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第42話 アンダー・ネストの新しい客

 物理的な距離も、時間の概念さえも置き去りにした移動。 影渡り(シャドウ・ゲート)とは、単なる空間転移ではない。 次元の裂け目を縫い合わせ、座標をゼロにする、始祖(オリジン)のみに許された神域の歩法である。


セリスが瞬きをした、その刹那。 肌を刺していた塔の冷気と、頬を濡らす夜風は消失していた。


代わりに全身を包み込んだのは、質量を持った闇と、肺腑を圧迫するほどに濃密な魔素(マナ)の奔流。


「ここは……?」


セリスは目を見開いた。 彼女の視界に広がっていたのは、地上の常識を根底から覆す異界の光景だった。


広大な地下空洞。 天井は見えないほど高く、闇の奥に青白く発光する光苔(ヒカリゴケ)が、偽りの星空のように点在している。 その幻想的な光の下、漆黒の岩盤をくり抜いて築かれた、巨大な建造物が鎮座していた。


城ではない。 それは、鋭利な棘と曲線が複雑に絡み合った、巨大な「巣」を思わせる宮殿。 黒曜石で築かれた威容は、見る者を畏怖させ、同時に引きずり込むような妖しい美しさを放っている。


「ようこそ、我が拠点『地下宮殿(アンダー・ネスト)』へ」


シンが低い声で告げる。 彼は契約時の姿――18歳の青年のままだ。 ここには、彼の正体を偽る必要のある観客はいない。 漆黒の長衣をなびかせ、シンは堂々と宮殿の入り口へと歩を進める。その背中には、世界の王たる覇気(オーラ)が満ちている。


「ここが、世界の裏側……」


セリスは震える足で彼の後を追った。 恐怖はある。だが、それ以上に彼女の魂を揺さぶっていたのは、高揚感だった。 自分が捨てた腐った世界(地上)とは違う、力と秩序が支配する真の世界。


入り口の巨大な扉には、複雑な紋章が刻まれている。 八本の脚を広げ、世界を抱え込む蜘蛛の意匠。 裏社会で囁かれる正体不明の組織、【細蟹(クモ)】の紋章だ。


ズズズズズ……ッ。


扉が、重々しい音を立ててひとりでに開く。 中から溢れ出したのは、肌を焦がすような魔力の熱風だった。


広大な謁見の間。 壁面には無数の魔剣や宝具が飾られ、床には深紅の絨毯が玉座へと続いている。 そして、その絨毯の両脇には、異形の影たちが整列していた。


全身を鋼の甲殻で覆った騎士。 闇に同化するような装束の暗殺者。 聖職者の衣を纏いながらも血の匂いをさせる女。 そして、燃え盛る炎のような闘気を放つ巨漢。


彼ら一人一人が、一国を滅ぼしかねないほどの力を秘めた怪物たちだ。 だが、シンが玉座に向かって歩き出すと、彼らは一斉に膝をつき、頭を垂れた。


衣擦れの音一つしない、完璧な統制。 絶対的なヒエラルキーが、そこにはあった。


「お帰りなさいませ、(あるじ)!」


玉座の階段の下、四つの影が声を揃えた。 彼らから放たれる覇気(ハキ)は、その他大勢の配下とは次元が違った。 四天(テトラ・カラミティ)。 セリスは本能的な恐怖に足を止めそうになるが、シンの背中だけが唯一の道標だった。


シンは悠然と玉座に腰を下ろす。 足を組み、頬杖をついて眼下の幹部たちを見下ろした。 その姿は、まさしく夜の王だ。


「面を上げろ」


許可が下りる。 【四天(してん)】と呼ばれる最高幹部たちが顔を上げた。


先頭にいるのは、燃え盛る炎のような赤髪の青年。 Sランク【紅蓮の魔人(クリムゾン・ロード)】アレス。 「お待ちしておりました、シン様! 北の害虫掃除はいかがなされましたか? 俺が行けば、王城ごと灰にできましたのに!」


その隣、慈母のような微笑みを浮かべた美女。 Sランク【慈愛の聖女(ホーリー・マザー)】ミラ。 「あらアレス、野蛮ね。シン様はスマートな狩りがお好きなのよ。……お帰りなさいませ、シン様。お怪我はありませんか? もし指一本でも傷ついていたら、このミラ、世界中を『浄化』して回りますわ」


さらに隣、巨大な盾を背負った、岩山のような巨漢。 Sランク【不落の城塞イモータル・フォートレス】ボルトス。 「……無事の帰還、慶賀に堪えません」


最後は、幼いメイド服の少女。だがその影からは無数の刃が覗いている。 Sランク【影の住人(シャドウ・ストーカー)】チェルシー。 「お帰りなさいませ、マスター。……後ろの『それ』は、餌ですか? それとも新しいペットですか?」


四者四様の視線が、シンの背後に立つセリスに突き刺さる。 餌を見る目、値踏みする目、興味なさげな目。


セリスは呼吸すら忘れ、ガタガタと震えた。 魔力の知識がない彼女でも、肌で理解できてしまう。 彼ら一人一人が、王宮魔導師団が束になっても敵わない「天災(カラミティ)」級の怪物であると。


「紹介しよう。セリス・ゼノリスだ。今日から【細蟹(クモ)】の一員となる」


シンが短く告げると、四天たちの殺気が霧散した。 主の所有物であると認識した瞬間、彼らの態度は「敵」へのそれから「同胞(または道具)」へのそれへと切り替わる。


「ほほう、これが噂の『悲劇の王女』ですか」


アレスが興味深そうに立ち上がり、セリスに近づく。 その身長は2メートル近い。見下ろされるだけで圧死しそうな威圧感。


「見たところ、ただの非力な小娘……いや、魔力回路は開通していますが、使い方も知らぬ素人のようですな」


アレスの瞳が赤く輝き、セリスの能力(ステータス)をスキャンするように見つめる。


「ふむ。【才能(ゼロ)】は『祈り』ですか。そこから派生した【派生(ブランチ)】は……『礼儀』『歌唱』『清浄』『精神統一』の四つだけ。職業(クラス)認定に必要な五つ目のブランチすら発現していない。……これでは『一般人(Fランク)』と変わりませんな」


アレスの容赦ない分析に、セリスは顔を伏せた。 この世界において、強さとは【才能(ゼロ)】と【派生(ブランチ)】で決まる。 生まれ持った核である【才能(ゼロ)】を使い込み、熟練度が上がると新たな能力【派生(ブランチ)】が枝分かれするように発現する。 その組み合わせで【職業(クラス)】が決まるのだ。


王族として守られ、温室で育ったセリスには、命懸けの修練など無縁だった。 だから彼女は弱かった。無力だった。 兄たちに嵌められ、何もできずに幽閉されたのも、力がなかったからだ。


「見込み違いではありませんか、シン様?」


アレスが首を傾げる。 「これなら、街の踊り子の方がまだマシな能力を持っていますよ。我々の戦力にはなり得ません」


「アレス、貴様の目は節穴か」


シンの冷ややかな声が響いた。 温度のない、絶対零度の宣告。


「ッ……!?」


アレスがビクリと肩を震わせ、即座に平伏する。 「も、申し訳ありません!」


「彼女の【才能(ゼロ)】は『祈り』などというありふれたものではない。……それは環境によって歪められ、去勢された、ただの枷だ」


シンは玉座から立ち上がり、階段を降りてセリスの前に立った。 そして、彼女の額――【忠誠の刻印(ロイヤル・ブランド)】が刻まれるべき場所に、指を触れる。


「セリス、お前は生まれつき持っていたはずだ。人を惹きつけ、言葉一つで場を支配する異常な才覚を。だが、王族という鳥籠がそれを封じ込め、無害な『聖女』として振る舞うよう矯正した」


セリスはハッとした。 心当たりがあった。 幼い頃、自分が無邪気に発した言葉で、大人たちが顔色を変え、国の方針すら変わりかけたことが何度もあった。 それを父王は恐れ、「お前は余計なことを喋るな」「ただ祈っていればいい」と厳しく躾けたのだ。 『お前は王族の飾りだ。意思など持つな』と。


「その封印を、俺の刻印がこじ開ける」


シンが魔力を流し込む。 ドクン、とセリスの心臓が大きく跳ねた。


「あ、あああぁぁぁ……ッ!」


熱い。 体の奥底、魂の核にある【才能(ゼロ)】の殻が割れる音がした。 そこから溢れ出したのは、清廉な祈りの光ではない。 もっとドロドロとした、しかし黄金に輝く、絶対的な「支配」のオーラ。


『――対象:セリス・ゼノリスの【才能(ゼロ)】が覚醒しました』 『真名解読……【統率(ルーラー)】を確認』 『カテゴリー:【天才種(ギフテッド)】と認定』 『封印されていた経験値が一気に解放されます』 『派生(ブランチ)獲得:【威圧】【人心掌握】【演説】【思考誘導】【王の威厳】……』


脳内に響く声と共に、セリスの視界がクリアになる。 世界の色が変わった。 アレスの強さが数値として見える。ミラの微笑みの裏にある狂気が読める。 ボルトスの堅牢な守り、チェルシーの潜む闇。 それら全てが、自分の言葉一つで動かせる「盤上の駒」のように感じられた。


「なっ……!?」


アレスが目を見開く。 彼の魔眼が、セリスから溢れ出す黄金のオーラを捉えていた。


「馬鹿な、一瞬で派生(ブランチ)が十個以上も……! 魔力回路の出力も跳ね上がっている……! B+ランク(準英雄級)!? これが【天才種(ギフテッド)】、数万人に一人の逸材だというのですか!?」


「そうだ。彼女は宝石だ。泥を落とせば、この通り輝く」


シンは満足げに頷いた。 震えが止まり、セリスはゆっくりと顔を上げた。


そこにいたのは、もう怯える少女ではなかった。 銀髪が地下の燐光を浴びて輝き、紫の瞳は妖しく細められている。 聖女のように清らかで、同時に悪魔のように蠱惑(こわく)的。 ゾクリとするような二面性を持った「何か」が、そこに立っていた。


「……不思議な感覚です。今まで、霧の中にいたような気分でした。でも今は……自分が何をすべきか、手にとるように分かります」


セリスは自身の白い手を眺め、うっとりと呟く。 掌の中に、力が満ちている。 誰かに守られるだけの力ではない。誰かを従わせ、動かし、跪かせるための力。


「この力があれば、あの方々をどうやって絶望の淵に沈めるか……考えるだけで、胸が高鳴りますわ」


その口元に浮かぶのは、復讐者の笑み。 だが、それは醜悪なものではなく、堕ちた天使のような背徳的な美しさを湛えていた。


「いい顔になった」


シンは玉座に戻り、新たな命令を下す。


「我が組織【細蟹(クモ)】には、武力も、金も、技術も、情報もある。だが、欠けているものが一つだけある」


シンは指を一本立てた。


「『正義』だ。表社会で堂々と振る舞うための、政治的な正当性(レジティマシー)。……セリス、お前がその役割を担え」


「私が……?」


「そうだ。我々は影の組織だ。表に出て国を治めれば、民衆は恐怖し、反発するだろう。 だから、お前が俺たちの【(まつりごと)】の象徴となれ。 民を導き、法を作り、国を動かす。我々が裏で糸を引くための、最も美しい『表紙』になるんだ」


政治の代行者。 傀儡の女王。 それは武力で蹂躙するよりも、遥かに繊細で、今のセリスにとって最も望む役割だった。 自分を捨てた国を、自分の手で支配し、書き換えることができるのだから。


セリスは汚れた囚人服のスカートの端をつまみ、優雅に、かつ不敵にカーテシー(礼)をしてみせた。 それは王宮で習った堅苦しい礼儀ではない。 魔王に仕える魔女としての、洗練された所作。


「はい、シン様。表では清らかな聖女として民を愛し、裏では彼らを意のままに操る女王として……最高のお芝居をご覧に入れましょう」


「うむ。だが、今のままではまだ未熟だ。……ミラ」


「はい、シン様~」


呼ばれた聖女ミラが、ゆったりとした足取りで進み出る。 彼女の背中には、冒涜的なまでに美しい光の翼が揺らめいている。


「セリスをお前の直属とする。表向きの『聖女』としての振る舞い、そして裏での『民心の操り方』を徹底的に仕込め。……妹分として、可愛がってやれ」


ミラは花が咲くような笑みを浮かべ、セリスの手を取った。 その手は温かく、しかしどこか底知れない深淵を感じさせる。


「あらあら、可愛い妹ができて嬉しいわ。安心して、セリスちゃん。 聖女としてどう振る舞えば民衆が涙を流すか、どうすれば彼らが『貴女のためなら死ねる』と思うようになるか……私がたっぷりと教えてあげるから」


「ふふっ、頼もしいお姉様ですこと。……どうぞよろしくお願いいたします、ミラ様」


セリスもまた、花が咲くような、しかし棘のある笑みを返した。 過剰な愛を持つ狂気の聖女と、復讐を誓う傀儡の王女。 二人の波長は、恐ろしいほどに噛み合っていた。


その時、シンが盤上の駒を動かすように言った。


「そう言えば、王都ではお前の捜索が始まっている頃だろうな」


「……はい。ですが、すぐに『死んだこと』にされるはずです。王家にとって、罪人の脱走は恥ですから。おそらく、自殺か秘密裏の処刑として処理されるでしょう」


セリスは冷めた声で答えた。 自分の家族たちの思考など、手に取るように分かる。彼らは保身のためなら、娘の死さえも利用するだろう。


「その通りだ」


シンは、待っていた答えを聞けたかのように深く頷いた。


「奴らが『捜索』よりも『隠蔽』を選ぶことは、数千手前から読めていたことだ。……その沈黙こそが、我々が毒を撒くための最高の土壌となる」


シンは邪悪に(わら)った。 すべては、彼の手のひらの上。


「一度死んだ悲劇の王女が、地獄の底から蘇り、腐敗した国に鉄槌を下す。……民衆はそういう物語が大好きだぞ?」


地下宮殿の闇の中で、蜘蛛たちが嗤う。 地上の太陽が昇る頃、ゼノリス王国はまだ何も知らない。 自分たちが隠蔽しようとした「王女の死」が、やがて国を滅ぼす猛毒となって返ってくることなど。

本日も読んでいただき、ありがとうございます!

セリス、まさかの【ギフテッド】覚醒回でした。

か弱い悲劇のヒロインかと思いきや、中身はとんでもない「女王様」の素質があったようです。

そして、その教育係に選ばれたのはミラ。

アレスの暴力も怖いですが、ミラの「重すぎる愛」と「狂気」の教育は、ある意味で牢獄よりハードかもしれません……(笑)。

もし「覚醒したセリスが良い!」「ミラの妹教育が不安すぎるw」と思っていただけたら、

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続きます。

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