第41話 嘆きの塔、月下の契約
世界は、残酷なほどに静謐せいひつであった。
王都ゼノリスの北端。断崖絶壁の上に突き立つ、一本の巨大な墓標の如き石造りの巨塔。 『嘆きの塔』。
王家の罪人、あるいは歴史から抹消すべき不都合な存在を幽閉し、生かさず殺さず飼い殺しにするための絶対隔離施設。 その最上階にある独房は、石造りの冷気と、染み付いたカビの臭い、そして歴代の囚人たちが遺した絶望の残滓ざんしで満たされていた。
鉄格子の嵌められた小さな窓から、蒼白い月光が差し込んでいる。 その光の中に、一人の少女がうずくまっていた。
セリス・ゼノリス。 この国の第三王女にして、かつて「白百合の姫」と民衆に謳うたわれた少女である。
だが、今の彼女にその面影はない。 自慢の銀髪は埃と脂で汚れ、艶を失って灰色に沈んでいる。宝石のアメジストを思わせる紫の瞳は、光を失い、虚ろに床の染みを見つめていた。 身に纏まとっているのは、かつての豪奢なドレスではなく、薄汚れた麻の囚人服だ。
「……っ」
セリスが身じろぎすると、ジャラリと重い音が響いた。 彼女の細い手首と足首には、黒光りする重厚な手枷と足枷が嵌められている。 ただの拘束具ではない。表面にびっしりと封印の術式が刻まれた、国家最高機密級の呪具『魔封じの枷』だ。
(……重い)
肉体的な重さではない。 自身の内側にある「何か」――彼女自身も正体を知らぬまま抱え続けてきた、奔流のような力が、この枷によって無理やり堰き止められている不快感。 まるで、体中の血管に泥を詰め込まれたような息苦しさが、彼女を苛さいなんでいた。
脳裏に蘇るのは、十日前の宴の光景だ。
『――お前がやったのか、セリス』 『父上のワインに毒を盛るとは、なんと浅ましい』
第一王子ギルバートの、勝ち誇ったような歪んだ笑み。 第二王女ソフィアの、虫を見るような冷徹な蔑すみ。 そして何より、愛娘を庇かばうどころか、汚らわしいものを見るような目で一瞥いちべつし、背を向けた父王の姿。
無実の罪。 そんな言葉は、この国では何の意味も持たない。 真実とは、権力を持つ者が語る言葉のことなのだから。
「……殺して」
乾いた唇から、掠かすれた声が漏れる。
誰も助けには来ない。忠誠を誓ってくれた近衛騎士たちも、セリスの乳母も、皆、買収されたか、あるいは口封じに消されたのだろう。 神様。 幼い頃、教会で教わった神の教えを思い出す。『正しき者は救われる』。 嘘だ。現実は、狡賢ずるがしこい者が生き残り、清廉な者が泥を啜すする。
(もしも……もしも、やり直せるなら)
セリスの瞳に、暗い炎が灯る。 それは慈愛に満ちた聖女の瞳ではなく、傷ついた獣のそれだった。
(この国を、正してみたい。たとえそれが、血に塗れた道だとしても)
その時だった。
――カサッ。
微かな音が、静寂を破った。 石壁を何かが這うような、乾いた音。
セリスは顔を上げた。 鉄格子の向こう、月明かりを背にして、一匹の黒い蜘蛛が窓枠に留まっている。 王都のどこにでもいるような、小さな蜘蛛。 だが、その八つの単眼は、奇妙なほどに知性的な光を宿してセリスを見つめていた。
蜘蛛は音もなく鉄格子の隙間をすり抜け、牢獄の中へと侵入してくる。 そして、セリスの足元まで這い寄ると、ふわりと跳躍した。
空中で、黒い靄もやが爆ぜた。
「――ッ!?」
セリスは息を呑んだ。 黒い靄が凝縮し、人の形を成していく。 現れたのは、一人の少年だった。
歳は十五、六ほどだろうか。 色素の薄い茶髪に、どこか気だるげな黒い瞳。服装は質素な冒険者の旅装束だ。 腰には安物の短剣を差しているだけの、どこにでもいそうなFランク冒険者。
だが、その少年は、まるで自分の部屋にいるかのようにリラックスした様子で、石床に音もなく着地した。
「やあ。随分と酷い部屋だな。ネズミの巣の方がまだマシだ」
少年――シンは、皮肉っぽく口の端を歪めた。 あまりにも場違いな訪問者。 セリスは壁に背を押し付けたまま、警戒心を露わにする。この塔には、王宮魔導師団が総力を挙げて構築した【対物理・対魔法多重結界】が張られているはずだ。それを、この少年はどうやって……。
「あ、あなたは……誰? どうやってここに……」
「俺か? 通りすがりの荷物持ちさ」
シンは淡々と言った。 だが、その瞳の奥には、少年のものとは思えない冷徹な光が宿っている。 彼は怯えるセリスに近づくと、遠慮もなくその顔を覗き込んだ。 そして、彼女の手足に嵌められた『魔封じの枷』に視線を落とし、鼻を鳴らした。
「……ほう。ただの飾り人形かと思っていたが、中身は化け物じゃないか」
「え……?」
「その枷。特級の罪人……それも、Sランク級の魔導犯罪者を封じるための代物だぞ。それをこんな小娘に四つも使うとはな」
シンは興味深そうに目を細める。 彼の魔眼には見えていた。 少女の華奢な肉体の内側に、封印され、圧縮され、行き場を失って暴れ回る、莫大な魔素の奔流が。
位階B+(準英雄級)。
生まれつき強大な魔力を持つ天才種。 王家においても数世代に一人現れるかどうかの逸材。 だが、彼女自身はその力の使い方も知らず、周囲もそれを「危険な異物」として恐れ、封印することで解決しようとしたのだ。
「宝の持ち腐れとはこのことだ。……B+ランクの魔力炉を持ちながら、使い方も知らずに腐らせているとは」
シンは心底呆れたように、そして僅かな怒りを含んだ声で吐き捨てた。
「これだから人間は、資源の使い方が下手くそだ」
彼にとって、それは許しがたい「浪費」だった。 使える素材を、使わずに殺す。それは始祖である彼の美学に反する。
「セリス・ゼノリス。お前は、自分が何者か分かっていないようだな」
「な、何を……言って……」
「お前は被害者じゃない。……使いこなせない力を抱えて溺れている、ただの子供だ」
シンは一歩、セリスに近づく。 たった一歩。それだけで、部屋の空気が変わった。重力が彼を中心に歪んだような錯覚。
「俺の組織レギオンには、国を一つ落とすための『悲劇のヒロイン』が必要でな。……お前に二つの選択肢をやろう。このまま明日、断頭台で首を刎はねられるか。それとも――」
シンはそこで言葉を区切り、右手を軽く挙げた。
「――俺の手を取って、復讐の女王になるか」
その指が、乾いた音を立てて鳴らされた。
パチン。
刹那。
世界から「音」が消えた。
「え……?」
セリスは目を見開いた。 窓の外、風に揺れていた雲が、絵画のように空に張り付いている。 舞い上がっていた床の埃が、空中でピタリと静止している。 塔を吹き抜けていた風の音も、遠くで聞こえていた夜警の足音も、すべてが消失していた。
時間停止。 かつてシンが捕食した『時喰らい』の権能を応用した、世界そのものの凍結。
静止した灰色の世界。 その中で、少年の姿が陽炎のように揺らぐ。
「大事な商談だ。……『この姿』で話そうか」
少年の声が、重低音を帯びた威厳あるものへと変わる。 黒い靄が再び彼を包み込み――そして、晴れた。
「ひ、ッ……!」
セリスは喉を引きつらせ、その場にへたり込んだ。 そこに立っていたのは、先ほどの少年ではなかった。
年齢は十八歳ほど。 漆黒の長衣を纏い、背丈は伸び、顔つきは美しくも冷酷な彫像のように変貌している。 何より異質なのは、その背後だ。 止まった時の中で、彼の背後からだけは、禍々しくも神々しい「何か」――蜘蛛の脚のような闇のオーラが立ち昇り、天井を突き抜けるほどに渦巻いていた。
生物としての格が違う。 15歳の少年が「皮」であるなら、これが「中身」。 数万年を生き、神話の魔物すら捕食してきた【始祖】としての真の姿。
「こ、れは……あなたが、さっきの……?」
「怖がることはない。俺は『飼い主』には甘いんだ」
シンはセリスの頬に手を添えた。 その手は温かく、同時に、魂を鷲掴みにされるような絶対的な支配力を放っていた。
「俺と契約しろ、セリス。そうすれば、お前に『力』をやる。復讐したいのだろう? ギルバートも、ソフィアも、お前を見捨てた父親も……全員、お前の足元に這いつくばらせてやる」
悪魔の誘惑。 だが、それはあまりにも甘美で、セリスの渇いた心に染み渡った。
「条件は?」
「お前の『全て』だ。心も、体も、魂も。これからは俺のために生き、俺の操り人形マリオネットとして国を騙せ」
「……その代わり、この無駄に有り余る魔力の『使い方』を教えてやる」
シンは、彼女の手首にある枷を指先でなぞった。
「お前のその力……【祈り】などという受動的なものではない。もっと攻撃的で、他者を踏みにじり、支配するための王の資質だ」
セリスはハッとした。 心当たりがあった。幼い頃、自分が無邪気に発した言葉で、大人たちが顔色を変え、国の方針すら変わりかけたことが何度もあった。 それを父王は恐れ、「お前は余計なことを喋るな」「ただ祈っていればいい」と厳しく躾けたのだ。 それは、彼女の才能を恐れての封印だったのか。
「その封印を、俺の刻印がこじ開ける」
シンが魔力を流し込む。 ドクン、とセリスの心臓が大きく跳ねた。
「あ、あああぁぁぁ……ッ!」
熱い。 体の奥底、魂の核にある【才能】の殻が割れる音がした。 そこから溢れ出したのは、清廉な祈りの光ではない。 もっとドロドロとした、しかし黄金に輝く、絶対的な「支配」のオーラ。
『――対象:セリス・ゼノリスへの【契約】成立』 『才能の強制進化を開始します』 『【祈り】 → 【統率】へ変質』 『第一恩恵:【女王の威光】を付与』
脳内に響く声と共に、セリスの視界がクリアになる。 世界が、自分の言葉一つで動かせる盤上のように感じられた。 これまで自分を縛り付けていた「聖女」という殻が砕け散り、その中から「女王」が孵化する感覚。
「……いいわ。くれてやる。私の全てを」
セリスは、シンの手を両手で包み込むように握り返した。 涙が溢れた。それは悲しみの涙ではなく、絶対的な主に出会えた歓喜の涙だった。
「私はもう、誰かのために祈る聖女じゃない。……あなた様のために、この国を焼き尽くす火種になりましょう」
「賢明な判断だ。歓迎しよう、セリス」
シンが満足げに笑う。 真の姿でなければ扱えない、原初の魔力が解き放たれる。
「――忠誠の刻印」
ジュッ……。 セリスの右の手の平に、漆黒の蜘蛛の紋章が焼き付けられる。 それは、彼女が細蟹の眷属となった証。
「良し。これで契約は完了だ」
シンが手を離すと、立ち昇っていた闇のオーラが収束していく。 18歳の魔王の輪郭が縮み、再び15歳の少年の姿へと戻った。 圧倒的な威圧感は消え、どこにでもいるFランク冒険者の雰囲気が戻る。
「行くぞ」
少年姿のシンが再び指を鳴らす。
パチン。
世界が色を取り戻し、止まっていた風が再び吹き抜けた。 時は動き出した。だが、セリスの世界はもう以前とは違う。 彼女はもう知ってしまった。このあどけない少年の皮の下に、世界を喰らい尽くす怪物が潜んでいることを。
「待って……ここからどうやって? 結界は……」
「結界? ああ、これか」
シンは鉄格子に触れようとした。 だが、その手を止める。そして、試すような目でセリスを見た。
「いや。……お前がやれ」
「え?」
「お前はもう、ただの少女じゃない。B+ランクの魔力を持つ支配者だ。……その程度の枷、自分の力で壊してみせろ」
セリスは自分の手首を見た。 黒光りする魔封じの枷。 今まで、どれだけ力を込めても、祈っても、ビクともしなかった絶望の象徴。
だが、今は違う。 体の中に、シンから注がれた熱い闇が渦巻いている。 枷が魔力を吸い取ろうとする力を、遥かに上回る出力で、魔力が溢れ出している。
「……はい」
セリスは瞳を閉じた。 祈るのではない。命じるのだ。 自分の魔力に。そして、この物質に。
(壊れなさい)
カッ! セリスの全身から、紫色の魔力光が噴き出した。 それは枷の許容量を一瞬で超え、内部の術式回路を焼き切った。
バキィッ!!
硬質な破壊音。 魔封じの枷が、内側から弾け飛び、鉄屑となって床に散らばった。
「……できた」
セリスは震える手を見つめた。 力が戻ってくる。いや、以前よりも遥かに強大で、鋭い力が。
「いい牙だ」
シンがニヤリと笑った。 その笑顔は、少年の無邪気さの中に、捕食者の獰猛さを隠し持っている。
「その力で、この国を喰い荒らせ。……お前ならできる」
「はい、我が主……」
シンは宙に浮き、窓枠の鉄格子を飴細工のように捻じ曲げて道を作った。 砕けた結界の向こう、夜空が広がっている。
「最後に一つ、命令だ」
シンが悪戯っぽく唇に指を当てる。
「外では俺を『弟』として扱え。俺はただのFランク冒険者だ。……少しでもボロを出したら、お仕置きだからな?」
その目は笑っていない。 セリスは背筋を震わせながら、深く頷いた。 それは恐怖であり、同時に秘密を共有する共犯者としての背徳的な悦びでもあった。
「かしこまりました。……私の、可愛い弟」
セリスはその手を取った。 彼女の口元が、三日月のように妖艶に歪む。 それは、堕ちた聖女が見せる、初めての「魔性の笑み」だった。
二人の姿が夜空へと溶ける。 塔の最上階には、砕けた鉄格子と、千切れた枷の残骸だけが残された。
翌朝、牢獄がもぬけの殻になっていることを発見した看守の悲鳴が、王都の朝霧を切り裂くことになる。 だが、それはまだ序章に過ぎない。 亡国の王女は死に、世界を喰らう蜘蛛の眷属が、ここに誕生したのだから。
本日も読んでいただき、ありがとうございます!
いよいよ第2章「傀儡の王国」編、開幕です。
第1章の「武力による蹂躙」とは一味違う、謀略と演技による「国盗り」が始まります。
わざわざ時を止めてまで契約を迫るシン様。
最強の能力を「口説き文句」の演出に使うあたり、さすが始祖の余裕(慢心?)ですね。
もし「第2章の開幕にワクワクした!」「シンの魔王ムーブが良い!」と思っていただけたら、
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続きます。




