
「これでも、三年前までは大陸で五本の指に入る豊かな都だったんですよ。……無能な支配者が立つと、国というのはこうも簡単に腐るものです」
商人の男――レギオン幹部・十王の第一席、ジェイド・バーンズが、皮肉っぽく肩をすくめた。 彼の眼窩には金縁のモノクルが光り、その奥にある瞳は、眼前の惨状を「数字」と「損益」として冷徹に分析している。
彼は懐から分厚い帳簿を取り出し、万年筆を走らせた。
「パンの価格は先月の三倍。燃料は五倍。そのくせ、貴族街の高級品だけは値崩れしていない。……典型的な末期症状です。民の血を啜って、上だけが肥え太っている」
「……兄様は、経済のことなんて何も理解していないわ。あの人は、民を『金貨が湧いて出てくる魔法の泉』か何かだと思っているもの」
ローブの人物――セリスが、フードの下で唇を噛んだ。
彼女は今、十王ネモ・ローズの第一恩恵【完全擬態】の応用によって髪色を栗色に変え、顔立ちも平凡な町娘風に偽装していた。 もし今の彼女が王女の姿でここに立てば、瞬く間に衛兵に捕らえられるか、あるいは飢えた民衆に八つ当たりで襲われるかもしれない。
だが、その双眸に宿る光だけは隠せない。 【統率】と【傀儡の女王】に覚醒した彼女の瞳には、かつての「嘆き」や「悲しみ」ではなく、冷徹な「怒り」と「計算」が浮かんでいる。
「ジェイド様。この通りの『買い占め』はどの程度進んでいますか?」
セリスの声は低く、そして鋭かった。 それは、守られるだけの姫君の声ではない。盤面を支配する女王の声だ。
「順調ですよ、セリス様。表向きは他国の商会を使って、主要な穀物問屋と燃料倉庫の七割を既に押さえました。残りの三割も、借金のカタとして近日中に我が手中に落ちます」
ジェイドは、セリスに対して恭うやうやしく、しかし対等なビジネスパートナーとして接している。 シンから「セリスに従え」と命じられていることもあるが、何より彼女の放つ「支配者としての覇気」が、老獪な商人である彼の勘を刺激していたからだ。 この王女は、使える。 ただの飾りではない。国を動かすための「核」になり得る。
「七割……十分ね。では、次の段階へ移りましょう」
セリスは通りを行く衛兵たちを一瞥した。 彼らは商店の店主を殴りつけ、売上金を無理やり奪っている。 「祝賀税だ! 払えんのなら店ごと焼くぞ!」と怒鳴り散らすその姿は、国を守る兵士ではなく、ただの野盗に等しい。
「ジェイド様は、経済の血管を握り続けてください。物資を止めて、流通を滞らせ、王都の飢餓感を極限まで煽るのです」
「お安い御用です。……ですが、民が死んでしまっては元も子もありませんよ?」
ジェイドが試すように問う。 かつての聖女セリスなら、ここで「可哀想な民を助けて」と泣きついたかもしれない。
だが、セリスは冷然と言い放った。
「ええ。だからこそ、私たちが『餌』を撒くのよ」
彼女の瞳が、妖しく紫に輝く。
「民が飢え、渇き、絶望し、もはや誰にも頼れないと悟ったその瞬間に、救いの手を差し伸べる。 そうすれば、彼らは王家ではなく、パンをくれる『新しい神』に尻尾を振るわ」
かつての彼女なら、自分の私財を投じてでも今すぐ民を助けただろう。 だが、今の彼女は知っている。 中途半端な慈悲は、腐敗を長引かせるだけだと。 膿んだ肉は、一度完全に切り落とさなければならない。 一度完全に壊し、更地にしてからでなければ、レギオンの旗は立たないのだ。
「……恐ろしいお方だ。シン様が貴女を選んだ理由がよく分かります」
ジェイドは感嘆の息を漏らし、優雅に一礼した。
「聖女の皮を被った、冷酷なる女王。……フフッ、ゾクゾクしますね。この国を貴女がどう料理するのか、特等席で見せていただきますよ」
「では、私は商会へ戻ります。……セリス様は?」
「私は『授業』に戻ります。私の先生がお待ちですので」
セリスは路地裏の影に入ると、自身の影に意識を集中させた。 【影渡り】。 シンの刻印を持つ眷属にのみ許された、絶対安全圏への鍵。
彼女の体が影に沈み込み、瞬時にして王都の喧騒が遠ざかった。
◇
地下宮殿。 地上とは隔絶された次元の狭間にある、レギオンの総本部。
その一角にある、豪奢な天蓋付きベッドが置かれたプライベートルーム。 そこは、聖女ミラの私室であり、セリスのための「教室」でもあった。
「あら、お帰りなさいセリスちゃん。初めての『視察』はどうだった?」
ベッドに腰掛けたミラが、優雅に紅茶を飲みながら微笑みかけた。 部屋の中は、甘いお香の匂いが立ち込めている。 だが、その足元には、異様な物体が転がっていた。
グルグル巻きに拘束され、口に猿轡を噛まされた二人の衛兵だ。 彼らは白目を剥き、何やらブツブツと虚ろな声で祈りの言葉を呟き続けている。
「……ミラ様、その方々は?」
セリスが問うと、ミラは楽しげに言った。
「ああ、これ? 王都から少し『拝借』してきたの。 街で暴れていた質の悪い衛兵よ。貴女の新しい力、【人心掌握】の練習台になってもらったわ」
ミラは衛兵の頭を、愛玩動物を撫でるように優しく撫でた。 衛兵はビクリと震え、そして恍惚とした表情でミラを見上げ、すり寄っていく。 完全に「壊れて」いる。 自我を奪われ、ミラという存在に依存しきった人形の姿。
「人間の心なんてね、脆いものよ。 恐怖を与えて、絶望させて……その後に少しの優しさと、甘い『言葉』を与えれば、簡単に依存するわ」
ミラは立ち上がり、紅茶をセリスに手渡す。
「ヴィンセントのおじ様は、兵士を鍛えて強くする『軍の統率』が得意だけれど……貴女に求められているのは違うわ。 貴女の役割は、心を溶かして、思考を奪い、盲目的な信者を作る『魂の統率』よ」
「魂の、統率……」
セリスは自分の手を見つめる。 街で民衆を見た時、不思議な感覚があった。 彼らの不満、怒り、悲しみといった感情が、まるで「色」のように視えたのだ。 赤い怒り、青い悲しみ、そして黒い絶望。 そして直感的に理解した。どの言葉を投げかければ、その感情を爆発させられるかを。 どの傷を撫でれば、彼らが自分にひざまずくかを。
「今の王都は、乾いた薪の山と同じです。……私が小さな火種を落とせば、一瞬で燃え上がる」
「ええ、そうよ。でも、ただ燃やすだけじゃダメ。その炎が『誰のために』燃えるかが重要なの」
ミラはセリスの背後に立ち、その耳元で悪魔のように囁いた。
「彼らの怒りの矛先を王家に向けさせ、彼らの愛と依存を、貴女に向けさせる。 ……さあ、練習しましょうか。この国を、貴女の言葉一つで踊る舞台に変えるために」
セリスはフードを脱ぎ捨て、銀髪を露わにした。 鏡の前に立つ。 そこに映っていたのは、かつての悲愴な面影を持つ少女ではない。
復讐に燃える紫の瞳。 獲物を狙う蜘蛛のような、妖艶で残酷な笑みを浮かべた、若き支配者の顔。
「はい、お姉様(ミラ様)。……徹底的に、教えてください」
地下宮殿で、二人の「聖女」が微笑み合う。 地上では、ギルバート王子がさらなる増税を発表し、民衆の怒りが臨界点に達しようとしていた。
準備は整った。 次は、奇跡という名の劇薬を投下する番だ。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
ギルバート王子、清々しいほどの無能ムーブでしたね。
彼が調子に乗れば乗るほど、後の「ざまぁ」が美味しくなるというものです。
そして、街の惨状を確認したセリス。
かつての彼女なら心を痛めて終わりでしたが、今の彼女はジェイドと対等に「いつ餌を撒くか」を議論しています。
完全にレギオン色に染まっていますね……。
もし「ギルバートの最後が楽しみ!」「セリスの変貌ぶりが良い!」と思っていただけたら、
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